キング・オブ・Bムービー
監督として、プロデューサーとして生涯500本以上の低予算カルト映画を世に送り出し、「キング・オブ・Bムービー(B級映画の帝王)」の異名で呼ばれたロジャー・コーマンさんが、5月9日に自宅のサンタモニカで死去したことが地元メディアから伝えられた。
コーマンさんは数々のB級作品を手掛けるだけでなく、新たな才能発掘にも定評があり、のちの人気俳優や名監督を見いだしたことでも知られていた。享年98歳。
故人を敬愛していたジョン・カーペンター監督からは「私の人生にもっとも影響を与えた映画監督の1人であるロジャー・コーマンが亡くなった。彼と知り合えたことは私の栄誉だった」と哀悼の言葉が寄せられている。
多くの若い人材を発掘
コーマンさんは1926年生まれのミシガン州デトロイト出身。14歳のとき一家がハリウッドに引っ越したのに伴い、ビバリーヒルズ高校へ進学。ここで「狂」が付くほどの映画マニアとなる。
高校卒業後の2年間を海軍で過ごしたあと、46年にはスタンフォード大学に入学。工学エンジニアリングを学んでUSエレクトリック・モータースに入社するが、わずか4日間で退職。20世紀フォックス社のメッセンジャーボーイとして働きながら、オックスフォード大学で英文学を学び直した。
そのあとローカルテレビ局の裏方など、職を転々としながら、こつこつと脚本を執筆。すると54年に書いた『Highway Dragnet』がアライド・アーティス社に売れ、自らプロデューサーを務めて映画を完成。同時に”ロジャー・コーマン・プロ” を設立し、映画製作業に乗り出す。
55年には、配給を受け持ったARC社から共同出資を前提に演出を任され、西部劇『あらくれ5人拳銃』で初監督。以降、『荒野の待ち伏せ』『原始怪獣と裸女』『女囚大脱走』『早撃ち女拳銃』など、低予算による娯楽B級映画を次々と発表。これらの作品でリー・ヴァン・クリーフ、ロバート・ボーン、チャールズ・ブロンソンらをいち早く主役として起用した。
60年代からはエドガー・アラン・ポーによる怪奇小説の映画化を手がけ、『アッシャー家の惨劇』などが好評を得て成功。60年公開のホラー映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』はカルト的人気を博し、世間からも注目される人物となった。
この頃コーマン作品のスタッフや俳優として関わっていたのが、フランシス・コッポラ、ピータ・ボグダノヴィッチ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン、ピーター・フォンダといった若い映画人たち。ホッパー、ニコルソン、フォンダの3人は、のちにアメリカン・ニューシネマの傑作『イージー・ライダー』(69年)を生み出した。
70年には配給も担当する ”ニュー・ワールド・ピクチャーズ” を設立。経費節約のため新人を起用してB級映画を次々と制作し、マーティン・スコセッシ、ジョー・ダンテ、ジョン・セイルズなどの人材を発掘。他にもジェームズ・キャメロン、ジョナサン・デミ、ジョン・ミリアス、ロバート・デ・ニーロ、トミー・リー・ジョーズらがコーマンの元でキャリアをスタートさせている。
83年には ”ニュー・ワールド・ピクチャーズ” を(規模が大きくなりすぎたという理由から)手放し、新たに ”コンコード・ピクチャーズ” を設立。以後も夫人のジュリー・コーマンとともにプロデューサーを務め、多くのB級映画を世に送り出した。
コーマンが低予算映画にこだわったのは、小規模作品なら赤字の危険性も少ないと考えたからと言われており、『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか ロジャー・コーマン自伝』という本も出している。