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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ジェルジ・シャーロシ(ハンガリー)

 

ハンガリーの英雄」

積極果敢なドリブルとエレガントな身のこなしで観客を魅了し、高い得点力でゴールを量産した1930年代の名選手。攻撃から守備までこなしながらリーダーシップを発揮し、チームに多くの栄冠をもたらした。その威名を欧州に轟かせ、「ハンガリーの英雄」と呼ばれたのが、ジェルジ・シャーロシ( György Sárosi )だ。

 

ハンガリーの名門フェレンツヴァロッシュTCで選手のキャリアを貫き、チームの大黒柱として5度のリーグ優勝と4度の国内カップ制覇に大きく貢献。37年には国際大会ミトローパ・カップ優勝の立役者となり、クラブに不滅の伝説を残した。

 

ハンガリー代表には18歳で初選出。37年の中央ヨーロッパカップでは、強豪チェコスロバキアを相手に1人7得点を叩き出すという離れ業を演じ、世界を驚嘆させた。38年フランスW杯では代表キャプテンとしてチームを率い、5得点を挙げハンガリーを大会準優勝に導く。

 

フェレンツヴァロッシュのホープ

ジェルジ・シャーロシ(ハンガリー標記ではシャーロシ・ジェルジ)は1912年9月15日に首都ブダペストで、ハンガリー人の父とイタリア人の母の間に生まれた。ジェルジには2人の弟がおり、次男のラースロはのちに水球選手として活躍。末っ子のベラはジェルジとともにサッカーの道へ進み、代表選手にもなっている。

運動能力に優れたシャーロシはサッカーの他にテニス、卓球、水球陸上競技と様々なスポーツに取り組むが、それらは純粋に趣味として楽しむだけ。将来の夢は弁護士になることで、そのための勉学に励んでいた。

しかし仕立屋の仕事に苦労していた父は、持って生まれたスポーツの才能を活かすよう息子に強く説得。シャーロシはその説得を受け入れ、KISOKリーグに所属する学校のチームで本格的なサッカーを開始。その卓越したプレーはすぐに認められ、15歳で名門フェレンツヴァロッシュTCの下部組織に入団する。

しばらくユースアカデミーで技量を磨いたあと、31年3月のバスティア戦でトップリーグデビュー。5月のペチ・パラニャ戦でプロ初ゴールを記録する。こうして1年目の30-31シーズンは、公式戦11試合2ゴールの成績を残した。

186㎝と長身だったシャーロシは当初センターバックとして起用されるが、すぐに攻撃の選手として頭角を現し、2年目の31-32シーズンは公式戦27試合7ゴールの成績。チームの4季ぶりとなるリーグ優勝に貢献する。

翌32-33シーズンは公式戦25試合13ゴールと活躍。リーグ2連覇は逃すも、ハンガリーカップ決勝では国内王者のウジペストを11-1と粉砕して4年ぶりの優勝。この決勝戦で20歳のジョルジは、3ゴール4アシストと圧倒的なパフォーマンスを披露した。

33-34シーズンは公式戦25試合31ゴールとさらに進化。2季ぶりとなるリーグ優勝の立役者となり、21歳にして欧州最高峰の選手と認められるまでになった。

 

初のW杯出場

プロ1年目の31年5月に代表初招集。親善試合のユーゴスラビア戦で18歳での代表デビューを飾った。

しばらくディフェンダーとしてプレーしていたが、クラブでの活躍に伴い、代表キャップ15試合目のスウェーデン戦(33年7月)で初めて中盤の攻撃的ポジションに起用。さっそくゴールを記録する。

そのあと招集されたW杯欧州予選や中央ヨーロッパカップでも顕著な活躍を見せ、シャーロシは若くしてハンガリー代表の中核を担う選手と期待されるようになった。

34年5月、Wカップ・イタリア大会が開幕。大会は参加16ヶ国による勝ち抜きトーナメント方式で行なわれた。

トーナメント1回戦はエジプトと対戦。ジョルジは怪我により欠場を余儀なくされたが、ハンガリーは格下相手に4-2の勝利。順当にベスト8へ進む。

準々決勝の相手は隣国のライバル、オーストリアオーストリアは「サッカーのモーツァルト」の異名を持つマティアス・シンデラーら多くの優秀なタレントを擁し、第2回中央ヨーロッパカップ(31-32年)を制覇。その圧倒的な強さで「ヴンダーチーム(驚異のチーム)」と呼ばれ、恐れられていた強豪だった。

シャーロシはこの試合でインナーハーフとしてW杯初出場。試合は開始8分にオーストリアの先制を許し、後半51分にも失点。怪我の影響で決して好調ではなかったシャーロシだが、60分にはPKを任されW杯初ゴール。ここから猛攻撃を仕掛けて流れはハンガリーに傾きかけるも、右ウィングのマルコシュがラフプレーにより退場。チームは一気に勢いを失い、1-2の敗戦。宿敵「ヴンダーチーム」を打ち破ることは出来なかった。

 

ドクター・シャーロシ

34-35シーズンはリーグ戦20試合21ゴールの好成績。惜しくも1点差でランク2位に留まるが、翌35-36シーズンは21試合37ゴールの大活躍。リーグ優勝を逃すも、初の得点王を獲得する。

ハンガリー代表でも不動のエースへと成長。第3回中央ヨーロッパカップ(33-35年)でハンガリーはイタリア、オーストリアに続く3位に終わるが、シャーロシは7得点を挙げて大会得点王に輝く。

またサッカー選手となってからも合間を見つけて勉学に励んでいたシャーロシは、この頃法律の学位を取得。ファンから「ドクター・シャーロシ」と呼ばれるようになる。

そのキャリアの頂点で輝きを見せたのが、36-37シーズンだった。リーグ戦では19試合29ゴールの成績。リーグ優勝と2度目の得点王を逃してしまうが、ミトローパ・カップでは大車輪の活躍を見せる。ミトローパ・カップとは、当時ヨーロッパで最も権威があるとされた国際クラブ選手権である。

フェレンツヴァロッシュは、トーナメントの第1回戦でチェコスロバキアの強豪、スラヴィア・プラハを2戦合計5-3と撃破。準々決勝ではオーストリアの古豪、ファースト・ウィーンと大接戦を演じてプレーオフにもつれるが、2-1と大一番を制して準決勝に進む。

準決勝の相手は、前年王者のオーストリア・ウィーン。あのマティアス・シンデラーを擁する、当時欧州屈指の強豪だった。

アウェーでの第1戦は、負傷者が続出して1-4の完敗。チームは敗退の危機に追い込まれる。しかしホームでの第2戦は、フェレンツヴァロッシュが6-1と奇跡の大勝利。2戦合計7-5と逆転し、決勝へ勝ち上がった。シャーロシは2ゴールを挙げるだけでなく、守備ではシンデラーを抑えて勝利に大きく貢献した。

 

ミトローパ・カップ優勝の立役者

決勝で雌雄を決することになったのが、イタリアのラツィオ。欧州最高のストライカーと謳われたシルビオ・ピオラを擁し、36-37シーズンはセリエA2位の好成績を残した難敵である。

ホームでの第1戦は、1-1で折り返した後半53分にシャーロシのゴールで勝ち越し。59分にもシャーロシの追加点が生まれる。

64分にはピオラのゴールで1点差に迫られるが、73分にシャーロシのハットトリックで突き放し、4-2の勝利を収めた。

アウェーでの第2戦は開始4分にラツィオの先制を許すも、6分にはシャーロシがPKを沈めて同点。8分には再びシャーロシがゴールを決め、2-1とリードする。

しかし19分にピオラのゴールで追いつかれると、24分にはピオラが逆転弾。36分にもピオラがハットトリックでリードを広げられるが、直後に1点を返して3-4。激しい撃ち合いのうち前半を終えた。

後半はリードを許したまま終盤まで進むが、71分にジュラ・キッスのゴールで同点。73分にはシャーロシの2試合連続ハットトリックで勝ち越し、5-4の逆転勝利。2戦合計9-6としたフェレンツヴァロッシュが、10年ぶり2度目の優勝を成し遂げる。

大会MVPに輝いたシャーロシは、12ゴール2アシストの活躍に加えて、守備でも相手エースを抑えて優勝に貢献。ライバルのピオラは「ある試合では後ろにいて、次の試合では中盤や前線にいた。彼はおそらく世界最高のディフェンダーで、最高のミッドフィルダー、最高のストライカーだ」と、その万能ぶりに呆れるほかなかった。

 

中央ヨーロッパカップの快挙

ハンガリー代表でも不動のエースとして活躍。37年9月に行なわれた第4回中央ヨーロッパカップ(36-38年)のチェコスロバキア戦では、一人で7得点を叩き出すという快挙(試合は8-3の勝利)を達成する。

チェコスロバキアは名ゴールキーパーのプラニーチカや点取り屋のネイエドリーを擁し、34年のイタリアW杯で準優勝に輝いた欧州屈指の強豪国。当代最高の名手とリスペクトされたプラニーチカから7得点を奪うという離れ業を演じたシャーロシは、ミトローパ・カップでの活躍と合わせて「ハンガリーの英雄」と呼ばれるようになる。

シャーロシ率いるハンガリー中央ヨーロッパカップの首位に立ち、大会初制覇も間違いないと思われた。だが大会最終年の38年、参加国のオーストリアナチスドイツに併合されたことにより、残り試合未消化のまま中止が決定。ハンガリーの優勝は幻に終わり、悲願とするビッグタイトル獲得の望みは、間近に迫ったW杯へと持ち越された。

 

届かなかったW杯のタイトル

38年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。シャーロシはキャプテンとして2度目の大舞台に臨んだ。

大会は前回と同じくトーナメントによる勝ち抜き方式だったが、出場が決っていたオーストリアチームがドイツに併合され直前に消滅。残り15ヶ国で覇権を競うことになった。

初戦はオランダ領東インド(現インドネシア)に6-0の圧勝。シャーロシが2得点、新鋭ジェンゲレールが2得点と攻撃陣が爆発し、アジアの格下チームを粉砕した。

準々決勝はスイスと対戦。前半43分にシャーロシが先制点を決めると、終了直前の90分にはジェンゲレールが追加点。ハンガリーが余裕の試合運びで2-0と勝利し、ベスト4に進んだ。

準決勝の相手はスウェーデン。開始わずか35秒で先制を許すも、19分にオウンゴールで同点。37分にシャーロシのアシストで逆転すると、39分にはジェンゲレールが追加点。3-1のリードで前半を折り返す。

さらに後半にもシャーロシとジェンゲレールが1点ずつを挙げ、5-1の快勝。この試合シャーロシが1ゴール3アシストと最高のパフォーマンスを発揮し、ハンガリーを決勝へと導く。

決勝で戦うのは、シルビオ・ピオラ、ジュゼッペ・メアッツア、ジョバンニ・フェラーリジーノ・コラウシら豪華布陣を整えたイタリア。シャーロシはジュール・リメ杯獲得を目指し、大会連覇を狙う強敵に挑んだ。

開始6分、メアッツアのパスからコラウシにゴールを決められ失点。それでも直後の8分にはシャーロシのワンタッチパスでティトコシュの同点ゴールが生まれ、たちまち追いついた。しかし19分にピオラの勝ち越し点を許すと、35分にもコラウシの得点でリードを広げられてしまう。

劣勢のまま迎えた後半70分、ゴール前の混戦からシャーロシが1点を返し、ハンガリーが反撃体勢に入った。だが82分にはピオラが勝負を決める4点目。シャーロシの粘り虚しく、イタリアに2-4と敗れてしまう。

ハンガリーのW杯初優勝はならなかったが、シャーロシ4試合5ゴール3アシストの活躍は、50年代「マジック・マジャール」の栄光に先立つ偉業として同国の歴史に刻まれることになった。

だがW杯終了後の9月に第二次世界大戦が勃発。シャーロシの代表キャリアは40年のルーマニア戦を最後に終了を余儀なくされた。18年の代表歴で62試合に出場、42ゴールを挙げている。

 

ハンガリーの偉大な選手

第2次大戦中も国内サッカーは中断することなく、シャーロシは38年、40年、41年のハンガリーリーグ優勝、42年、43年、44年のハンガリーカップ3連覇に貢献。40年、41年にはリーグ得点王に輝き、フェレンツヴァロッシュの30~40年代黄金期を支えた。

第二次大戦後の48年に36歳で現役を引退。フェレンツヴァロッシュ一筋の18年間で公式戦450試合に出場し、421ゴール190アシストの記録を残した。

現役引退後はイタリアへ渡り、48年にはセリエAの強豪バーリの監督に就任。そのままイタリアに定住し、77年まで10チームにのぼるクラブの監督を歴任。51-52シーズンには名門ユベントスを率い、セリエA優勝のタイトルを得た。

監督業を退いた後もイタリアに住み続け、ジュニア選手の指導・育成に尽力する。1993年6月、自宅を構えていたジェノバで死去。没年80歳だった。99年にはその功績が讃えられ、ワールド・サッカー誌による「20世紀の偉大な選手100人」に選ばれている。