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アラン・ドロンさん死去

 

映画界を代表する二枚目俳優

太陽がいっぱい』『山猫』『冒険者たち』などの作品で知られ、映画界を代表する二枚目として60~70年代に大人気を博したフランスの俳優、アラン・ドロンさんが仏中部にあるロワレ県ドゥシーの自宅で、18日に亡くなったことが欧州のメディアから伝えられた。

詳しい死因は公表されていないが、2019年には脳出血による手術を受け、長く療養生活を送っていたという。没年88歳。

最期を看とった親族からは「3人の孫、家族に囲まれて安らかに亡くなった」との声明が寄せられている。

 

問題児としての少年期

ドロンさんは1935年11月、パリ郊外のセーヌ県ソー生まれ。父は映画館の経営者で、母はその劇場で働く案内役だった。

4歳の時に両親が離婚。幼くして里親へ預けられるが、住居に隣接するフレンヌ刑務所での戦争犯罪者を処刑する射撃音を耳にし、一生のトラウマを抱えることになったという。

里親の死亡で共同親権を持つ両親の元に帰されるも、父・母ともすでに別の家庭を持っており、邪魔者扱いされてしまう。

こうして両親の愛情を知らずに育ったドロン少年は、素行不良となって寄宿舎を転々。学校を辞めて義父が経営する加工肉屋で働くが、喧嘩や女遊びを繰り返すなど問題児ぶりは相変わらずだった。

そのため17歳のとき、フランス海軍に入隊させられインドネシア戦争に従軍。だがここでも軍のジープを盗んで勝手にドライブし、川に水没させるという不祥事。独房に収監されるトラブルを起こす。ちなみこの兵役時、ジャン・ギャバンの映画を観て感銘を受け、俳優を意識するようになった言われる。(ギャバンとは、のちに『地下室のメロディー』で共演)

 

出世作太陽がいっぱい

休戦協定が成立した55年に除隊。そのあとアメリカやメキシコを放浪し、21歳となった56年にフランスへ帰国する。

帰国後は港湾労働者やウェイターなど様々な仕事を経験。その甘いマスクで女性が途切れることなく、ときにジゴロのような生活を送っていたという。

57年にはヒッチコック監督『泥棒成金』への出演経験もある女優、ブリジット・オベールと知り合い、彼女に「カンヌ映画祭の会場で歩いてみたら。あなたほどのルックスなら、誰かに声を掛けられるかもよ」と勧められる。

するとその思惑通り、ハリウッドの有名エージェントであるヘンリー・ウィルソンからスカウト。これをきっかけに俳優の道へ進み、57年のフランス映画『女が事件にからむとき』で銀幕デビューを果たす。

翌58年、ロミー・シュナイダー主演『恋ひとすじに』で相手役に抜擢。当時無名の若手俳優だったドロンだが、主演のロミーとたちまち恋に落ち、二人は特別な関係となった。

こうした恋愛ゴシップの話題もあり、59年のコメディ『お嬢さん、お手やわらかに』で初主演。世間にその名が認知される。

60年、名匠ルネ・クレマン監督によるサスペンスの傑作『太陽がいっぱい』に主演。野心のままに殺人を犯す青年トム・リプリーを好演し、映画は大ヒットを記録。これがドロンさんの出世作となり、類い希なる美貌は世界の女性を魅了した。

その後も『若者のすべて』『山猫』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)、『地下室のメロディー』(アンリ・ヴェルヌイユ監督)、『冒険者たち』(ロベール・アンリコ監督)『サムライ』(ジャン=ピエール・メルビル監督)などの名作・話題作に出演。

こうして映画界を代表する美男子として人気を博するようになり、日本では「アラン・ドロン」の名前がハンサムの代名詞として使われた。

 

元ボディーガード殺人事件

63年にロミー・シュナイダーと別れたドロンは、64年には共演女優であるナタリー・バルテレミー(のちナタリー・ドロンとして活動)と結婚。しかしその後も女性との艶聞が絶えることなく、3人の子供のほかに、認知していない複数の婚外子もいたという。

68年には元ボディーガードであるマルコビッチの射殺体が、ゴミ捨て場で発見されるという事件が発生。マルコビッチはドロンさんの男愛人だと噂されており、妻ナタリー・ドロンとの不倫関係も判明。ドロンさんは犯行の重要参考人として警察に連行され、前代未聞のスキャンダルは世間を騒然とさせた。

しかし証拠不十分によりほどなく釈放。ドロンさんは何事もなかったように映画界に復帰し、『シシリアン』『ボルサリーノ』『仁義』などのフィルム・ノワールで存在感を発揮。暗い陰を帯びた危険な男のイメージを浸透させ、その人気は衰えることがなかった。

ちなみに『ボルサリーノ』では、当時フランス映画界の人気を二分していたジャン=ポール・ベルモントと初の本格共演。(共演自体はデビュー2作目『黙って抱いて』以来2度目)二人は98年の『ハーフ・ア・チャンス』でも再共演を果たした。

 

トラブル続きの生涯

日本でも絶大な人気を誇り、主演映画のPRなどでたびたび来日。71年には異色西部劇『レッド・サン』(テレンス・ヤング監督)で三船敏郎と共演している。

また実業家としての顔も併せ持ち、自身のブランドからスーツやネクタイ、香水などの事業を展開。ビジネスでも幅広く活動した。

80歳を過ぎた17年に俳優業の引退を発表。19年にはカンヌ国際映画祭で名誉パルムドールを授与される。これが公式の場で見せた最後の姿となった。

しかし近年までトラブルに見舞われ、脳出血の手術を受けた17年には治療方法を巡って子供たちと訴訟合戦に発展。ドロンさんと同居していた日本人女性が子供たちを提訴し、大きなニュースとなる。

さらに今年2月、自宅に銃72丁、弾薬3000発以上を無許可で所持していたとして、当局に押収されるという騒動を起こし、晩年まで話題を提供した。