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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》フランク・ランパード(イングランド)

 

「異能のミッドフィルダー

恵まれた体格と豊富な運動量で守備を支え、狙い澄ましたロングパスでチャンスを創出。さらに左右の足から強烈なシュートを放ち、多くの得点を生み出したハイブリッド型MF。そのオールラウンドな能力でパーフェクトな選手と評されたのが、フランク・ランパード( Frank James Lampard Jr. )だ。

 

ウェストハムで頭角を現すと、01年には同じロンドンのチェルシーへ移籍。石油王アブラモビッチのもとでビッグクラブ化を進めるチームの中心選手となり、04-05シーズンのプレミアリーグ初制覇に大きく貢献。FWA年間最優秀選手賞に輝き、モウリーニョ監督から「世界最高の選手」と称賛された。

 

イングランド代表では3度のW杯と2度のユーロ大会に出場。06年ドイツW杯では、ベッカム、ジェラード、ジョー・コールと豪華な中盤を組んでベスト8進出。10年W杯南ア大会のドイツ戦では、ランパードのゴールが誤審で認められないという不運に見舞われ、惜しくもベスト16敗退となった。

 

サッカー界のサラブレッド

フランク・ランパードは1978年6月20日、ロンドン北東部に位置するロンフォードのヘイヴァリング地区に生まれた。

フランク・ランパード・シニアと、母方の叔父であるハリー・レドナップは、かつてウェストハム・ユナイテッドで活躍したサッカー選手。従兄弟のジェイミー・レドナップものちにプロの道へ進むという、生粋のフットボール一族だった。

裕福な家庭で育ち、サッカーのほかクリケットでも地域の代表選手に選ばれるなどスポーツ万能。また150を越えるIQを持ち、エリート校のブレントウッド・スクールに通うなど学業でも優秀な成績を収めていたという。

5歳で地元クラブのヒース・パークへ入団。11歳の時には父親がコーチを務めるウェストハムの下部組織に加入し、天性の才能を磨いていく。

そして17歳となった95年にクラブとプロ契約を結ぶと、同年10月には経験を積むため2部リーグのスウォンジー・シティーへレンタル移籍。公式戦11試合1ゴールとまずまずの結果を出し、翌96年にウェストハムへ復帰。5月のシェフィールド・ウェンズデイ戦でプレミアリーグデビューを飾る。

プロ2年目の96-97シーズンは足の骨折により16試合の出場に留まるが、3年目の97-98シーズンに先発レギュラーへ定着。公式戦42試合10ゴールの好成績を残す。

98-99シーズンは開幕から主力の座を占め、リーグ戦全38試合に出場。5ゴール7アシストの活躍でクラブの過去最高成績である5位確保に貢献し、インタートトカップ出場権も得た。

以降も安定した成績を残していったランパードだが、監督が叔父のハリー・レドナップ、コーチが父親のランパード・シニアという事情により、サポーターからは「優遇されている」と白い目を向けられてしまう。

 

チェルシー移籍

00-01シーズン、チームはリーグ15位と低迷。7年間ウェストハムを率いたレドナップ監督は解任となり、それに伴い父親もコーチを辞任。ランパードも自身の環境を変えるため、プロキャリアの7年を過ごしたクラブから離れて、同じロンドンのチェルシーへ移籍する。

移籍したチェルシーでも、FAカップ準優勝に貢献するなど主力として活躍。01-02、02-03シーズンの2年間で101試合に出場し、リーグ戦で欠場したのはわずか1試合という鉄人ぶりを発揮した。

03年6月、ロシアの石油王ロマン・アブラモビッチチェルシーを買収。野心に溢れた新オーナーは、豊富な資金力をバックにチェルシーのビッグクラブ化を推進。クレスポジョー・コール、ベロン、マケレレといった大物選手を次々と買い集めた。

それでもランパードの中心選手としての地位は揺らぐことなく、03-04シーズンは公式戦59試合中58試合に出場し、キャリアハイとなる15ゴールの活躍。無敗優勝のアーセナルに続くリーグ2位と、チャンピオンズリーグ4強入りに大きく貢献する。

 

スリーライオンズの新鋭

99年10月、ベルギーとの親善試合でA代表デビュー。しかし中盤の厚い選手層を誇るスリーライオンズでポジションを得られず、ユーロ2000大会と02年W杯・日韓大会への出場を逃してしまう。

日韓W杯後、ポール・スコールズから定位置を奪って代表レギュラーに定着。03年8月に行なわれた親善試合、クロアチア戦で初ゴールを記録する。

04年6月、ポルトガル開催のユーロ大会が開幕。ランパードは初戦のフランス戦で先発のピッチに立った。試合は前半38分、ベッカムのFKをランパードが頭で合わせて先制。後半イングランドは深く引いて反撃の芽を潰し、1点を守っての逃げ切りにかかる。

だが勝利を目前にしたロスタイムの91分、ジダンにFKを決められ土壇場で同点。さらにその2分後、ランパードの不用意なバックパスがアンリに奪われ、そこからGKのファールでPKを献上。これをジダンに沈められ、不覚の逆転負けを喫してしまう。

続くスイス戦では3-0の快勝を収め、最終節はクロアチアとの対戦。開始5分に先制を許すも、40分にスコールズのゴールで同点。前半終了間際にはルーニーのミドル弾で逆転する。

後半68分にはルーニーが3点目。73分に1点を返されるも、79分にはランパードが貴重な追加点を挙げ、4-2の勝利。イングランドはグループ2位での決勝ステージ進出を決めた。

準々決勝では地元ポルトガルと対戦。1-1で進んだ延長後半の105分、ルイ・コスタミドルシュートを叩き込まれて失点。追い込まれたスリーライオンズだが、110分にベッカムの右CKからランパードが執念の同点弾。勝負の行方はPK戦に持ち込まれた。

3人目に登場したランパードは豪快にキックを沈めるも、サドンデスに突入したPK戦は惜しくも4-5の結果。イングランドはベスト8敗退となった。

それでも3ゴールを挙げて顕著な活躍を見せたランパードは、UEFA選定による大会優秀選手賞の23名に選出。イングランド年間最優秀選手賞にも輝く。

 

強豪チェルシーの顔

04-05シーズン、自らを「スペシャル・ワン」と豪語するジョゼ・モウリーニョチェルシーの監督に就任。ランパードは強烈な個性を持つ新監督に触発され、リーグ戦38試合13得点14アシストの大暴れ。ドログバロッベンと強力な攻撃陣を構成した。

そして歴代最少15失点の堅守を築いた盟友のジョン・テリーとともに、プレミア初制覇とリーグカップ優勝の立役者となり、FWA(記者協会)年間最優秀選手賞とリーグベストイレブンに輝く。

翌05-06シーズン、MFながらその得点能力はさらに威力を増し、リーグ戦35試合16ゴール9アシストの大活躍。164試合連続出場というリーグ記録も打ち立て、プレミア2連覇の原動力となった。モウリーニョ監督はその功績を大とし、「世界最高の選手」と称賛を贈った。

06-07シーズンもリーグ戦11ゴール11アシストと変わらぬ活躍を見せるが、大型補強のシェフチェンコバラックらがうまく機能せず、マンチェスター・ユナイテッドにタイトルを奪われてのリーグ2位。

07-08シーズンは怪我に苦しみ24試合の出場に留まるも、10ゴール8アシストの安定した成績。だがチームは2年連続でリーグ優勝を逃し、モウリーニョ監督はシーズン途中の解任となった。

それでもチェルシーはグラント新監督のもとでCLを勝ち上がり、2季連続のベスト4進出。リバプールとの準決勝でファイナルに繋がるPKを沈めたランパードは、このゴールを6日前に亡くなったばかりの母に捧げた。

しかしマンUとのライバル対決となったCL決勝では惜しくもPK戦に散り、欧州ビッグタイトル獲得とはならなかった。

 

ドイツW杯の無念

04年9月から始まったW杯欧州予選では、チームのトップとなる10試合5ゴールの活躍。スリーライオンズのグループ首位突破に大きく貢献し、イングランド年間最優秀選手賞にも2年連続で輝く。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。中盤のベッカムやジェラード、FWルーニー、CBファーディナンドと攻守に豊富なタレントを揃えるイングランドは、優勝候補の一角にも挙げられていた。

G/Lは対戦相手にも恵まれ順当に1位通過。トーナメント1回戦ではエクアドルを1-0と退け、ベスト8に進む。

準々決勝は2年前のユーロ大会でも激闘を繰り広げたポルトガルとの対戦。0-0で折り返した後半の52分、左足を痛めたベッカムが負傷退場。さらに62分、ラフプレーによりルーニーが一発退場となる。

10人での戦いを強いられたイングランドは、自陣を固めてPK戦に持ち込むが、1人目に登場したランパードがキックを失敗。この後も相手守護神リカルドの好セーブ連発に阻まれ、準決勝進出はならなかった。

ランパードは全5試合にフル出場するも、1本もゴールを決められないまま大会を終えた。

W杯終了後にはユーロ08大会の予選が始まるが、イングランドクロアチアとロシアに後塵を拝してのグループ3位。オーストリア/スイス共催の本大会出場を逃してしまう。

 

誤審で消えたW杯初ゴール

08-09シーズンはマンUのリーグ3連覇を許すも、09-10シーズンには4季ぶりのタイトル奪回。FAカップ優勝と合わせての国内2冠を達成する。チームを牽引したランパードもリーグ戦36試合22ゴール16アシストと過去最高の成績を残した。

そんなキャリアのピークを迎えた10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。初戦はアメリカと1-1、第2戦もアルジェリアと0-0と引き分けて沈滞するイングランドだが、第3戦のスロベニア戦で1-0の勝利。アメリカに続くグループ2位で決勝トーナメントに進む。

トーナメント1回戦の相手は強敵ドイツ。試合は前半20分、GKノイアーのロングキックに抜け出したクローゼにシュートを決められ失点。32分にはポドルスキーの追加点を許してしまう。

それでも37分にCKから1点を返し、意気上がるイングランド。その直後の38分、Pエリア前の混戦からランパードループシュート。ボールはクロスバーの下を叩き、ゴールライン内側へ落下。追撃の同点ゴールが決ったかに思えた。

だが主審の判定はノーゴール。リプレイでは明らかな誤審が確認されるも、ランパードのゴールは認められないままゲームは続行された。後半開始直後にもランパードのFKがバーを叩き、反撃の勢いを削がれたイングランドは1-4の大敗。ベスト16で姿を消した。

 

悲願のCL優勝

11-12シーズン、リーグ戦で低迷したチェルシーは6位に沈むが、FAカップでは2季ぶりの優勝。決勝のリバプール戦では、ドログバの決勝点をランパードがアシストした。

さらにCLでもランパードが獅子奮迅の働き。16ラウンドのナポリ戦・第2レグでは1ゴール1アシストの活躍で逆転勝利に貢献。準々決勝のベンフィカ戦でも重要な場面でPKを沈めた。

準決勝では前年王者のバルセロナと対戦。ホームでの第1レグは、ランパードドログバの決勝点の起点となって1-0の勝利。アウェーでの第2レグは主将テリーの退場で劣勢を強いられるが、10人となったチェルシーランパードを中心に奮闘。優勝候補を相手に2-1の逆転勝利を収め、4季ぶりとなる決勝へ進む。

決勝の相手はバイエルン・ミュンヘン。ファイナルの舞台となったのは、バイエルンの本拠地アリアンツ・アレーナだった。

ホームで主導権を握るバイエルンに対し、チェルシーは固く守ってカウンターを窺う。白熱のゲームは0-0のまま終盤戦を迎えるが、83分にトーマス・ミュラーのゴールでバイエルンが先制。地元サポーターの誰もが勝利を確信した。

だが終了間際の88分、ファン・マタの右CKをドログバが頭で押し込み同点弾。延長に突入した試合は120分を終わっても決着が付かず、PK戦へと持ち込まれた。

後攻のチェルシーは1人目マタのシュートが止められるも、続くランパードらが落ち着いて沈めて食いつく。3人目まで成功させて優位に立ったバイエルンだが、4人目、5人目と続けて失敗。最後は勝利を決めるシュートをドログバが突き刺し、チェルシーが悲願の欧州初制覇を成し遂げる。

出場停止のテリーに代わってキャプテンマークを巻いたランパードは、栄光のビッグイアーを高々と掲げた。

 

代表引退

10年9月から始まったユーロ予選では、2ゴールを記録して本大会出場決定に寄与するが、太腿の怪我によりユーロ2012出場は叶わなかった

このあとW杯欧州予選では7試合4ゴールの活躍を見せ、グループ首位突破に貢献するも、チーム最年長となっていたランパードは、先発を外れることも多かった。

14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。イングランドは初戦でイタリアに1-2と敗れると、第2戦もウルグアイに1-2の敗戦。2連敗を喫して早くもスリーライオンズのG/L敗退が決ってしまった。

最終節のコスタリカ戦では、ランパ-ドが今大会初先発。若手主体で臨んだ最終戦でまとめ役を務めるも、相手の堅守を崩せず0-0の引き分け。イングランドは「死のグループ」で屈辱の最下位に沈んでいった。

大会終了後の8月、ランパードは代表からの引退を発表。16年間の代表歴で106試合29ゴールの記録を残すも、3度出場したW杯では、ついに1本もゴールを決めることなく(PK戦も含めて)終わった。

 

指導者への道

13-14シーズン終了後、13年間を過ごしたチェルシーを退団。その間挙げた公式戦211ゴールは、MFながらクラブの歴代最多得点記録となった。

そのあとマンチェスター・シティへの短期レンタル移籍を経て、15年1月にはMLSのニューヨーク・シティと契約。アメリカで2シーズンをプレーし、17年2月に37歳での現役引退を発表する。

引退後は指導者の道へ進み、18年5月にはダービー・カウンティ(2部リーグ)の監督に就任。ここで1シーズンを務めると、古巣からの要請を受け、19年7月にはチェルシーの監督に就任した。

しかしチェルシーではリーグ5位と結果を残せず、1年で解任。22-23シーズンは降格の危機にあったエバートンを途中から指揮を執ってチームを救うも、翌23-24シーズンには成績不振により解任。23年4月には暫定監督としてチェルシーに復帰するが、低迷するチームを立て直せず、わずか11試合のみの短命政権に終わった。