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サッカーの歴史や人物について

日本

高校サッカー界の名将 小嶺忠敏監督 死去

全国選手権優勝6回など高校サッカー界の名将として知られた小嶺忠敏さんが、肝不全により長崎市内の病院で死去した。享年76歳だった。その50年あまりの指導の中で、大久保嘉人、高木琢也、三浦淳寛、永井英樹、勝矢寿延、徳永悠平、平山相太ら代表級・・

《サッカー人物伝》木村和司(日本)

小柄だが多才なテクニックと相手の意表を突くパスで、攻撃の起点となった。対外試合で低迷が続き「冬の時代」と呼ばれた80年代に、日本の10番を背負ったゲームメイカー。フリーキックの名手としても知られ、85年のW杯予選で伝説となるゴールを決めた。

《サッカー人物伝》ラモス瑠偉(日本)

20歳の時に来日し、ブラジルスタイルで一時代を築いた読売クラブの象徴的存在となった。89年に帰化を果たし、90年には33歳で日本代表入り。オフト・ジャパンの司令塔としてW杯出場を目指すが、カタールで行われた最終予選で「ドーハの悲劇」に沈んだ。

《サッカー人物伝》ブラジルから来たサムライ(日本)

「冬の時代の伝道師」 ネルソン吉村、セルジオ越後、与那城ジョージ 日本サッカーが「冬の時代」と呼ばれた長い低迷期(1970~80年代)を過ごした時代、国内サッカーリーグ(JSL)に大きな足跡を記したのが、ブラジルから来た日系人選手だった。 ヤンマーデ…

《 サッカー人物伝 》 釜本邦茂(日本)

大型で強靱な肉体を誇り、右45度からのシュートは正確無比。高さとジャンプ力を生かしたヘディングも一級品で、欧州でも通用しただろうと言われた日本最強のストライカー。メキシコ五輪では得点王となる7ゴールを叩き出し、銅メダル獲得の立役者となった。

《サッカー人物伝》奥寺康彦(日本)

「日本人プロ第一号」選手として、70年代の終わりから80年代始めにかけて当時世界最高峰のブンデスリーガで活躍。精度の高いパスとシュート、そして戦術に即した正確なプレーで「東洋のコンピューター」と呼ばれ、猛者の揃う西ドイツでもその存在感を見せた。