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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》アンドレア・ピルロ(イタリア)

 

「伝説のレジスタ

高度な戦術眼と確かな技術でゲームを組み立て、中盤底から長短のパスを駆使して勝利の方程式を導き出した伝説のレジスタフリーキックの名手としてもその名を轟かせ、急激に落下する軌道のシュートは恐れられた。その技で「マエストロ」と呼ばれた世界最高のプレーメーカーが、アンドレア・ピルロ( Andrea Pirlo )だ。

 

しばらく雌伏の時を経て、ACミランレジスタとしての才能を開花。盟友ガットゥーゾ、万能MFセードルフと「黄金の中盤トリオ」を組み、”ピルロ・システム” を確立してクラブに数々のタイトルをもたらした。2011年に移籍したユベントスでも、セリエA連覇を続けるチームで大きな役割を果たす。

 

イタリア代表では3回のW杯と2回のユーロ大会に出場。06年W杯・ドイツ大会では不動の司令塔として攻撃を牽引し、「マン・オブ・ザ・マッチ」3試合に輝く活躍でチームを5大会ぶり4度目の優勝に導く。連覇の懸かった10年W杯・南アフリカ大会では怪我に泣かされ、前回王者のG/L敗退という屈辱を味わった。

 

フレーロの天才少年

アンドレア・ピルロは1979年5月19日、イタリア北部のブレシア県・フレーロに生まれた。父ルイージは、その3年後に設立した鉄鋼商社「エルグ・スチール」の経営者として成功。裕福な家庭で育ったアンドレアと弟のイワンは、祖父がブドウ農場を営んでいたこともあり、小さい頃から豊穣なワインの味に慣れ親しんでいたという。

6歳のとき地元クラブのフレーロに入団。そのあと移籍したボルンタス・ブレシアでは子供離れしたテクニックで「天才少年」との評判をとり、14歳となった92年にブレシアのジュニアユースへ引き抜かれる。

ここで順調に力を伸ばし、95年にはトップチーム昇格。5月のレッジーナ戦で、クラブ最年少となる16歳でのセリエAデビューを飾る。

しかしデビューの94-95シーズンはこの1試合の出場に留まり、リーグ最下位に沈んだチームもセリエB降格となる。95-96シーズンはユースチームで経験を積み、地域の青少年大会優勝に貢献。96-97シーズンにトップチームでの出場機会を与えられたピルロは、17試合2ゴールの成績。セリエB優勝に寄与し、チームのセリエA復帰を助けた。

97-98シーズン、10月のヴィチェンツァ戦でセリエA初ゴールを記録。以降、トップリーグで継続的に起用され、29試合4ゴールの成績を残した。しかし天才肌のプレーで輝きを見せるも、フィジカルの弱さが仇となりスーパーサブの扱い。それでもパサーとしての才能が評価され、インテル・ミラノから獲得のオファーが届く。

インテル・ミラノは、ピルロが少年の頃に憧れとしていた名門クラブ。98年夏、19歳の若者はインテルと新たな契約を交わし、さらなる飛躍を目指した。

 

キャリアの転機

インテル移籍の98-99シーズン、18試合に起用されるも、先発のピッチに立ったのはわずか3試合。彼のポジションであるトップ下は相手からのプレッシャーが厳しく、フィジカルに難のあるピルロは、持ち味を活かしきれずにいた。

翌99-00シーズン、セリエA昇格を果たしたばかりのレッジーナへレンタル移籍。ここで28試合6ゴールの好成績を残し、00-01シーズンにはインテルへ復帰。しかし選手層の厚い名門クラブで出場機会は与えられず、シーズン前半を終わって4試合に起用されたのみ。シーズン後半には古巣のブレシアへ貸し出される。

だがこの時のブレシアにはロベルト・バッジオがトップ下にいたため、マッツォーネ監督の提案により、よりプレッシャーの少ない中盤底でのパイプ役を命じられる。すると01年4月のユベントス戦でバッジオのゴールをアシストするなど、新たな場所で結果を残した。

このあと右足中指の骨折により出場は10試合に留まったが、ピルロは新ポジションで好感触を得るだけでなく、名手バッジオから多くのものを学んだ。

そんな若者の将来性に目を付けたのが、インテルのライバルクラブであるACミランだった。インテルで居場所を見つけられなかったピルロは、迷わずミランへの移籍を決断する。

 

伝説レジスタの誕生

しかし移籍したミランでも、同時期に加入したマニュエル・ルイ・コスタの陰に隠れ、不遇の時期が続く。その01-02シーズン途中、成績不振の前任者に代わり、カルロ・アンチェロッティミランの監督に就任。出番を求めるピルロは自ら新監督に直訴し、ブレシア時代に経験した中盤底へのコンバートを申し出る。

アンチェロッティ監督はその申し出を承諾。運動量豊富なジェンナーロ・ガットゥーゾとコンビを組ませ、守備の弱点をカバーさせた。ピルロガットゥーゾは、ユース代表時代からの盟友。二人の息の合ったコンビにより、ピルロは中盤底から攻撃を操る「レジスタ」の才能を開花させた。

01-02シーズンは公式戦29試合2ゴールの成績に終わるが、レジスタとして定着した02-03シーズンには42試合9ゴールとブレイク。新たに加わったクラレンス・セードルフとのトリオで「ピルロ・システム」を生み出し、チームの司令塔として活躍。近年低迷期にあったミランを復調させ、リーグ優勝は逃すもコッパ・イタリアを26年ぶりに制する。

さらにチャンピオンズリーグ決勝では、同国のライバルであるユベントスPK戦で下して9年ぶり6度目の欧州制覇。ここからミランの新たな黄金期が始まる。

 

イスタンブールの敗北

03-04シーズンはクラブに5季ぶりとなるスクデットをもたらすと、翌04-05シーズンは2季ぶりとなるCL決勝に進出。ファイナルの舞台となったイスタンブールで、イングランドリバプールとビッグイアーを懸けて戦った。

試合は開始わずか1分、ピルロのFKをマルディーニがボレーで合わせて先制点。そのあとクレスポに立て続けの追加点が生まれ、ミランが3点をリードして前半を折り返す。

これで優勝を手中にしたかと思えたミランだが、後半リバプールが猛反撃。ジェラードのヘディングシュートで1点を返されたのを皮切りに、たった6分間で3-3の同点に追いつかれる。

混戦となったゲームは延長でも決着が付かず、勝負の行方はPK戦へ。先攻のミランは、1人目のセルジーニョが失敗。2人目に登場したピルロも、GKデュデクの奇妙な動きに惑わされ、シュートを止められる。

最後はシェフチェンコのキックがセーブされ、2-3とPK戦を落としての敗北。「イスタンブールの奇跡」と呼ばれる大逆転劇に泣いたミランが、2年前に続く欧州制覇を逃してしまった。

05-06シーズンはライバルのユベントスとデッドヒートを繰り広げるも、リーグ2位に終わるなど4季ぶりのタイトル無冠。そのシーズン終盤、大規模不正事件「カルチョ・スキャンダル」が発覚。主犯格のユベントスセリエB降格処分となり、事件に関与したとされるミランも勝点剥奪の処分。イタリアサッカー界は激震に揺れた。

 

W杯制覇に貢献

アンダー代表では、2000年のU-21欧州選手権優勝やシドニー五輪出場など、若い世代の主力として実績を積んだピルロ。フル代表には2002年9月に招集され、ユーロ予選のアゼルバイジャン戦で初キャップを刻む。

04年5月のチュニジア戦で代表初ゴールを記録すると、6月に開催されたユーロ大会(ポルトガル)のメンバーにも選出。本大会では2試合に先発出場するも、1勝2分けと低調に終わったイタリアはG/L敗退を喫する。

同年8月にはO/A枠でアテネ五輪に出場。イタリアの銅メダル獲得に貢献した。このあと始まったW杯欧州予選では、盟友のガットゥーゾとコンビを組んでアズーリの先発レギュラーに定着。グループ首位突破に大きな役割を果たす。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。大会直前の「カルチョ・スキャンダル」に揺れたイタリアだが、それがチームの結束を強めた。ピルロは初戦のガーナ戦で1ゴール1アシストを記録、「マン・オブ・ザ・マッチ」の活躍でアズーリを勝利に導く。

続くアメリカ戦は1-1と引き分けるも、ピルロは得意のFKからジェラルディーノの得点をアシスト。最終節では難敵チェコを2-0と下し、グループ1位で決勝トーナメントに勝ち上がった。

トーナメント1回戦は持ち前の堅守でオーストラリアを1-0と封じ、ベスト8進出。準決勝ではシェフチェンコ擁するウクライナを3-0と退ける。

準決勝は開催国のドイツと対戦。試合は互角の攻防が繰り広げられ、両チーム無得点のまま延長に突入。するとPK戦も見えてきた延長後半の119分、CKのクリアを拾ったピルロが、DFを引きつけてから絶妙のパス。これを左SBのグロッソがダイレクトで叩き込み、待望の先制点が生まれる。

さらに終了直前の121分、途中出場のデル・ピエロが勝利を決定づける追加点。ゲームを組み立てながら相手のカウンターを潰すなど、好守に貢献したピルロが2度目の「マン・オブ・ザ・マッチ」に輝く。

決勝の相手はフランス。開始6分、DFマテラッツィが相手選手を倒してPKを献上。これをジダンの「パネンカ」と呼ばれるキックで決められ、フランスの先制を許してしまう。しかしその12分後、ピルロの右CKからマテラッツィが汚名返上の同点ゴール。1-1でハーフタイムを折り返す。

後半に入ると試合は膠着状態が続き、ついに延長戦へ突入。110分にはマテラッツィへ頭突きを見舞ったジダンが一発退場となるが、イタリアは数的有利を活かせず延長戦を終了。世界王者はPK戦で決することになった。

ピルロはイタリアの一番手として登場。落ち着いてど真ん中にシュートを沈め、先鋒の役割を果たした。このあとアズーリは5人全員が成功。フランスは2人目のトレゼゲがゴールを外し、イタリアの勝利が決った。

チームの攻撃をリードしたピルロは3度目の「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出され、守護神ブッフォン、守備の要カンナバーロと共に、イタリア4度目の優勝の立役者となった。

 

ミランの黄金期を支えたメンバー

06-07シーズン、バイエルン・ミュンヘンマンチェスター・ユナイテッドといった強豪を打ち破り、CLの決勝へ進出。ファイナルを戦うチームは、2年前に苦汁をなめた因縁の相手、リバプールだった。

試合は前半終了直前の45分、ピルロの蹴ったFKが、ゴールを背にしていたインザーギの肩に当たって先制点。さらに終盤の82分、カカーのパスからインザーギが追加点。このあとリバプールに1点を返されるも、このまま逃げ切って2-1の勝利。ミランイスタンブールのリベンジを果たす。

07年12月には日本で開催されたクラブW杯に出場。ミランは決勝で南米チャンピオンのボカ・ジュニアーズを4-2と打ち破り、世界一クラブのタイトルを得た。

だがこの頃からピルロガットゥーゾセードルフインザーギマルディーニネスタ、ジダといった黄金期を支えた不動のメンバーもピークを過ぎ、しばらくミランはタイトルから遠ざかる。

 

アズーリの低迷

08年6月、オーストリア/スイス共催のユーロ大会に出場。イタリアはフランス、オランダ、ルーマニアと強豪の揃う「死のグループ」を2位通過するも、準々決勝のスペイン戦では累積警告のピルロガットゥーゾが出場停止。攻撃の起点を欠くアズーリに決定機は訪れず、延長120分を0-0で終える。

ブッフォンカシージャスの名GK対決となったPK戦は、4-2でスペインに軍配。イタリアの上位進出はならなかった。翌09年6月にはW杯のプレ大会であるコンフェデレーションズカップに参加するが、予選リーグ1勝2敗の成績で敗退。ドイツW杯優勝組の衰えは顕著となっていた。

10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。しかしピルロは怪我のため最初の2試合を欠場となった。次世代の若手が育っていなかったイタリアはチームの迫力を欠き、初戦はパラグアイと1-1で引き分け。第2戦も格下のニュージーランドを攻めきれず、またも1-1と引き分けてしまう。

敗退の危機に追い込まれた最終節のスロバキア戦、イタリアは1点をリードされた後半56分にピルロを投入。するとアズーリの攻撃はたちまち活性化し、試合終盤には反撃の2得点が生まれる。しかし守りではミスを突かれて2つの追加点を許し、2-3の敗戦。前回王者のイタリアはG/L敗退という失態を犯してしまった。

 

ユベントスの司令塔

2010-11シーズン、ミランは7季ぶりにセリエAを制覇。しかしピルロは怪我と若手の台頭により、公式戦25試合1ゴールと入団以来最低の成績。契約満了となったシーズン終了後にはチームの構想外となり、10年を過ごしたミランから離れることになった。

そんなピルロに声を掛けてきたのが、「カルチョ・スキャンダル」からの再建途上にあったユベントスだった。あの騒動から6年、隆盛期を知らない若手がチームの大半を占めるようになり、ユーベは経験豊富なベテランを求めたのだ。

すでに32歳となっていたファンタジスタには懐疑的な声も寄せられるが、ピルロは円熟味を増したゲームメイクでチームを牽引。リーグ戦37試合3ゴールと復活の輝きを見せ、チームに9年ぶりとなるスクデットをもたらした。

ここからユベントスは「カルチョ・スキャンダル」の悪夢を払拭し、セリエA連覇を重ねる強豪クラブとして復活。ピルロはチームの頼れる司令塔として、3年連続でセリエAの最優秀選手賞に選出。ユーベ2010年代の黄金期を築いていく。

 

代表活動の終了

12年6月、ポーランド/ウクライナ共催のユーロ大会に出場。ピルロアズーリの中核を担い、イタリアの準優勝に貢献。UEFA選定の大会優秀選手賞23名に選ばれる。また準々決勝のイングランド戦では、芸術的な「クッキアイオ(チップキック)」でPKを成功させ、大会に名場面を刻んだ。

14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。前大会の雪辱を期すイタリアだが、同組にはイングランドウルグアイなどの強敵が待ち構えていた。

それでも初戦でイングランドを2-1と撃破。ピルロはパス成功率95.%の精密なキックで、ゲームをコントロール。イタリアのチャンスを演出して勝利に貢献する。

第2戦の相手はコスタリカ。2連勝はたやすいと思われた試合だが、頼みのピルロが厳しいプレスに封じられて苦戦。0-1と思わぬ敗戦を喫し、伏兵の決勝トーナメント1番乗りを許してしまう。

グループ突破を懸けた最終節はウルグアイと対戦。0-0で迎えた後半59分、ウィングのマルキージオが危険なプレーで一発退場。さらに79分、DFキエッリーニルイス・スアレスに噛みつかれるというアクシデントが発生する。

これですっかりリズムを崩されたイタリアは、直後の81分にCKから失点。0-1とゲームを落とし、2大会連続のG/L敗退となった。

ブラジルW杯限りでの代表引退を表明していたピルロだが、ユベントスの恩師であるアントニオ・コンテの監督就任に伴い、アズーリへ復帰。15年のユーロ予選に参加するも、ユーロ2016のメンバーに選ばれず、代表活動を終了した。14年間の代表歴で116試合に出場、13ゴールを挙げている。

 

ワイン愛好家の顔

14-15シーズンのセリエA4連覇とコッパ・イタリア優勝を置き土産に、4年間を過ごしたユベントスとの契約を終了。15年7月にはMLSニューヨーク・シティへの移籍が発表された。

しかしNYシティではたび重なる怪我に悩まされ、3シーズン目終了後の17年11月に38歳での現役引退を発表。翌18年5月には、古巣ミランサンシーロ・スタジアムで引退記念試合が行なわれた。

19年8月、UEFAコーチングライセンスを取得。20年7月には、ユベントスU-23チームの監督に就任することが発表された。だがそれからわずか10日後、サッリ監督の解任を受け、ピルロがトップチームの指揮官に電撃就任する。

その20-21シーズンはコッパ・イタリアのタイトルを得るも、リーグ戦では4位に沈み、ユベントスセリエA連覇は9年で途切れた。そのため1シーズンでユーベの監督を解任。このあとトルコリーグでの経験を経て、23年6月にはセリエBに降格したサンプドリアの監督に就任。セリエA昇格を目指すチームで指揮を執った。

また子供の頃からのワイン愛好家であるピルロは、一族とともにブドウ園を経営。自らプロデュースするブランドワインを世に送り出している。