「天才ドリブラーの栄光と凋落」
細かいタッチと一瞬の加速力で、密集地帯を切り裂いたドリブラー。スピードに乗りながらも抜群のボディバランスと低い重心でボールをコントロールし、易々と相手エリアに侵入。高い得点力も備えてゴールネットを揺らした。卓越した技でベルギーの「天才」と呼ばれたのが、エデン・アザール( Eden Michael Walter Hazard )だ。
若くして才能を見いだされ、16歳でフランスのリールに入団。2季連続でリーグ・アンの年間最優秀選手賞に輝くなど活躍し、12年にはプレミアの強豪チェルシーに移籍する。ここでもすぐに主力の座を射止め、リーグ優勝やFAカップ制覇などのタイトル獲得に貢献。19年には名門レアル・マドリードの一員となるが、相次ぐ故障で本領を発揮できなかった。
ベルギー代表には17歳で選出。デ・ブライネ、ルカク、クルトワら「ベルギー黄金世代」の中心選手として世界に名を轟かせ、18年W杯・ロシア大会の3位入賞に大きく貢献。だが4年後のカタールW杯ではプレーの精彩を欠き、優勝を期待されたチームは失意のグループリーグ敗退。アザールは31歳の若さで代表を退いた。
ベルギーの有望株
エデン・アザールは1991年1月7日、フランスと国境を接するエノー州の中心都市、ラ・ルヴィエールに生まれた。ちなみにラ・ルヴィエールは、「ベルギーの至宝」と呼ばれたエンツォ・シーフォの出生地でもある。
父ティエリはベルギー2部リーグでプレーするディフェンダーで、母カリーヌはベルギー女子1部リーグで活躍するストライカー。こうした環境にあって、長男のエデンを始めとする4兄弟も幼少期からサッカーに親しんだ。
4歳で地元クラブのRSブレーヌへ入団。エデンは両親より受け継いだ才能の輝きを見せ、ジュニアチームのコーチに「彼に教えることは何もない」とさえ言わせた。12歳となった03年にはAFCデュビズに移籍。評判のプレーで隣国フランスからも注目される存在となる。この頃の憧れは、ジネディーヌ・ジダンだったという。
14歳となった05年、地元トーナメントでの活躍がスカウトの目に止まり、フランスの中堅クラブであるLOSCリールへ入団。ここで2年間のユース時代を過ごし、07年にトップチーム昇格。11月のナンシー戦でリーグ・アンデビューを果たす。
07-08シーズンは4試合の出場に留まるも、翌08年9月、開幕間もないオーセル戦でリーグ・アン初ゴールを記録。17歳8ヶ月の当時クラブ最年少記録となる得点だった。以降レギュラーの座を確保し、2年目の08-09シーズンは30試合4ゴールの成績。ベルギー人として初めてとなる最優秀若手選手賞に輝く。
09-10シーズン、37試合5ゴールとさらに成績を伸ばし、2年連続の最優秀若手選手賞を受賞。当時レアル・マドリードの要職を務めていたジダンに、「アザールは未来の名選手。目をつむってでも、マドリーに連れていきたいね」と称賛される。
しかし翌10-11シーズンは開幕当初から不調に陥り、2ヶ月間のスタメン落ち。その理由はアザールの練習に取り組む不真面目な態度と、体調管理を怠ったコンディション不足にあるとされた。
初めて挫折を味わったアザールは自分をリセットし、先発に復帰した11月からは見違えるような活躍。38試合7ゴールと前年を上回る成績を残し、「天才ドリブラー」としての才能を発揮。リールの57年ぶりとなるリーグ・アン優勝と56年ぶりのクープ・ドゥ・フランス制覇に貢献する。こうして2冠達成の立役者となったアザールは、20歳の若さでリーグ・アンの年間最優秀選手に選ばれた。
11-12シーズンは背番号10を与えられ、リーグ戦38試合20ゴール18アシストの大活躍。チームはリーグ・アン2連覇を逃すも、アザールは2季連続の年間最優秀選手賞に輝く。またヨーロッパの最優秀若手賞であるブラボー賞も獲得した。
そんな有望株をビッグクラブが放っておくはずもなく、12年6月にはチャンピオンズリーグ王者のチェルシーと5年契約。群雄割拠のプレミアリーグへ活躍の舞台を移すことになった。
代表で苦しむ若手
08年11月、ルクセンブルグとの親善試合に17歳でフル代表デビュー。しばらく試合途中からの起用が続くが、9年11月のハンガリー戦で初のフル出場を果たすと、2アシストを記録して3-0の勝利に貢献する。
その後もしばらく先発で起用されるが、練習時の怠慢な態度が咎められ、またもベンチ要員に後戻り。それでも10年11月に行なわれたロシアとの親善試合で先発復帰を果たすと、ロメル・ルカクの先制ゴールをアシストして2-0の勝利に貢献。だが安定したパフォーマンスは続かず、なかなかレギュラーに定着できずにいた。
11年6月に行なわれたユーロ予選のトルコ戦で久々の先発を果たすも、後半60分に交代。自分の不出来に腹を立てたアザールは、リーケンス監督を無視してロッカーへ直行する。そして試合中にもかかわらずスタジアムの外へ出ると、家族を連れてハンバーガーをやけ食い。この行動をテレビ局のカメラに撮られてしまい、3試合出場停止の懲戒処分となった。
アザールは己の行いを反省し、リーケンス監督ら関係者に謝罪。出場停止処分は1試合に経験され、6月のユーロ予選・カザフタン戦に先発出場した。すると前半43分に代表初ゴールを決め、4-1の勝利に貢献する。
ベルギーはユーロ2012の本大会出場を逃すも、アザールは14年W杯へ向けて新監督に就任したマルク・ヴィルモッツ体制で、背番号10を背負うこととなった。
チェルシーの中心選手
チェルシーではシーズン開幕のウィガン戦でプレミアリーグデビューを果たすと、ここから3試合連続で「マン・オブ・ザ・マッチ」に輝く働き。当たりの激しいイングランドサッカーにも、子供の頃の柔道経験を活かして適応し、1年目の12-13シーズンから34試合9ゴール16アシストの大活躍。ヨーロッパリーグ優勝にも貢献しPFA(選手協会)の最優秀若手選手とベストイレブンに選ばれる。
13-14シーズン、ジョゼ・モウリーニョが6年ぶりにチェルシーの監督に復帰。新監督のもとでもアザールは卓越したパフォーマンスを見せ、35試合14ゴール7アシストとチームトップの成績を記録。チェルシーはタイトル無冠に終わるも、アザールは2年連続のベストイレブンに選出された。
翌14-15シーズン、ドログバ(再加入)、セスク・ファブレガス、ジエゴ・コスタと新たな陣容を整えたチェルシーは、6年ぶりのリーグ優勝を達成。リーグカップも8年ぶりに制した。2冠獲得の立役者となったアザールは、チェルシー攻撃陣の軸として38試合14ゴール8アシストの活躍。3年連続のベストイレブン、PFA及びFWA(記者協会)の最優秀選手賞、プレミアリーグMVPと個人賞を独占する。
「黄金世代」の台頭
アザール、ルカク、デ・ブライネ、クルトワら「黄金世代」が台頭したベルギー代表は、12年9月から始まったW杯欧州予選を首位突破。3大会ぶりとなるワールドカップ出場を決める。
14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。初戦はハリルホジッチ監督率いるアルジェリアに先制を許すも、後半の70分にデ・ブライネのクロスからフェライニが同点ゴール。80分にはドリブルで抜け出したアザールが、敵を引きつけてのスルーパス。これをメルテンスが決めて、2-1の逆転勝利を収める。
第2戦の相手はロシア。試合は0-0で迎えた後半57分、ベルギーは精彩を欠くルカクに代えて19歳のオリジを投入。すると終盤の88分、自陣のカウンター攻撃からアザールが左サイドを突破。その折り返しをオリジが叩き込み、値千金の決勝弾。2連勝のベルギーは早くもグループ突破を決めた。
アザールら主力を温存した韓国戦も1-0と勝利し、ベルギーはG/L1位でベスト16進出。トーナメント1回戦でアメリカと戦う。カウンターの応酬となったゲームは、ベルギーのクルトワ、アメリカのハワードと両チームの守護神が好守を連発。双方ゴールを割れないま延長戦に突入する。
延長開始の91分、ベルギーは先発のオリジに代えてルカクを投入。その2分後、代わったばかりのルカクがパワーを活かしての前線突破。デ・ブライネの先制点をお膳立てした。さらに105分、デ・ブライネの右クロスからルカクが追加点。1点を返して追いすがるアメリカを振り切り、2-1と勝利する。
準々決勝の相手はアルゼンチン。前半8分、メッシの起点からイグアインのボレー弾を浴びて失点。ベルギーは経験値で上回る古豪の試合巧者ぶりに攻め手を封じられ、0-1の敗戦。惜しくもベスト8敗退となった。それでもベルギーは期待の「黄金世代」たちが輝きを見せ、次大会へ繋がる経験を積んだ。
キャリアのピーク
15-16シーズン、アザールはリーグ中盤戦まで0ゴール0アシストと絶不調。チームもプレミア下位へ低迷した。シーズン終盤にようやく調子を取り戻すも、31試合4ゴールと期待を裏切る成績。前年王者のチェルシーはリーグ10位に沈み、「ミラクルレスター」の快挙に主役の座を奪われてしまった。
復権を図るチェルシーは、16-17シーズンにアントニオ・コンテを新監督に迎えてリーグ首位戦線を快走。レスターから引き抜いたカンテが攻守に機能し、アザールも36試合16ゴールと復活の輝き。シーズン30勝の圧勝劇で覇権を奪回する。
17-18シーズン、代表活動中の怪我でリーグ開幕を出遅れるも、34試合12ゴールと安定した成績。しかしグアルディオラ監督率のマンチェスター・シティやクロップ監督のリバプールに大きな差をつけられ、チェルシーはCL出場権を逃すリーグ5位に沈む。
それでもFAカップでは2年連続の決勝へ進出。マンチェスター・ユナイテッドとの決戦ではアザールが自ら得たPKを沈め、1-0の勝利に貢献。チェルシーで5つめとなるタイトルを得た。
W杯ベスト3
DFコンパニーの負傷離脱を受け、フランス開催のユーロ2016では代表キャプテンに就任。アザールは1ゴール4アシストの成績でベルギーの8強進出に貢献し、大会ベストパサー賞に輝く。
ユーロ大会後に始まったW杯欧州予選でも好調さを維持し、8試合6ゴールの活躍。チームを2大会連続のW杯出場に導いた。
18年6月、Wカップ・ロシア大会が開幕。弟のトルガン・アザールも23名のメンバーに選ばれていた。初戦はW杯初出場のパナマと対戦。2点をリードした後半75分、カウンターに駆け上がったアザールがルカクの追加点をアシスト。3-0の快勝で白星スタートを切る。
第2戦の相手は北アフリカの雄チュニジア。開始6分、アザールが自ら得たPKを沈めて先制。そのあとルカクの2ゴールでリードを拡げ、前半アディショナルタイムにはアザールが追加点。後半終了間際にもバチュアイのダメ押し点が生まれ、5-2と連勝を収める。
主力を温存したイングランド戦も1-0の勝利。余裕のグループ1位で決勝トーナメントに進出したベルギーは、1回戦で日本と戦う。試合は後半に2点のリードを許すという思わぬ展開。アザールの強烈ミドルも川島永嗣の好守に阻まれてしまう。
反撃を試みるチームは、65分に高さのあるフェライニとシャドリを投入。するとベルギーのパワープレーは日本を混乱に陥れ、69分には幸運な形から1点目。さらに74分、Pエリア左でボールをキープしたアザールがクロスを送ると、頭で合わせたフェライニが叩き込んで同点とする。
2-2で迎えた後半アディショナルタイム、本田圭祐の左CKをクルトワがキャッチ。そこらから素早いフィードを受けたデ・ブライネが、猛然とピッチを駆け上がった。デ・ブライネは前方に立ち塞がる山口蛍を引きつけ、右サイドのムニエへと展開。その折り返しをルカクがスルーし、後方から走り込んだシャドリが決勝ゴールを押し込む。
得意のドルブルで日本を苦しめ、ベルギーの逆転劇を演出したアザールは、チュニジア戦に続く「マン・オブ・ザ・マッチ」を獲得。準々決勝では強豪ブラジルを2-1と打ち破り、8大会ぶりとなるベスト4に勝ち上がる。
しかし準決勝ではフランスに0-1と敗れ、初の決勝進出ならず。3位決定戦でイングランドと対戦する。1-0のリードで迎えた終盤の82分、デ・ブライネのパスに抜け出したアザールが勝負を決める追加点。今大会3度目となる「マン・オブ・ザ・マッチ」に輝く。
ベルギーは過去最高成績となる大会ベスト3を確保。「黄金世代」の中心選手として躍進の立役者となったアザールは、大会MVPのモドリッチに続く「シルバーボール賞」を獲得。FIFA選定のオールスターメンバーにも選ばれる。
天才ドリブラーの凋落
18-19シーズン、37試合16ゴール15アシストと活躍し、プレミアリーグのプレーメーカー賞を獲得。チェルシーでの最後のタイトルなるEL優勝を置き土産に、19-20シーズンは念願のレアル・マドリード移籍を果たす。
子供の頃からの憧れであるジダン監督のもとでプレーすることになったアザールだが、開幕前の負傷により約1ヶ月の出遅れという悪い予感のスタート。その後もたびたび故障に苦しみ、移籍1年目は公式戦22試合1ゴールの不本意な成績に終わった。
翌20-21シーズンもオフ期間の不摂生と練習嫌いがたたり、低調なコンディションで公式戦21試合4ゴールの成績。21-22シーズンにレアルが新たな指揮官、カルロ・アンチェロッティを監督に迎えると、アザールはベンチ要員に追いやられた。
コロナ禍で行なわれたユーロ2020(11ヶ国分散開催、21年6~7月)でも調子は上がらず、5試合中2試合に先発(出場は4試合)したのみ。チームは2大会連続のベスト8に終わる。G/Lのデンマーク戦では決勝点のアシストでらしさを見せたが、低調なプレーに終始して限界説も囁かれた。
22年11月、Wカップ・カタール大会が開幕。初戦はカナダに1-0と勝利するも、第2戦は伏兵モロッコに0-2の完敗。プレーの切れ味を欠くアザールは、最終節のクロアチア戦をベンチスタートとなった。
試合はクロアチアの老獪な試合運びにリズムを奪われ、主砲のルカクも再三の好機を逃すなど空転。アザールは終盤87分からの出場を果たすが、見せ場のないままスコアレスドローに終わる。
前回を上回る成績が期待されたベルギーは、最後引き分けたクロアチアに1ポイント及ばず、グループ3位に沈んで不覚の敗退。その6日後、アザールは代表からの引退を発表する。15年間の代表歴で126試合に出場、33ゴールの記録を残した。
レアルでも完全に出番を失い、22-23シーズンを最後にチームとの契約を解除。在籍の4年間で76試合7ゴール12アシストの結果にとどまり、「クラブの歴史の中で最大の失敗」と揶揄された。
レアル退団後はしばらく無所属の状態が続くも、23年10月に正式な現役引退を発表。まだ32歳の若さだった。引退後は家族との時間を楽しむなどし、次のキャリアに向けての英気を養っている。