「プレミアで輝く稀代のパサー」
両足から長短多彩なキックを繰り出し、一瞬にしてビッグチャンスを生み出した稀代のパサー。加えて縦への推進力も持ち合わせ、危険なエリアに顔を出して得点を狙った。明確なビジョンと高いスキルでゲームを構築し、「エル・アルキテクト(建築家)」と呼ばれたのが、セスク・ファブレガス( Francesc Fàbregas Soler )だ。
バルセロナの下部組織で育ちながら、イングランドのアーセナルでトップチームデビュー。若くしてガナーズの主力を務め、多くのアシストを記録するなど活躍。里帰りしたバルセロナでは本領発揮といかなかったが、14年に移籍したチェルシーで輝きを取り戻し、プレミアリーグ優勝に貢献する。
選手層の厚いスペイン代表での出番は限られたが、ユーロ08大会ではシャビ、イニエスタ、ダビド・シルバと共に「クワトロ・フゴーネス(4人の創造者)」と呼ばれる中盤を形成。同国44年ぶりの欧州制覇に貢献した。10年W杯・南ア大会の決勝オランダ戦では、イニエスタの勝利弾をアシスト。スペインに初となる世界王者のタイトルをもたらした。
「ラ・マシア」の才能
セスク・ファブレガスは1987年5月4日、バルセロナの港町アレニズ・ダ・マールで、不動産業を営む父とペストリーショップ(お菓子屋)オーナーである母の間に生まれた。一家は代々のバルサ・サポーター。セスクは生後9ヶ月で祖父にカンプ・ノウへ連れられ、初めてFCバルセロナの試合を観戦したという。
8歳の時、カタルーニャ州リーグに所属するCEマタロの下部組織に入団。その才能はたちまち他クラブにも知られるところとなり、2年後には憧れのバルサから引き抜き。「ラ・マシア」と呼ばれる育成組織でクラブの哲学を学ぶ。このときユースの有望株として共に切磋琢磨したのが、同い年のリオネル・メッシである。
ユースチームでは守備的MFとして活躍。目標としたのは中盤底の司令塔、ジョゼップ・グアルディオラだった。さらにその卓越した攻撃センスで得点力も備えるようになり、2シーズンで20ゴール以上を挙げる活躍を見せる。
だがいくらユースレベルで結果を残したところで、大物選手がひしめくトップチームへ割り込むのは至難の業。たとえ昇格を果たしたとしても、層の厚いバルサの中盤でくすぶってしまうのは必至と思えた。こうした事情から、次第にセスクの気持ちはクラブから離れていく。
アーセナルへの移籍
03年、アンダー代表としてフィンランド開催のU-17世界選手権に出場。スペイン代表は決勝でブラジルに敗れて準優勝に終わるも、チャンスメーカーでありながら5ゴールを挙げる活躍を見せたセスクは、大会MVPと得点王を獲得。スペインの次代を担う逸材と注目されるようになった。
そんな若者の才能に惚れ込んだのが、プレミアリーグの強豪アーセナルを率いるアーセン・ベンゲル監督だった。ベンゲル監督の要望を受け、アーセナルはバルサへ獲得のオファー。思いがけないチャンスにセスクも関心を示した。様々な事情が絡んで移籍交渉は長引くが、03年9月に契約が成立。16歳の少年はロンドンに渡る。
アーセナル入団の1ヶ月半後、リーグカップのロザラム・ユナイテッド戦でトップチームデビュー。16歳177日のクラブ最年少出場を記録する。さらにその35日後、同じリーグカップのウォルバーハンプトン戦で初ゴールを記録。これもクラブ最年少の得点記録だった。
移籍1年目の03-04シーズンはリーグカップ3試合出場に留まるも、チームはプレミアリーグ無敗優勝の快挙を達成。セスクは「インビンシブルズ(無敵)」と呼ばれた栄光のチームで、将来を嘱望されるホープとなった。
ガナーズの若き主力
しばらくユースで経験を積むはずだったセスクだが、新シーズン開幕前に行なわれたコミュニティ・シールド(スーパーカップ)のマンチェスター・ユナイテッド戦で、負傷のパトリック・ヴィエラに代わって出場。ここで好パフォーマンスを見せつけ、クラブと正式なプロ契約を結ぶ。
そしてシーズン開幕以降も4試合連続で先発に起用され、8月のブラックバーン戦でクラブ最年少となるプレミア初ゴールを記録。さらにチャンピオンズリーグのローゼンボリ戦でも初得点を決めるなど、17歳の躍動は欧州サッカー界にセンセーションを巻き起こす。
こうして2年目の04-05シーズンは33試合2ゴール5アシストの成績を残し、早くもレギュラーの座を獲得。FAカップにも6試合で使われ、クラブの2季ぶりとなる優勝に貢献した。
05-06シーズン、ヴィエラがユベントスに移籍したことにより、セスクはその穴埋めとして中盤の舵取り役を任されるようになった。ヴィエラとの体格差もあり、当初はセスクの力量を疑う声もあったが、彼は自分のスタイルを貫いてボランチのポジションを確立。35試合3ゴール5アシストの安定した結果を残す。
CLでも好調なパフォーマンスを維持し、レアル・マドリードとのラウンド16では、卓越したプレーでゲームをコントロール。スペインの強豪を2試合無得点に封じた。
準々決勝はユベントスと対戦。ホームでの第1戦、前半40分にセスクが先制ゴールを記録。さらに後半の69分にはアンリの追加点をアシストし、勝利の立役者となった。このあとアウェーでの第2戦をスコアレスで引き分け、準決勝へ進む。
準決勝では伏兵ビジャレアルを2戦合計1-0で下し、アーセナルがクラブ初となるCL決勝に進出。ファイナルはセスクが育ったバルセロナとの対戦だったが、惜しくも1-2の逆転負け。ビッグイアーを手にすることができなかった。
ドイツW杯出場
CLでの活躍が認められ、06年3月のコートジボワール戦でフル代表デビュー。3-2と勝利した試合で1アシストを記録し、デビュー戦を飾った。そのプレーにより、同年5月にはチーム最年少の19歳でW杯メンバーに選出。代表入りしたばかりの若者は、さっそく世界の大舞台に臨むことになった。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。初戦はF・トーレスやD・ビジャら若い攻撃陣が輝きを見せ、ウクライナに4-0の快勝。セスクは後半77分からのW杯初出場を果たした。
第2戦の相手はチュニジア。伏兵に思わぬ先制を許し、1点のビハインドで迎えた後半開始の46分、スペインはルイス・ガルシアとビジャに代えてセスクとラウル・ゴンザレスを投入する。
その71分、セスクのシュートが弾かれたところをラウルが詰めて同点。さらに76分、セスクのスルーパスからトーレスが逆転弾。ロスタイムの91分にもトーレスがPKを沈め、3-1の勝利。セスクの2点に絡む活躍で、1試合を残してのグループ突破を決める。
最終節のサウジアラビア戦は、先発11名を入れ替えながら1-0と余裕の勝利。セスクは初めてW杯のスターティングメンバーに名を連ねた。
トーナメントの1回戦はフランスと対戦。中盤にはシャビ、シャビ・アロンソ、セスクと3人のゲームメーカーが並んだ。試合は前半28分にビジャのPKで先制するも、41分にリベリーのゴールを許して同点。83分にはジダンのFKからヴィエラに逆転弾を決められ、ロスタイムにもジダンが追加点。1-3の逆転負けを喫してしまう。
スペインは惜しくもベスト16敗退となってしまったが、新世代プレーヤーの台頭は次大会への期待を高めた。
スペインの「クワトロ・フゴーネス」
06-07シーズン、ヴィエラの背番号4を引き継いだセスクは、54試合4ゴール13アシストの活躍。欧州の最優秀若手賞である ”ブラボー賞” と "ゴールデンボーイ賞" に輝く。
翌07-08シーズン、公式戦45試合13ゴール19アシストとキャリアハイの成績。マンチェスター・ユナイテッドを優勝に導いたクリスティアーノ・ロナウドの大ブレイクにより個人賞は逃すも、セスクはプレミア屈指のゲームメーカーと認められるようになった。
スペイン代表ではオーストリア/スイス共催のユーロ08大会に出場。ロシアとの初戦では後半54分に交代出場し、ロスタイムの91分にダメを押す4点目。代表初ゴールで4-1の快勝に寄与する。
続くスウェーデン戦も、後半59分からの出場で2-1の勝利に貢献。主力を温存した最終節のギリシャ戦では今大会初先発を果たし、G/L3連勝を飾ったチームの重要なピースとなった。
準々決勝ではW杯王者のイタリアと互角に渡り合い、0-0でのPK戦を制してベスト4進出。この試合も後半から起用されたセスクは、PK戦の5人目としてシュートを沈め、勝利に貢献した。
準決勝はロシアと2度目の対戦。両者無得点で進んだ34分、スペインには負傷退場のビジャに代わってセスクを投入。するとセスクを中心にボールが回り始め、後半50分にはイニエスタのクロスにシャビがボレーで合わせて先制点。73分にもセスクのワンタッチパスからグイサが追加点を決める。
さらに終盤の82分、イニエスタのパスに抜け出したセスクが中央にクロスを送ると、ボールを受けたシウバが3点目。スペインが3-0の圧勝を収めた。
決勝の相手はドイツ。スペインは「クワトロ・フゴーネス」と呼ばれるセスク、シャビ、イニエスタ、シウバの4人が初めて先発のピッチに顔を揃えた。
試合は前半33分、相手のミスを突いたトーレスが先制点。このあと「クワトロ・フゴーネス」によるパスサッカーがフィジカル頼みのドイツを翻弄し、1-0の勝利。スペインが44年ぶり2度目となる欧州制覇を達成する。
6試合中2試合の先発に留まったセスクだが、スペインを優勝に導く1ゴール4アシストの活躍で、UEFA選定の大会ベストプレーヤー賞(23名)に輝いた。
W杯優勝に貢献
08-09シーズン、アーセナルのキャプテンに就任したセスクだが、開幕間もないリバプール戦で重傷を負い、4ヶ月の戦線離脱。公式戦33試合3ゴール13アシストの成績に終わる。
翌09-10シーズンは公式戦36試合19ゴール17アシストと復活の働きを見せるが、マンUとチェルシーによる2強の牙城を崩せず、5季連続のタイトル無冠となった。
スペイン代表ではW杯欧州予選のグループ首位突破に貢献。しかし豊富な人材を誇る中盤の厚い層に阻まれ、ベンチスタートとなることが多かった。
10年6月、Wカップ・南アフリカ大会が開幕。初戦はスイスに思わぬ黒星を喫するも、続くホンジュラス戦とチリ戦に連勝。優勝候補のスペインは順当に決勝トーナメントへ進む。
イベリア対決となったトーナメント1回戦はポルトガルを1-0と下し、準々決勝ではパラグアイとの激戦を1-0で制してベスト4進出。そして準決勝で強敵ドイツを1-0と退け、ついにスペイン初となる決勝へ勝ち上がる。
しかしシャビ、イニエスタ、ブスケツ、シャビ・アロンソで固められた中盤で、パフォーマンスに波のあるセスクの出番は限られ、準決勝までの6戦で3試合に途中出場したのみだった。
決勝の相手はオランダ。試合は一進一退の攻防が続き、両チーム無得点で終盤戦を迎える。その87分、セスクはシャビ・アロンソに代わってピッチへ投入。スコアは動かないまま、延長戦に突入する。
そしてPK戦も見えてきた延長後半の116分、相手DFのクリアを拾ったセスクが、右側で構えるイニエスタへスルーパス。そこから値千金の決勝点が生まれ、スペインが1-0の勝利。ここまで目立たなかったセスクだが、最後の最後でチームへ栄光を呼び込む働きを見せ、母国のW杯初優勝に貢献した。
11年8月、かねてから噂されていたバルセロナへの移籍契約が成立。セスクは8シーズンを過ごしたアーセナルを離れ、故郷の強豪クラブに戻ることになった。
復帰1年目の11-12シーズン、カンテラ時代の経験を活かしてすぐにチームへ馴染んだセスクは、公式戦48試合15ゴール18アシストの活躍。バルサはリーグ4連覇とCL2連覇を逃すも、コパ・デル・レイ優勝やクラブW杯制覇など4つのタイトルを獲得する。
続いて12-13、13-14シーズンも安定した成績を残すが、ポジションの被るシャビやイニエスタほどの信頼を得られなかったこと、グアルディオラ監督との折り合いが悪かったことで、プレミアリーグへの移籍を希望。14年6月にはチェルシーと新たな契約を交わした。
チェルシーではさっそくボランチのポジションに定着し、14-15シーズンのリーグ戦で34試合3ゴール18アシストの活躍。チームの6季ぶりとなるプレミア制覇に貢献する。
翌15-16シーズンはアザール、D・コスタ、オスカルら主力の不振でリーグ10位に沈むも、16-17シーズンにタイトル奪回。だがセスクは新加入のカンテにポジションを奪われ、リーグ戦29試合5ゴール12アシストの成績に終わる。
17-18シーズンは32試合に出場するが、プレーのキレ味を失い2ゴール4アシストと低迷。翌シーズン出場機会を失ったセスクは、19年1月にリーグ・アンのASモナコへ移籍する。
代表での実績
12年6月、ポーランド/ウクライナ共催のユーロ大会に出場。セスクが先発に起用されることはなかったが、中盤のスーパーサブとして6試合すべてに使われ、メジャー大会3連覇の偉業達成に大きな役割を果たした。
14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。初戦はオランダとの前大会ファイナリスト対決となった。試合は前半にスペインがリードするも、後半に大逆襲を受けて1-5の惨敗を喫する。
続くチリ戦も0-2の完敗。最終節のオーストラリア戦でようやく勝点3を得るも、前回王者はグループ3位に沈んで痛恨の敗退。セスクの出番は2試合30分あまりに終わった。
16年6月にはフランス開催のユーロ大会に出場。セスクは代表を引退したシャビに代わってチームの司令塔を任され、4試合に先発するも力及ばずベスト16敗退。スペインの大会3連覇はならなかった。
このあと18年ロシアW杯を目指す欧州予選のメンバーに選ばれることなく、11年に及んだ代表活動を終えた。その代表歴で110キャップを記録、通算15ゴールを挙げている。
ASモナコでは4シーズンを過ごし、22年8月にはセリエBのコモに移籍。しかしキャリアの最晩年期にあったセスクのプレーは無名チームを押し上げることができず、シーズン終了後の23年7月に36歳での引退を発表する。
引退後はコモBチームとU-19チームの監督に就任。同年11月には、トップチームの監督が解任されたことから短期の暫定監督を務めた。現在はコモのアシスタントコーチとして活動。将来のプレミアリーグへの復帰を目指し、指導者としての経験を積んでいる。
:追記 23年7月、コモの監督に就任