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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ズラタン・イブラヒモビッチ(スウェーデン)

 

荒神あらがみの怒り」

圧倒的なボディバランスと巨体に似合わないボールスキルを持ち、ストライカー、セカンドトップポストプレー、チャンスメイクと多彩な役割をこなした攻撃の万能選手。高さとパワーを活かした空中戦は無敵を誇り、テコンドー仕込みの身のこなしでアクロバティックなゴールを決めた。その抜きん出た能力で「天才」と謳われたのが、ズラタン・イブラヒモビッチ( Zlatan Ibrahimović )だ。

 

25年に及んだキャリアでアヤック、ユベントスインテル・ミラノバルセロナACミランパリ・サンジェルマンマンチェスター・ユナイテッドと強豪クラブを渡り歩き、計30以上ものタイトル獲得に貢献。メンタリティーの強さでチームに活力を与え、「優勝請負人」と呼ばれた。セリエAリーグ・アンで通算5度の得点王に輝く。

 

スウェーデン代表で2度のW杯と4度のユーロ大会に出場。ナショナルチームの大舞台でこれといった実績を残せなかったが、数々のスーパーゴールは観る者を楽しませた。その代表キャアリアは22年の長きにわたり、同国歴代最多となる62ゴールを記録した。

 

マルメの悪童

ズラタン・イブラヒモビッチは1981年10月3日、スウェーデン南東部の大都市マルメに、ユーゴスラビア系移民が多く住むローセンゴード地区で生まれた。

父シェフィクはボスニア出身のムスリムで、母ユルカはクロアチア出身のカトリック教徒。ズラタン5人の兄弟のうち、母親が一緒なのは上から3番目の姉だけという複雑な家庭だった。ちなみに ”ズラタン” はクロアチア語で「黄金」という意味である。

2歳のときに両親は離婚、ズラタンは他の兄弟とともに掃除婦をする母親のもとで育てられた。だがそんな貧乏暮らしにあっても、母に買って貰ったシューズでサッカーを楽しみ、8歳で地元クラブのFBKバルカンに入団。ここでテコンドーに親しみ、名を成した後年に ”名誉黒帯” を授かっている。

だが生活の苦しさ、母のDVや窃盗、異母姉の薬物使用など、様々な問題により社会福祉機関が家庭に介入。9歳となっていたズラタンは父と一緒に暮らすことになる。しかしその父親もアルコール依存症に陥っており、冷蔵庫の中はビールでぎっしり。育ち盛りにあった少年は、空腹をしのぐため母のアパートに通った。

こんな少年期を過ごしたズラタンは、自慢の腕っ節を鳴らして喧嘩に明け暮れる毎日。兄からプレゼントされた自転車を盗まれたのをきっかけに、自転車泥棒や万引きにも手を染めるようになる。そんな悪童の歯止めとなったのが、サッカー選手として身を立てるという思いだった。

 

アヤックスのエース

13歳でマルメFFのトライアルを受け、その下部組織に入団。才能溢れたFWとして注目されるも、プレーに協調性と安定感を欠いて伸び悩み。負けん気は強いものの感情の起伏が激しく、自分をコントロールできずに伸び悩んでしまったのだ。

ユースチームでなかなか芽を出せず、サッカーを諦めることも考えるが、コーチに説得されて翻意。これを契機に怒りを抑えることを学び、厳しい練習にも取り組んでいく。その努力が実を結び、18歳となった99年にトップチーム昇格を果たす。

プロ1年目の99年シーズンは6試合1ゴールの成績。財政難に苦しんだクラブは2000年シーズンに2部降格となるが、チームの主力へと成長したズラタンは26試合12ゴールの活躍。マルメの1部復帰に貢献した。

その評判は国外にも届き、プレミアリーグの強豪アーセナルより獲得のオファー。結局この移籍は実現しなかったが、オランダの名門アヤックス・アムステルダムから新たなオファー。01年7月、スカンジナビアの新鋭はエールディヴィジに活躍の場を移す。

移籍したアヤックスではしばらくベンチ要員に甘んじるが、シーズン途中に就任したロナルド・クーマン監督により先発へと起用される。するとリーグ戦後半に出番を増やし、24試合6ゴールを記録して01-02シーズンのエールディヴィジ優勝に貢献。またKNVBベーカー(オランダカップ)決勝では、延長戦のゴールデンゴールでチームを国内2冠に導く。

レギュラーに定着した02-03シーズンはリーグ戦25試合13ゴールの好成績。チャンピオンズリーグでも13試合で5ゴールを挙げ、チームのベスト4入りに寄与した。

03-04シーズンは鼠径部の故障で3ヶ月の欠場を余儀なくされるも、チームトップの13ゴール(22試合)を記録。エースストライカーとしての座を確立し、アヤックス2季ぶりのリーグ優勝に大きな役割を果たす。

 

代表のズラタン

01年1月、親善試合のフェロー諸島戦でフル代表デビュー。同年10月のW杯欧州予選・アゼルバイジャン戦で代表初ゴールを記録する。

このまま代表に定着し、02年W杯・日韓大会にも出場。スウェーデンはアルゼンチン、イングランド、ナイジェリアの同居する「死のグループ」を勝ち抜き、ベスト16入り。だがFWの控えだったズラタンがピッチに立ったのは、2試合の計45分間だけだった。

04年6月、ポルトガル開催のユーロ大会に出場。初戦の相手はブルガリアズラタンはベテランのラーションと2トップを組んで先発のピッチに立った。前半ユングベリのゴールで先制すると、後半にラーションが2得点。ズラタンもPKによる1点を挙げ、5-1の大勝に貢献する。

続く第2戦は強豪イタリアとの対戦。前半カッサーノの先制点を許し、1点のビハインドで迎えた終盤の85分。CKからの混戦でゴールを背にしたズラタンが、アクロバティックなヒールキックで値千金の同点弾。試合を1-1のドローに持ち込んだ。

第3戦は北欧のライバルであるデンマークと2-2と引き分け、3チームが勝点で並ぶが、初戦の大量得点が効いてグループ首位突破。準々決勝のオランダ戦は、延長120分を終わっても0-0のまま決着がつかず、勝負の行方はPK戦に。だがPK戦では3人目のズラタンと6人目のメルベリが失敗し、惜しくもベスト8敗退を喫する。

 

セリエAでの活躍

ユーロ大会後の04-05シーズン、ズラタンは開幕戦から3試合3ゴールと絶好調の出足。そこへ降って湧いたようにユベントスからのオファーが舞い込み、急遽イタリアのビッグクラブへ移籍することになった。

ユベントスのシーズン開幕試合、ブレシア戦で途中出場したズラタンはいきなりセリエA初ゴールを記録。このあと負傷したデル・ピエロトレゼゲに代わって先発に起用され、35試合16ゴールの活躍。クラブの2季ぶりとなるスクデット獲得に貢献し、セリエA最優秀外国選手賞とスウェーデン最優秀選手賞に輝く。

翌05-06シーズン、CFからチャンスメイカーへと役割を変え、35試合7ゴールの成績。得点こそ減ったものの、ターゲットマンや攻撃の起点となって勝利に貢献。セリエA連覇に大きく寄与する。

だが06年春、イタリアサッカー界を騒がせた審判買収疑惑「カルチョポリ・スキャンダル」により、不正の主犯格と見なされたユベントスは前2シーズンのスクデットを剥奪。さらにセリエBへの降格処分を受けてしまう。

この騒動でズラタンユベントスを離れることになり、06-07シーズンはライバルクラブのインテル・ミラノへ移籍。圧倒的な強さでセリエAを制したインテルで、チームトップとなる15ゴールを挙げて優勝に大きく貢献。2度目となるスウェーデン最優秀選手賞を受賞する。

翌07-08シーズン、右膝の故障に苦しみながらも26試合17ゴールの活躍。セリエA最終節のパルマ戦では途中出場から2ゴールを奪い、リーグ3連覇の立役者となった。これにより、セリエAの最優秀選手賞と外国人最優秀選手賞をダブル受賞した。

08-09シーズンはジョゼ・モウリーニョインテルの監督に就任。新指揮官のもとでズラタンは躍動し、リーグ戦開幕からゴールを量産。ボローニャ戦での芸術的なヒールシュートは、セリエAの年間最優秀ゴールにも選ばれる。

ズラタンの勢いは最後まで衰えず、35試合25ゴールと過去最高の成績。初となる得点王の活躍でチームをリーグ4連覇に導き、セリエA最優秀選手賞と外国人最優秀選手賞も2年連続でダブル受賞。名実ともに当代最高のストライカーと認められるようになった。

 

期待外れに終わった代表の大舞台

04年9月から始まったW杯欧州予選では、8試合8ゴールの大活躍。ラーションユングベリとともに強力攻撃陣を形成して、2大会連続となるW杯出場決定に貢献する。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。だが初戦のトリニダード・トバゴ戦では、守りを固める相手を崩せず無得点。大会初出場の格下に0-0と引き分けてしまう。

第2戦もパラグアイの堅守に苦しみ、プレーの精彩を欠いたズラタンは後半開始にアルベックと交代。終了直前の89分にユングベリの決勝ゴールが生まれ、1-0の辛勝を収める。

最終節のイングランド戦でズラタンはベンチスタート。試合終盤まで1-2とリードされて敗退の瀬戸際に追い込まれるが、後半ロスタイムにラーションが起死回生の同点弾。スウェーデンは辛うじて決勝トーナメントに進む。

トーナメント1回戦の相手は開催国ドイツ。2試合ぶりの先発復帰となったズラタンだが、チャンスでシュートを外すなど不調は相変わらず。0-2とリードされた後半72分に交代となった。こうしてスウェーデン自慢の攻撃陣が爆発することなく、期待された大会でベスト16敗退という物足りない結果に終わる。

このあと始まったユーロ08予選にも招集されるが、ナイトクラブへ繰り出しての門限破りを咎められ、仲間2人と共に謹慎処分。これに納得しなかったズラタンは、以降の予選出場をボイコット。約半年間代表を離れる。

07年7月に代表へ復帰すると、08年6月のユーロ大会(オーストラリア/スイス共催)に出場。初戦はズラタンの先制点などで前回王者ギリシャに2-0の勝利。続くスペイン戦も、前半34分にズラタンがシュートを決めて同点。だが膝の痛みでズラタンが後半に退くと、ロスタイムにビジャの決勝点を許して1-2の敗戦を喫する。

準々決勝進出が懸かった最終節のロシア戦は、「小皇帝」アルシャビンの勢いに押されて0-2の完敗。ズラタンは膝の怪我を押してフル出場するも、最後は見せ場もないままグループ敗退となった。

 

バルセロナからミラン

09-10シーズン、サミュエル・エトーとの交換・プラス移籍金の条件でスペインのFCバルセロナへトレード。リーガ・エスパニョーラ開幕戦でさっそく初ゴールを記録すると、続く4試合で連続ゴール。開幕5試合5得点という華々しいスタートを切る。

10年12月にはUAE開催のクラブW杯に出場。決勝でアルゼンチンのエストゥディアンテスを2-1と下し、クラブ世界一のタイトルを得た。

だが起用法を巡ってグアルディオラとの間で軋轢を生じ、次第に出場機会は減少。そしてチャンピオンズリーグ準決勝でインテル・ミラノに敗れると、試合後のロッカールームでズラタンは監督に向かい「お前がボールを持っているんじゃない。地獄へ堕ちろ!」と暴言。2人の対立は決定的なものとなっていく。

それでも29試合16ゴールの好成績を残してバルサのリーガ2連覇に貢献するも、グアルディオラ監督はズラタンの放出をクラブに要求。10-11シーズンはACミランにレンタルされ、セリエAの3大クラブでプレーする数少ない選手の一人となった。

移籍したミランではさっそく主力の座を占め、29試合14ゴールの活躍。近年低迷していたチームを7季ぶりの優勝に導き、3度目となるセリエA最優秀選手賞と最優秀外国人選手賞のダブル受賞。ミランへの完全移籍を勝ち取る。

翌11-12シーズンは32試合28ゴールとキャリアハイの成績を記録。自身2度目のセリエA得点王に輝くなど、30歳を過ぎてもその勢いは留まるところを知らなかった。だがカルチョポリ後の低迷から抜け出したユベントススクデットを奪われ、プロ生活で初めてクラブタイトル無冠を経験する。

 

優勝を請け負った荒神

12年夏、カタール資本となったフランスの名門から破格の条件を提示され、パリ・サンジェルマンへ移籍。4年間在籍したPSGでは3度のリーグ得点王と最優秀選手賞に輝き、リーグ・アン制覇3回、フランスカップ優勝2回、フランスリーグカップ優勝3回など大きな実績を残して、「優勝請負人」の名を欲しいままにする。

16年5月、「俺は王として来て、伝説として去る」の言葉とともにPSGを退団。同年夏にはモウリーニョが監督を務めるマンチェスター・ユナイテッドへ移籍する。ここでも公式戦46試合28ゴールの好成績を残し、リーグカップ優勝とヨーロッパリーグ制覇に貢献。トップストライカーとして衰えぬ実力を示した。

だが翌17-18シーズンは怪我に苦しみ、ユナイテッドとの契約を解除。18年3月にはMLSロサンゼルス・ギャラクシーと契約を交わす。ギャラクシーのデビュー戦では、40mの豪快弾を含む2得点を挙げ、4-3の逆転勝利に貢献。試合後、観客の大歓声に応え「彼ら(ファン)がズラタンを欲しいと言ったから、俺がズラタンを与えたのだ」と豪語した。

そして新天地の北米リーグで18年シーズンに22ゴール、19年シーズンに30ゴールと得点を量産し、格の違いを見せつけた。

その栄光のキャリアの一方、喧嘩っ早さでも知られたズラタン。熱くなると敵味方関係なく襲いかかり、退場処分や出場停止処分を受けることもしばしば。ミラン時代の10年には、インテルDFのマテラッツィを病院送りにしたこともあった。

だがその攻撃的な姿勢がチームに活力を与えたのも事実で、他を圧倒するプレーで戦う仲間たちを牽引。誰もが認めざるを得ない存在感を誇示し、ズラタンは自らを「神」と称した。

 

スウェーデン代表のぬし

スウェーデンが10年W杯・南アフリカ大会の出場を逃すと、ズラタンは代表からの引退を表明。だがユーロ予選前に復帰を果たし、キャプテンとして本大会出場決定に貢献する。ユーロ2012では1勝2敗でグループ敗退となるが、鮮やかな2ゴールを決めたズラタンは大会ベストプレーヤーの23名に選ばれた。

12年9月からW杯欧州予選が開始。10月のアウェー・ドイツ戦では、0-4のビハインドから反撃の口火を切るゴール。ここからスウェーデンが4-4と追いつき、敗戦必至のゲームをドローに持ち込む。

このあと行なわれた親善試合のイングランド戦では、ズラタンひとりが4得点の大暴れ。特に25mの距離から決めた芸術的バイスクルシュートは、世界の称賛を集めてFIFAプスカシュ賞(年間最優秀ゴール)に選ばれる。

しかしズラタンの活躍にかかわらず、スウェーデンプレーオフポルトガルに敗れて欧州予選敗退。2大会連続でW杯出場を逃してしまう。

ズラタンはこのあとも代表の主力を務め、16年にはフランス開催のユーロ大会に出場。だがスウェーデンは1勝2敗で最下位に沈み、3大会連続のグループ敗退となった。大会後、ズラタンは代表からの引退を発表する。

21年3月、クラブでの好調さを受けて5年ぶりの代表復帰。このあといくつかの試合に出場し、実質19年間の代表歴で122試合62ゴール(得点は歴代最多)の記録を残した。

 

最後の仕事

19年11月、2シーズンを過ごしたLAギャラクシーからの退団を発表。すでに38歳となっていたズラタンは引退も考えるが、長年の盟友であり敏腕代理人として知られたミノ・ライオラの強い勧めにより、古巣ACミランへの復帰を決意した。

老兵の復帰にはミラニスタから懐疑の目が向けられるが、19-20シーズン半ばの加入で18試合10ゴールの好成績。セリエA二桁得点最年長記録を更新し、契約延長を勝ち取る。

翌20-21シーズン、ハムストリングの負傷で長期離脱を余儀なくされるが、19試合15ゴールの活躍。運動量こそ減ったものの、豊富な経験と旺盛な闘争心で若いチームの手本となり、近年リーグ中位に甘んじていた名門クラブを2位へと押し上げた。

21-22シーズン、怪我の影響で先発の機会は減ったが、23試合8ゴール3アシストを記録してミラン11季ぶりとなるセリエA制覇に貢献。ズラタンはこの優勝を、前月亡くなったばかりのライオラに捧げた。

22-23シーズンは左膝前十字靱帯の手術とリハビリに9ヶ月を費やすが、23年2月のアトランタ戦で戦線復帰。翌3月のウディネーゼ戦ではPKによる1点を挙げ、セリエAの最年長得点記録(41歳166日)を更新する。

そしてシーズン最終節のヴェローナ戦を最後に、現役を引退、25年間のプロキャリアで30以上のクラブタイトルを得たが、なぜかCL優勝には縁が無かった。

引退後の23年12月、ACミランが経営する投資運用会社「レッドバード・キャピタル・パートナーズ」のアドバイザーに就任。第2のキャリアへ歩みを進めている。