サイレントノイズ・スタジアム

サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》フレドリック・ユングベリ(スェーデン)

 

「北欧のセクシーフットボーラー」 

圧倒的な加速力を活かしたドリブル突破を持ち味とし、決定力の高さでFWやセカンドトップもこなした攻撃のユーティリティープレーヤー。縦横無尽にピッチを駆け回り、アグレッシブな働きで局面を打開。何拍子も揃った攻撃的スタイルで「世界最高峰のアタッカー」と呼ばれたのが、 フレドリック・ユングベリ( Karl Fredrik Ljungberg )だ。

 

スウェーデンのハルムスタッズで名を上げ、ベンゲル監督に見込まれてアーセナルへ移籍。黄金期を築いたガナーズ攻撃陣の一翼を担い、03-04シーズンの無敗優勝に大きく貢献。その全力プレーは派手な見た目とともに強烈なインパクトを残し、ファンからの絶大な人気を誇った。キャリアの晩年にはJリーグ清水エスパルスでもプレーしている。

 

スウェーデン代表ではヘンリク・ラーションズラタン・イブラヒモビッチとともに攻撃陣を牽引し、02年W杯と06年W杯、ユーロ04のグループリーグ突破に貢献。キャプテンを務めたユーロ08では、肋骨を骨折しながらも3試合に出場した。

 

ハルムスタッズの有望株

ユングベリは1977年4月16日、スウェーデン南端のスコーネ県にあるヴィットという町で生まれた。土木技師である父は建設コンサルタント業を営み、ユングベリが5歳のとき北海に面する湾岸都市のハルムスタッドへ引っ越し。ここでハルムスタッズBKの下部組織に入団する。

少年時代を過ごしたハルムスタッドでは、サッカーだけではなくアイスホッケーやハンドボールにも親しんだ。特にハンドボールでは、U-15代表に選ばれるほどの腕前だったという。

サッカーでも2歳上のカテゴリーでプレーするなど早くから才能の輝きを見せ、17歳でハルムスタッズBKとプロ契約。94年のAIK戦でアルスヴェンスカン(スウェーデン1部リーグ)デビューを果す。

学業も優秀だったユングベリはクラブと平行して大学に通い、将来を見据えて情報技術と経済学を学んだ。だが多忙な授業スケジュールと厳しい練習との両立に苦労し、ハルムスタッズでレギュラーを獲得する頃には大学を辞めてサッカーへ専念することになった。

95年シーズンには公式戦20試合に出場し、スヴェンカ・クペン(スウェーデンカップ)優勝に貢献。96年シーズンはさらに出場機会を増やし、97年シーズンは28試合6ゴールの活躍。クラブに18年ぶりのリーグ優勝をもたらす原動力となる。

 

アーセナルでの活躍

それらの活躍が認められ、97年1月には親善試合のアメリカ戦で19歳にしてA代表デビュー。翌98年5月のデンマーク戦で初ゴールを記録し、チームを1-0の勝利に導く。

同年9月から始まったユーロ予選にも参加。緒戦となった2日のイングランド戦では1-2と敗れるも、1週間後にはテレビでユングベリのプレーを見たベンゲル監督から獲得のオファー。トントン拍子でアーセナルとの契約が決まる。

契約を結んですぐの9月20日には早くもプレミア初登場。優勝を争うマンチェスター・ユナイテッドとの試合で途中出場を果し、ピッチに立った3分後には名手ピーター・シュマイケルの頭上を抜くループシュートで鮮烈のデビュー。3-0の勝利に貢献し、その名を一気に知らしめた。

翌99-00シーズンは、リーグ戦26試合6ゴールの成績でレギュラーの座を獲得。00-01シーズンも30試合6ゴールと、中盤で不動の地位を確立する。その働きでFAカップ決勝進出にも貢献。リバプールとの決勝では先制点を挙げるが、終盤オーウェンの2発を浴びて1-2の逆転負け。この年のアーセナルはリーグ戦2位、UEFAカップ(現EL)準優勝、FAカップ準優勝とシルバー3冠に終わった。

01-02シーズン、ガナーズがシルバー3冠の鬱憤を晴らすような快進撃。ベルカンプ、ピレス、ヴィルトールと好調な攻撃陣に支えられ、エースのアンリが24ゴールの大爆発で初の得点王を獲得。アーセナルは宿敵マンチェスター・ユナイテッドのリーグ3連覇を阻止し、3季ぶりとなる優勝を果す。

さらにFAカップも2年連続の決勝へ進み、ユングベリのゴールなどでチェルシーに2-0の快勝。中盤で躍動したユングベリは公式戦30試合17ゴールとキャリアハイの成績を残し、チームの2冠達成に大きく貢献。プレミアリーグ最優秀選手賞、スウェーデン年間最優秀選手賞など、数々の個人タイトルにも輝く。

 

W杯「死のF組」突破

2000年7月には初の大舞台となるユーロ大会に出場するも、スウェーデンはグループ最下位に沈んで敗退。3試合に先発したユングベリだが、これといった見せ場もないまま大会を去っていった。

直後に始まったW杯欧州予選では、伝統の堅守でチームを立て直してグループ首位突破。2大会ぶりとなる日韓W杯への出場を決める。

3位入賞した94年W杯アメリカ大会以来の上位進出を狙うスウェーデンだが、G/Lの組み合わせはアルゼンチン、イングランド、ナイジェリアの強豪が同居する「死のF組」だった。

日本ラウンドを戦うことになったチームは宮崎市にキャンプ地を構え、大会本番に備えたトレーニングを行なう。だがその公開練習中、ユングベリがチームメートのオロフ・メルベリから後方タックルを受け激怒。取材の報道陣が見守る中、取っ組み合いによる2人の喧嘩が繰り広げられ、その醜態はすぐさま映像とともに世界へ伝えられた。

02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。初戦の相手はイングランドだった。前半はイングランドペースで進み、24分にベッカムのCKからDFキャンベルにヘッドで合わされ失点。だが後半はユングベリラーションを中心に反撃し、59分に相手のミスを突いて同点。このまま引き分けて勝点1を得る。

続く第2戦はナイジェリアと対戦。前半27分に先制を許すが、35分には左サイドのユングベリからのスルーパスラーションが同点弾。後半63分にもユングベリのパスに抜け出したラーションがPエリアで倒されPK。これをラーション自身が沈めて2-1の逆転勝利を収めた。

だが勝利の殊勲者となったユングベリが股関節を痛めてチームを離脱。それでもアルゼンチンとの第3戦は守りを固めて1-1の引き分け。スウェーデンは「死のF組」で首位突破を果す。

しかしトーナメントの1回戦では、大会に旋風を起こしたセネガルに1-2の敗戦。ユングベリを失ったスウェーデンは攻撃の迫力を欠き、フランス撃破の金星を挙げたセネガルの勢いを止めることが出来なかった。こうしてユングベリ最初のW杯は、苦い思いが残るものとなった。

 

「インビンシブルズ」の主要メンバー

02-03シーズンは故障の影響により公式戦24試合7ゴールの成績。アーセナルマンチェスター・ユナイテッドにリーグ優勝を奪回されるも、FAカップでは2連覇を果す。

翌03-04シーズン、好調ガナーズは序盤から首位戦線を快走。新興のチェルシーやライバルのマンチェスター・ユナイテッドを大きく引き離し、リーグ戦38試合無敗(12分け)による「インビンシブルズ(無敵優勝)」の偉業を達成。

アンリ、ベルカンプ、ピレス、ヴィエラ、G・シウバらが奏でるパスサッカーはプレミアリーグを席巻。ユングベリのスピードを活かしたドリブル突破は攻撃のアクセントとなった。

リーグ戦30試合4ゴールの成績で無敗優勝に貢献したユングベリは、その活躍により5度目となるスウェーデン最優秀MF賞を獲得する。

 

ユーロ04の激闘

04年6月、ポルトガル開催のユーロ大会に出場。G/Lの初戦はブルガリアを圧倒し、前半32分にユングベリが先制点を決めると、後半の57分、58分とラーションが立て続けに追加点。78分にはイブラヒモビッチのPKでリードを広げ、ロスタイムにもダメ押し点。5-0の大勝を収める。

第2戦は強豪イタリアに先制を許すも、敗色濃厚となった終盤の85分、ユングベリのゴール前での競り合いから、こぼれ球に反応したイブラヒモビッチがアクロバティックに決めて同点。土壇場で引き分けへと持ち込んだ。

北欧対決となった最終節のデンマーク戦も終了直前にヨンソンのゴールで追いつき、2-2のドロー。スウェーデンブルガリア戦での大量得点を生かし、グループ1位でベスト8に進出した。

準々決勝はオランダとの試合。双方拮抗した120分の戦いが続き、勝負はスコアレスのままPK戦へ。先攻のスウェーデンは3人目のイブラヒモビッチがキックを枠外に外すも、オランダ4人目コクーのPKがポストに弾かれ失敗。スウェーデンは後続のユングベリらがきっちりと沈めて、サドンデスへ持ち込む。

だがウェーデン6人目メルベリのPKは、GKファン デルサールに防がれ失敗。オランダ6人目のロッベンに勝負を決められてしまい、スウェーデンはベスト8敗退となった。

 

ガナーズの人気選手

04-05シーズンは公式戦38試合14ゴールの好成績。リーグ戦はモウリーニョ監督率いるチェルシーの独走を許して2位に甘んじるも、FAカップでは決勝でマンチェスター・ユナイテッドPK戦で下し、2年ぶりの優勝を果す。

アグレッシブなプレーでスタジアムを沸かせ、ファンからの絶大な支持を得たユングベリ。彼の端正でセクシーなルックスは注目され、カルバン・クラインの下着CMのモデルに起用されるほどだった。その人気はサポーターや女性ファンに留まらず、イギリスのゲイ雑誌『アティテュード』の表紙を飾ったこともあった。

だがこの頃から股関節の故障が慢性化し、たびたびの偏頭痛や入れ墨を起因とする血液中毒も彼を苦しめた。その結果05-06シーズンは27試合1ゴールと低迷。チーム成績もベンゲル政権では過去最低となる4位に沈んでしまう。

それでもCLではレアル・マドリードを撃破するなど快進撃を続け、クラブ初となる決勝へ進出。ユングベリは足の怪我を押しながら90分間ファイナルのピッチに立つも、ロナウジーニョエトーらを擁するバルセロナに1-2と惜敗し、ビッグタイトル獲得とはならなかった。

 

ワールドカップの奮闘

04年9月から始まったW杯欧州予選では、伝統の堅守に加えて攻撃陣が爆発。グループ10試合で30ゴールと圧倒的な得点力を見せつけ、2大会連続のW杯出場を決める。スウェーデンが記録した30ゴールのうち20ゴールは、イブラヒモビッチ8得点、ユングベリ7得点、ラーション5得点と、いわゆる「御三家」で稼いだものである。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。G/Lの初戦は初出場のトリニダード・トバゴと対戦。スウェーデンは「御三家」を中心に一方的に攻めまくるが、厚く守る相手を崩すことが出来なかった。後半早々にはトバゴのDFが2枚目の警告で退場し、数的優勢となるも、結局ゴールを割れずに引き分けてしまう。

続く第2戦も、堅い守りを誇るパラグアイに苦戦。両者とも攻め手を欠いて進んだ試合終了直前の89分、アルベックの折り返しからユングベリがヘッドで叩き込んで決勝弾。値千金のゴールでグループ突破を決めた。

最終節のイングランド戦は、左足の付け根を負傷したイブラヒモビッチが欠場となった。1-2とリードされて迎えた後半ロスタイム、スウェーデンのロングスローの流れから、ラーションがクリアミスを押し込んで同点。1勝2分けの2位で決勝トーナメントに進む。

トーナメントの1回戦は開催国ドイツと対戦。地元の大声援を受けた相手の勢いにスウェーデンはなすすべもなく、シュートらしいシュートも打てないまま0-2の完敗。前回と同じくベスト16で大会を終えた。

 

アーセナル退団

W杯後はたび重なる故障で欠場を繰り返すようになり、06-07シーズンは21試合1ゴールの成績にとどまる。この時期ガナーズの黄金期を支えた主力たちが次々と退団。ユングベリも8シーズンを過ごしたアーセナルを離れ、07年7月にウェストハムと4年契約を結ぶ。

07-08シーズンは公式戦28試合1ゴールの成績。しかしシーズン最終節となるニューカッスル戦で、相手ディフェンダーに乗りかかられて肋骨骨折の重傷を負ってしまう。

6月から始まるユーロ08(オーストリア/スイス共催)への参加は絶望的かと思われたが、代表キャプテンであるユングベリは、ボディを保護する特別器具を装着して強行出場。スウェーデンは1勝2敗の3位でG/L敗退となるも、ユングベリは怪我を感じさせないプレーで3試合にフル出場した。

ユーロ敗退後の08年7月、スウェーデン代表からの引退を表明。代表歴の11年間で75試合に出場、14ゴールを記録している。

 

現役キャリアの晩年

代表引退を表明した10日後の8月6日、ウェストハムとの契約解除を発表。しばしの休養期間を過ごし、同年10月にMLSシアトル・サウンダーズと契約を結ぶ。

サウンダーズでは09年のUSオープンカップ優勝に貢献。そのあとシカゴ・ファイアースコットランドセルティックと活躍の場を移し、11年8月には清水エスパルスと1年半契約。エスパルスでは公式戦10試合に出場するも、翌シーズンは帰国したまま来日せず、12年2月には双方合意による契約解除が発表された。

同年8月には35歳で現役引退を表明。引退後しばらくアーセナルのアンバサダーを務めていたが、インディアン・スーパーリーグの立ち上げに際し14年10月にムンバイ・シティーFCで現役復帰。だが3ヶ月後には怪我のためクラブとの契約を解除している。

その後アーセナルのアンダーチーム監督、アシスタントコーチを経て、19年11月にはエメリ監督の途中解任を受けて暫定監督に就任。同年10月にはアルテタ新監督の就任に伴い元職へ戻るが、20年8月にはアーセナルを離れることが発表された。