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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ヤヤ・トゥーレ(コートジボワール)

 

「ピッチに建つ巨像」

抜群の運動量でピンチの芽を摘むと、巨体を活かした迫力のドリブル突破で守備網を分断。攻守に存在感を発揮した大型セントラルMF。また大きな体格に似合わず足元の技術も確かで、豪快に突き刺す強烈なミドルシュートを武器にした。そのスケールの大きさで「巨像」と呼ばれたのが、ヤヤ・トゥーレ( Gnégnéri Yaya Touré )だ。

 

欧州の各クラブで下積み時代を送り、07年にスペインの名門FCバルセロナへ入団。中盤底のバランサーとしてチームの攻守を支え、08-09シーズンの3冠達成に大きな役割を果たす。2010年にはイングランドマンチェスター・シティに移籍。ここで攻撃の主力として活躍し、クラブ初のプレミアリーグ制覇に貢献した。

 

コートジボワールが初出場を果たした06年W杯ドイツ大会では、兄のコロ・トゥーレ、エースのドログバとともにチームの中核を担った。10年W杯・南アフリカ大会、14年W杯・ブラジル大会にも続けて出場。15年のアフリカネイションズカップでは、キャプテンとして代表を優勝に導く。

 

フットボール一家の才能

ヤヤ・トゥーレは1983年5月13日、コートジボワール第2の都市であるブアケに、9人兄弟の3番目として生まれた。元有名サッカー選手であった父モーリーの血筋を受け、兄弟たちもそれぞれフットボーラーとしての才能を発揮。2つ上の兄には、後年コートジボワール代表でともに活躍するコロ・トゥーレがいた。

少年時代のヤヤはFWとしてプレー。そして13歳となった96年、ジュニアチームの恩師であるP・F・ライエンダムの推薦により、同国随一の強豪クラブ・ASECミモザのユースアカデミーに入団。ここでフラン人指導者のジャン・マルク・ギューに見いだされ、2001年にはクラブの提携先であるベルギーのKSKベフェレンへ送られる。

ベフェレンでは2年半プレー。03年には兄コロが在籍するアーセナルのトライアルを受け、テストマッチで持ち前のポテンシャルを発揮。ベンゲル監督はヤヤの獲得を望むが、労働許可証の問題で契約に至らなかった。

そのため、やむなくウクライナメタルルグ・ドネツクと契約。ここで1シーズン半を過ごし、05年にはギリシャの名門オリンピアコスへ移籍。その05-06シーズン、ヤヤは攻守の要として獅子奮迅の活躍。リーグ優勝と国内カップ制覇の2冠達成に大きく貢献し、「パトリック・ヴィエラⅡ世」と呼ばれて注目を集めた。

 

初めてのワールドカップ

03年、ブルキナファソ開催のアフリカU-20ネイションズカップに出場。初優勝を狙うU-20コートジボワール代表は決勝でエジプトに敗れるも、ヤヤは顕著な活躍で大会MVPに選出。そのプレーが認められ、04年6月のW杯アフリカ予選・エジプト戦でフル代表デビューを果たす。

W杯予選でヤヤの出番は2試合に留まるが、コートジボワールは最終節の試合で宿敵カメルーンをかわし、逆転でのグループ首位。同国初となるW杯出場を決める。

06年1月、エジプト開催のアフリカネイションズカップAFCONアフコン)に出場。ヤヤはG/L第2戦のリビア戦で代表初ゴールを記録。このあとボランチのレギュラーとしてチームの攻守を支え、決勝進出に貢献。決勝では地元エジプトにPK戦で敗れて優勝を逃すも、その力強いプレーは大会に強い印象を残した。

同年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。ヤヤはCBを務める兄のコロと共に、初めてとなる大舞台のピッチに立った。だがG/L初戦でエースのドログバがゴールを決めるも、優勝候補アルゼンチンに1-2と力負け。第2戦も強豪オランダに1-2と敗れてしまい、早くもグループ敗退が決定する。

最終節の相手はセルビア・モンテネグロ。エースのドログバは累積警告で欠場となっていた。試合は前半で2点を失う苦しい展開となるが、後半に猛攻を仕掛けて逆転。コートジボワールが3-2と勝利し、W杯初勝利を挙げる。3試合にフル出場して貴重な経験を積んだヤヤは、次大会への決意を固くした。

 

バルセロナへの移籍

オリンピアコスでの活躍が認められ、06-07シーズンはリーグ・アンASモナコへ移籍。当初はベレニ監督との意見対立で低調な時期を過ごすが、チームの成績不振により、シーズン後半に指揮官が交代。バニデ代行監督のもとでヤヤはパフォーマンスを取り戻し、27試合5ゴールの成績でチームを2部降格の危機から救った。

するとスペインの名門FCバルセロナがその高いポテンシャルに目を付け、1000万ユーロの移籍金でヤヤを獲得。クラブ最初のコートジボワール人選手は、これを契機に登録名を「ヤヤ・トゥーレ」から「トゥーレ・ヤヤ」へと変更。母国では標準となる姓名標記にこだわった。

移籍1年目の07-08シーズン、スター軍団の中でも中盤のポジションを確保し、公式戦26試合1ゴールの好成績。チャンピオンズリーグでも9試合に出場して1ゴールを挙げた。191㎝91㎏の巨体を活かし、敵をなぎ倒して突き進むドリブル突破は破壊力満点。その偉容から「コロッサス(巨像)」の異名で呼ばれた。

08-09シーズン、ジョゼップ・グアルディオラバルサの新監督に就任。ヤヤは中盤で変わらず重要な役割を努めたが、シーズン中盤に下部組織出身のセルヒオ・ブスケツが台頭。グアルディオラ監督がブスケツを重用したため、ヤヤの出番は次第に少なくなっていった。

それでも公式戦43試合に出場し、リーガ制覇、コパ・デル・レイ優勝、CL優勝の三冠達成に貢献する。だが翌09-10シーズンは本職でないCBに起用されるなど、チームでの扱いに不満を抱き、バルサからの移籍を希望。シーズン終了後にはマンチェスター・シティからのオファーを受け、プレミアリーグに活躍の舞台を移した。

 

2度目のW杯

08年のAFCONはベスト4に終わるも、安定したパフォーマンスが認められて大会ベストイレブンに選出。代表の座を不動のものとしたヤヤは、09年3月から始まったW杯アフリカ予選(兼AFCON予選)でも7試合2ゴールと活躍し、グループ首位突破に貢献する。

10年6月、Wカップ南アフリカ大会大会が開幕。初戦の相手はポルトガルだった。大会前の日本戦で右腕を骨折したドログバがベンチスタートとなり、コートジボワールは守備を固めた慎重な戦い。試合はスコアレスドローとなる。

続くブラジル戦は、ドログバが怪我を押して戦線復帰。しかし南米の強豪を相手に前半で2点を奪われ、終盤ドログバのゴールで1点を返すも1-3の敗戦。

グループ突破を懸けた最終節は、すでに敗退が決っている北朝鮮との試合。開始14分、左サイドを抜け出したボカからのパスを受けたヤヤが、冷静にボールを流し込んで先制点。コートジボワールはそのあと2点を追加し、3-0の完勝を収める。

しかし2位のポルトガルに勝点1差で及ばず、2大会連続のグループ敗退。2強が並ぶ「死の組」の壁に阻まれ、悲願とする決勝トーナメント進出はならなかった。

 

マンチェスター・シティでの活躍

移籍したシティでは、前年から在籍する兄のコロとともにプレー。名将ロベルト・マンチーニ監督のもとでトップ下に起用されると、10-11シーズンは公式戦51試合10ゴールの大活躍。CL出場権の得られる3位確保とFAカップ優勝に貢献し、初のアフリカ年間最優秀選手賞にも輝く。

翌11-12シーズン、シティは前年王者マンチェスター・ユナイテッドと、リーグ優勝を争ってのデッドヒート。最終盤のマンチェスター・ダービーでライバルを1-0と下し、リーグ戦1試合を残して得失点差で上回る首位に立つ。

優勝の懸かった最終節の相手は、2部降格の瀬戸際にあったクィーン・パーク・レンジャーズ。試合は前半39分、ヤヤのアシストからサバレタが先制弾。だがハーフタイム直前にヤヤが負傷してしまい、交代を余儀なくされる。

それでも後半途中に相手が10人となり、楽勝かと思えたシティだが、QPR捨て身の反撃を受けて1-2と逆転される。ゲームは90分を過ぎてもビハインドのまま。すでに同時刻開始の試合でマンチェスター・ユナイテッドが勝利したという報が知らされおり、シティは絶体絶命の状況に追い込まれた。

だがアディショナルタイムの92分、ジェコがヘディングシュートを決めて土壇場で同点。その2分後、今度はエースのアグエロに起死回生の逆転弾が生まれ、執念の勝利を収める。

これでシティはプレミア創設(92年)以来、初のリーグ制覇。フットボールリーグ時代から数えると、実に44年ぶりの優勝となった。ヤヤはアグエロの23ゴールを助けて、初のリーグベストイレブンに選出。アフリカ年間最優秀選手賞にも2年連続で選ばれた。

12-13シーズンはユナイテッドにリーグ王座を奪還されるが、ヤヤはAFCONで準優勝した代表での活躍が認められ、3年連続アフリカ年間最優秀選手賞の栄冠。翌13-14シーズン、公式戦49試合24ゴールの活躍に加え、パス成功率も1試合平均76本で90%以上と大車輪の働き。プレミア制覇とリーグカップ優勝2冠達成の立役者となり、4年連続のアフリカ年間最優秀選手賞に輝く。

こうして世界屈指のMFと目されるようになったヤヤは、31歳の円熟期を迎え、3度目となるW杯に挑むことになった。

 

3度目の正直ならず

14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。36歳とスタミナに不安の残る主将ドログバに代わり、ヤヤがチームの大黒柱を務めた。

初戦の相手は日本。本田圭祐の先制点を許し、1点のビハインドで迎えた後半62分、コートジボワールは切り札のドログバを投入。するとカリスマ登場で浮き足立つ相手に、ヤヤを始めとする ”エレファンツ” が圧を強める。

その64分、右SBオーリエのクロスに反応したFWボニーが同点弾。さらに66分、またもオーリエのクロスからジェルビーニョがヘディングゴールを決め、わずか4分間での逆転劇。ヤヤがゲームキャプテンを務めた初戦で、2-1と幸先の良いスタートを切った。

この勢いのまま連勝を狙うコートジボワールだが、第2戦はハメス・ロドリゲス擁するコロンビアに1-2の敗戦。またこの日(6月19日)には、ヤヤ、コロと同じプロサッカー選手である弟のイブラヒム・トゥーレが、ガンにより28歳の若さで亡くなるという悲しい出来事にも見舞われた。

最終節の相手は、ここまで最下位のギリシャ。エースのドログバが今大会初先発を果たす。引き分けでも決勝トーナメント進出が決るコートジボワールだが、ミスを突かれて前半42分に失点。気合いを入れ直して後半に攻勢を仕掛けると、74分にボニーのゴールで追いつく。

このあとドログバジェルビーニョを下げて守備を固めるも、後半アディショナルタイムの93分、痛恨のPK献上。土壇場で1-2と逆転され、まさかの敗戦。目指していた3度目の正直はならず、またも決勝トーナメント進出を逃してしまう。

 

代表の初タイトル

14-15シーズンは公式戦37試合12ゴールと安定の成績を残すも、リーグ優勝はチェルシーに奪われプレミア連覇はならなかった。

15年1月には赤道ギニア開催のAFCONに出場。ヤヤは代表を引退したドログバに代わり、チームキャプテンを務めた。エレファンツでは中盤底でゲームを組み立てるなど、熟練のプレーでチームをコントロール。準々決勝のアルジェリア戦で勝利に繋がるアシストを記録し、準決勝のコンゴ戦では強烈ミドルでの先制点。チームを2大会ぶりとなる決勝に導く。

決勝の相手はガーナ。試合は一進一退の攻防戦が繰り広げられ、延長120分を終えても0-0のまま。勝負はPK戦にもつれ込んだ。PK戦は5人目のヤヤを終えて3-3のタイ。サドンデスでも白熱の展開が続くが、ガーナ11人目のGKラザクが失敗。このあとコートジボワール守護神のバリーがシュートを沈め、勝利の女神はエレファンツに輝いた。

23年ぶり2回目となるAFCON優勝の立役者となったヤヤは、大会3度目となるベストイレブンに選出。キャプテンとして自身初となる代表タイトルを手にした。

 

新たなキャリア

16-17シーズン、バルサ時代の指揮官であるグアルディオラが、シティの監督に就任。ヤヤは新監督のもとで徐々に出番を失い、翌17-18シーズンは公式戦17試合に出場したのみ。チームは4季ぶりとなるリーグ優勝を果たすが、ヤヤはシーズン終了後にシティを退団する。

18年9月、古巣のオリンピアコスへ移籍。だがわずか5試合の出場にとどまり、同年12月に契約を解除。いちどは現役引退を表明するも、19年7月に中国2部リーグの青島黄海と契約。チームの1部昇格に貢献するが、翌20年1月に退団。37歳のヤヤに新たなオファーを出すクラブはなく、このまま事実中の現役引退となった。

引退後はコーチング業に携わり、トッテナムやスタンダード・リエージュのアシスタントコーチを経験。現在は恩師マンチーニ監督のもとで、サウジアラビア代表のアシスタントコーチを務めている。