単身サイドを切り裂き、爆発的な加速とトリッキーなドリブルで観客を沸かせたウィンガー。また攻撃的ポジションならどこでもこなせる器用さを持ち、コンパクトな体型を活かした敏捷さとテクニックでチャンスを演出。自らもゴールを奪った。顔に刻まれた傷跡と強い個性で「スカーフェイス」と呼ばれたのが、フランク・リベリー( Franck Henry Pierre Ribéry )だ。
フランスの名門オリンピック・マルセイユで頭角を現し、07年にドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンへ移籍。左ウィンガーとしてチームをブンデスリーガ優勝とDFBポカール制覇の2冠に導き、リーグMVPに輝く。09年に加入したアリエン・ロッベンとは「黄金の両翼」を形成し、クラブの黄金期を共に支えた。
06年5月に代表初キャップを刻むと、半月後に開催されたW杯・ドイツ大会のメンバーに選出。たちまちレギュラーポジションを勝ち取り、フランスの準優勝に大きく貢献する。10年W杯・南アフリカ大会では主力を務めるも、「レ・ブルー崩壊」の戦犯とされ、フランスサッカー協会から3試合出場定処分を受けるなど挫折を味わった。
苦難の下積み時代
フランク・リベリーは1983年4月7日、フランスの港町ブローニュ・シュル・メールの貧民街で生まれた。父は土木作業員として働き、母は貧しい環境の中でフランクを長男とする4人の兄弟を育てあげた。
リベリーがまだ2歳のとき、父親が運転する車が交通事故に巻き込まれてトラックと激突。後部座席にいた幼児は車外に放り出され、顔面を100針以上縫う大怪我を負う。なんとか一命を取り留めるが、顔の右半分には生涯消えることのない3本の傷跡が刻まれていた。
そんな災難に遭いながらも、小さい頃からストリートサッカーに打ち込み、6歳で地元クラブのFCコンティへ入団。するとたちまち才能の輝きを見せ、12歳でプロクラブのLOSCリールからスカウト。そのアカデミーでサッカーの基礎を磨く。
しかし素行の悪さと学業不振を咎められ、3年後にはやむなくリールを退団。地元に戻ったリベリーは父親と一緒に建設現場で働きながら、当時4部リーグに所属するUSブローニュでプレーを続ける。
ブローニュでの1年目は出場4試合1ゴールの成績に終わるも、チームが3部リーグへ昇格した01-02シーズン、24試合5ゴールの好成績。ブローニュは1シーズンで4部降格となったが、オリンピック・アレスに誘われたリベリーは3部リーグにとどまった。
だが財政難に苦しむクラブで思うような働きができず、解雇同様の扱いでチームを退団。ブローニュに戻って再び父と働く。そんなどん底の状況にあったリベリーを救ったのが、以前から彼に注目していたスタッド・ブレスト(3部リーグ)だった。
「スカーフェイス」と呼ばれた男
ブレストに拾われたリベリーは、ウィンガーとしての才能を開花。03-04シーズンは高いパフォーマンスで35試合3ゴールの活躍を見せ、チームを2部リーグ昇格に導く。
するとそのプレーが認められ、04-05シーズンはリーグ・アンのFCメスへ移籍。リベリーは紆余曲折を辿りながら、ついにトップリーグへと駆け上がった。
リーグ・アンのFCメスでもすぐにレギュラーの座を確保。8月の月間MVPに輝くなど、シーズン前半を終わって20試合2ゴールの実績を残す。だが地元ブローニュの酒場で喧嘩に巻き込まれ、これがスキャンダルへと発展してしまう。
「自分は騒ぎに関与していない」との意見は受け入れられず、クラブとの契約更新が怪しくなったため、自らチームを退団。冬の移籍市場でトルコのガラタサライと3年半の契約を結ぶ。
ガラタサライではその爆発的な加速によるドリブルで「フェラ-リベリー」と呼ばれ、サポーターの人気を博した。また右顔面に刻まれた3本の長い傷跡から、「スカーフェイス(傷顔、ギャング顔)」の異名が付けられる。そしてトルコカップの決勝では、宿敵フェネルバフチェを打ち破る先制のゴール。キャリア初となるタイトルを得た。
入団半年後の05年6月、リベリーはオリンピック・マルセイユと5年契約を交わし、リーグ・アンへの復帰を発表。だが勝手に契約を破棄されたガラタサライは、多額の違約金を求めてFIFAへ提訴する。それでも給料の未払いにより、ガラタサライとの契約は無効になったとするリベリーの主張が認められ、マルセイユへの正式移籍が決った。
マルセイユ1年目の05-06シーズン、公式戦53試合12ゴールとフル稼働。クープ・ドゥ・フランス(フランスカップ)準優勝に貢献するなど国内にセンセーショナルを起こし、フランス最優秀若手選手賞を受賞。ピッチを躍動するプレーでファンを魅了した。
フランス代表の新星
フランス代表入りへの待望論が沸き上がっていたリベリーだが、レイモン・ドメネク監督が彼を初招集したのは、W杯本番を2週間後に控えた06年5月。親善試合のメキシコ戦で代表初キャップを刻む。
同年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。レ・ブルーの一員となってまだ間もないリベリーは、スイスとの初戦で先発に抜擢される。試合は0-0で引き分けるも、その果敢なドリブル突破は可能性を感じさせるものだった。
続く韓国戦は、アンリのゴールで先制しながら終盤に追いつかれて1-1のドロー。リベリーは後半60分からの出場となった。この試合で累積2枚目の警告を受けたジダンが、次戦を出場停止。波に乗れないフランスは敗退の危機に追い込まれる。
最終節のトーゴ戦はリベリーが先発復帰。スコアレスで迎えた後半の55分、ゴール左サイドで粘ったリベリーが中央へパスを出すと、ヴィエラが素早い反転からのシュート。レ・ブルーに待望の先制点が生まれる。さらに61分にはアンリが追加点。フランスはジダンを欠きながらも2-0と勝利し、グループ2位で決勝トーナメントに進んだ。
トーナメント1回戦の相手はスペイン。前半28分にビジャのPKで先制点を許すが、次第にペースを取り戻した41分、ヴィエラとのワンツーに抜け出したリベリーが殊勲の同点弾。終盤の83分にはジダンのFKからヴィエラの逆転ゴールが生まれ、ロスタイムにはジダンが追加点。3-1の快勝を収める。
準々決勝は前回王者ブラジルとの戦い。フランスは好調ジダンを中心としたパス回しで相手を翻弄。リベリーのサイド突破は南米の王国を苦しめた。
準決勝ではポルトガルと対戦。リベリーは豊富な運動量でピッチを縦横無尽に駆け回り、チームの攻守を支えて1-0の勝利に大きく貢献。フランスが2大会ぶりとなる決勝へ勝ち上がった。
決勝の相手となったのはイタリア。試合は1-1のまま延長戦に突入すると、その100分にはリベリーがトレゼゲと交代。フランスは延長後半にジダンの一発退場というアクシデントに見舞われながらも、残り時間をしのいでPK戦に持ち込む。
だがPK戦ではリベリーと代わったトレゼゲが唯一シュートを外してしまい、惜しくも準優勝の結果。それでもレ・ブルーの攻撃を活性化させたリベリーのプレーは世界の注目を浴び、次世代を背負う選手と目されるようになった。
バイエルン・ミュンヘンへの移籍
06-07シーズン、相次ぐ故障に悩まされて公式戦37試合6ゴールの成績に終わるも、チャンピオンズリーグ出場権が得られるリーグ2位確保に貢献。初のフランス年間最優秀選手に輝く。
こうして欧州屈指のドリブラーとなったリベリーには、リヨン、アーセナル、リバプール、ユベントスといった強豪クラブから関心を寄せられ、最終的にバイエルン・ミュンヘンとの契約が合意。隣国ドイツへ活躍の舞台を移すことになった。
07-08シーズン、陽気な性格ですぐさまチームに馴染んだリベリーは、公式戦48試合19ゴールの活躍。ブンデスリーガ優勝とDFBポカール優勝の2冠制覇に大きな役割を果たし、2年連続のフランス最優秀選手とドイツ年間最優秀選手に選出。フィールドを切り裂くリベリーの姿は、瞬く間にドイツ国民の心を掴んだ。
08-09シーズン、ユーロ大会で負った怪我のためシーズン当初は出遅れるが、公式戦36試合14ゴールの好成績。よりチャンスに絡んで19のアシストを記録した。
翌09-10シーズン、オランダの快足ウィンガーであるアリエン・ロッベンがバイエルンに入団。リベリーと構成する「黄金の両翼」は快進撃を続けるチームの推進力となり、バイエルンは2季ぶりとなる国内2冠を達成する。
チャンピオンズリーグでも9季ぶりとなる決勝に進出。しかし危険行為による3試合の出場停止処分を受けていたリベリーは、インテル・ミラノとのファイナルの舞台に立つことができず、バイエルンは0-2の敗戦。トレブル(3冠)達成の偉業はならなかった。
レ・ブルー崩壊の戦犯
08年6月、オーストリア/スイス共催のユーロ大会に出場。しかし精彩を欠くフランスはオランダ、イタリア、ルーマニアが同居する「死のグループ」で3戦全敗。リベリーはグループ最終節のイタリア戦で左足首靱帯断裂の重傷を負い、無念の戦線離脱となった。
惨敗の責任者であるドメネク監督は、敗退が決った直後のインタビューで、恋人に求婚するという前代未聞の奇行。フランス国民の大ヒンシュクを買ってしまうが、サッカー協会はなぜか彼の続投を決定する。
負傷から4ヶ月後、W杯欧州予選のルーマニア戦で代表復帰。リベリーは0-2の劣勢から引き分けに持ち込む殊勲のゴールとアシストを決め、復帰戦を飾った。続くリトアニア戦の2試合でも決定的なゴールを叩き出し、それぞれ1-0の勝利に貢献。当時批判を浴びていたドメネク監督を救う。
アイルランドとのプレーオフは怪我で欠場となるも、アンリによる「疑惑のハンド」でフランスが辛勝。4大会連続のW杯出場を決める。このあとリベリーは未成年との淫行スキャンダルで窮地に陥るが、ドメネク監督によってW杯メンバーに選ばれた。
10年6月、Wカップ・南アフリカ大会が開幕。初戦はウルグアイと0-0で引き分け、第2戦はメキシコに0-2と完敗。チームは組織力と連動性を欠き、ドメネク監督の無策ぶりと指導力不足に批判が集まった。
そのメキシコ戦から3日後、監督に暴言を吐いたニコラ・アネルカがチームを追放となると、その処分に納得しない選手たちが反撥。バスへ閉じこもって練習をボイコットするという騒動が起きる。
政治家の仲裁でどうにか事態は収拾を見せるが、最終節の試合は開催国の南アフリカに1-2の敗戦。求心力不在で空中分解したフランスは、グループ最下位に沈んで敗退を喫するという大失態。リベリーはチームメイトへのいじめや、テレビ出演での見苦しい言い訳が批判され、ドメネク監督と共に「レ・ブルー崩壊」の戦犯とされた。
大会後リベリーは、サッカー協会の懲罰委員会から3試合の出場停止処分。そのあと代表での活躍の機会は少なくなり、ユーロ2012大会と14年W杯はいずれも故障により不参加。14年8月に代表からの引退を表明する。9年の代表歴で81試合に出場、16ゴールの記録を残した。
バイエルン黄金期を築いた両翼
12-13シーズン、バイエルンは2年連続のCL決勝に進出。同国のライバルであるドルトムントとのファイナルでは、リベリーがロッベンの決勝点をアシスト。チームは12年ぶり5度目となる大会優勝を果たし、前年チェルシーに敗れた雪辱を果たす。
さらにバイエルンはブンデスリーガとDFBポカールのタイトルも制し、ドイツ勢初となるトレブルの快挙を達成。その偉業の原動力となったのが、チームの攻撃を牽引した「ロベリー」(ロッベンとリベリー、両翼の愛称)だった。
かつてロッベンに腹を立てて拳を振るったこともあるリベリーだが、時間を経るにつれて二人の間の理解は深まり、いつしか盟友のような関係となっていた。彼らの他にもF・ラーム、T・ミュラー、M・ノイアー、T・クロース、シュバインシュタイガーと豪華なタレントを揃えたバイエルンは、2010年代の黄金期を築いていく。
13年12月にはモロッコで開催されたクラブW杯を制覇。優勝の立役者となったリベリーは大会MVPに選ばれる。それらの活躍により、この年の欧州最優秀選手に輝いている。
18-19シーズン終了後、栄光の時期を過ごしたバイエルン・ミュンヘンを退団。12年間の在籍期間で、クラブ記録となる24ものタイトルを得た。
19年8月にはイタリアのフィオレンティーナと契約。21年9月には同じセリエAのサレルニターナへ移籍するも、怪我の影響で往年の輝きを取り戻せず、22年10月に39歳で現役を引退する。
引退後はサレルニターナに残ってチームスタッフを務めながら、23年にはUEFAのコーチングライセンスを取得。指導者へのキャリアに準備を進めている。