少女役で主演したミュージカルの名作『オズの魔法使』で大人気を博し、小柄な身体から発せられるボリューム豊かな歌唱力で一時代を築いたのが、ハリウッド女優で歌手のジュディ・ガーランド。
だがその華やかなキャリアとは裏腹に、彼女の人生は薬物中毒、不眠症、精神疾患、自殺未遂、妊娠中絶、4度の離婚など波乱や苦悩に満ちたもの。たびたび繰り返されるトラブルで「ホーンテッドスター」(取り憑かれたスター)とも呼ばれた。
晩年は映画界を離れて、ショウビジネスのステージ歌手として活動。69年に睡眠薬の過剰摂取により47歳の若さで亡くなった。彼女の波瀾万丈の半生は、2019年の伝記映画『ジュディ 虹の彼方に』でも描かれている。
ジュディ・ガーランドの本名はフランシス・エセル・ガム。1922年6月10日にミネソタ州のグランドラピッツで生まれた。父フランクはボードビリアン、母マリオンはピアノ演奏者という芸能一家。幼い頃のジュディは、両親や二人の姉から「ベイビー」と呼ばれ可愛がられていた。
2歳半で父親の経営する映画館のステージに立つようになり、母親のピアノ伴奏で二人の姉とともに「ジングルベル」を合唱。それが評判となり、三姉妹による “ガム・シスターズ” が結成された。
26年、一家はカルフォルニアへ移住。父親が同性愛者であるという噂が広がり、中傷を逃れるためラピッツを離れたとも言われている。
“ガム・シスターズ” はクリスマスショーに出演するなど精力的に活動。短編映画で歌や踊りなども披露した。すると彼女たちの活動が広がるうち “ガム・シスターズ” では地味だということになり、“ガーランド・シスターズ” に改名。三姉妹の末っ子は「ジュディ・ガーランド」と呼ばれるようになる。ガーランドは “花輪・花飾り” の意、ジュディは当時の人気曲のタイトルである。
“ガーランド・シスターズ” は長女の結婚を機に、35年を最後として解散となったが、13歳のジュディは並外れた歌唱力を買われてMGM社と専属契約。翌36年には短編歌謡映画(11分)『アメリカーナの少女』に出演する。
実はこの『アメリカーナの少女』はスクリーンテストも兼ねて作られおり、ジュディと共演のディアナ・ダービン、どちらの新人と契約を更新するかを決めるものだった。
MGM社の大物重役、ルイス・B・メイヤーは「太ったほう(ジュディのこと)をクビにしろ」と言ったとされているが、二人と契約するつもりだったとも伝えられる。結局ジュディが残り、ディアナ・ダービンはMGMを離れてユニバーサル・スタジオと契約。ディアナは『天使の花園』(36年)や『オーケストラの少女』(37年)に主演して人気女優となった。
ジュディはこのあと長編ミュージカル・コメディ『フットボール・パレード』で、正式に女優デビュー。この時はまだ脇役だったものの、3つのソロ曲を歌っている。
37年2月にはMGM社の大スターだったクラーク・ゲーブルの誕生パーティーが催され、ジュディはその席で、『You Made Me Love You』(1913年のヒット曲)をアレンジした『Dear Mr. Gable』を披露する。これが好評で37年のオールスター歌謡映画『踊る不夜城』への出演が決まり、劇中でも『Dear Mr. Gable』を歌った。
こうして子役の地位を築いたジュディは、同年の『サラブレッド・ドンド・クライ』でMGM社の子役スター、ミッキー・ルーニーと初共演。以降彼とはベストパートナーの関係を築き、『初恋合戦』(38年)『青春一座』(39年)など10本の映画で共演。子役カップルとして絶大な人気を誇った。
MGM社の売れっ子となったジュディだが、休みなく作られる出演映画のため、彼女の仕事スケジュールは過密になっていく。撮影が押しているときは朝からアンフェタミン(興奮剤)を与えられ、夜には睡眠薬を服用させられるという毎日。父フランクはすでに亡くなっており、ステージママと化していた母マリオンは娘を容赦なく働かせた。
しかも太りやすい体質からダイエットを強制され、食事として許されたのは、ボウルに入ったチキンスープとプレートに盛られたレタスだけ。撮影で用意されたケーキを口にするなどもってのほかで、水泳やハイキング、テニスなどの運動も義務づけられた。
また重役ルイス・B・メイヤーからのセクハラにも悩まされ、こうした薬の副作用と日常の強いストレスは、次第に彼女の精神を蝕み始めていく。
39年、ファンタジー・ミュージカル映画『オズの魔法使』(ヴィクター・フレミング監督)の主役に抜擢。すでに17歳となっていたジュディは、11歳の少女ドロシー・ゲイルを演じるため胸コルセットを巻くなどの役作りを強いられたが、公開された映画は批評的に大成功を収める。
作品は第12回アカデミー賞の作品賞など5部門でノミネートされ、歌曲賞と作曲賞を受賞。主題歌『虹の彼方へ(Over the Rainbow)』で素晴らしい歌声を披露したジュディも、ジュナイブル特別賞を受賞した。この『虹の彼方へ』は、スタンダードナンバーとして今もなお歌い継がれている。
翌40年には『アンディ・ハーディ・ミーツ・デビュタント』に出演。この作品で初めて少女役を脱却したジュディは、最初となる大人のキスシーンも経験する。
そしてこの頃、イギリス出身のバンドリーダー、デヴイッド・ローズと恋に落ち、母親とMGM社の反対を押し切って41年に結婚。新婦はまだ19歳だった。
翌年には妊娠が判明するも、イメージを損なうとの理由で母親とMGMから中絶を強要され、当時カルフォルニアで違法とされていた堕胎手術を受ける。夫ローズとの関係も冷え切り、43年には別居、44年に離婚となった。また43年にはタイロン・パワーとの不倫で子供を身ごもるが、これも秘密裏に処置がなされた。
最初の夫と離婚したばかりの44年、ミュージカル映画『若草の頃』に出演。監督を務めたのは、当時まだ無名の演出家、ヴィンセント・ミネリだった。衣装デザイナーの経験もあるなど美的感覚に優れていたミネリ監督は、ジュディの写り映えに気を配り、腕の良いメーキャップ・アーティストを付けた。
するとジュディ自身コンプレックスを持っていた彼女の容姿が、華麗に変貌。主演女優の悩みは払拭された。『若草の頃』は高い評価を受け、興行的にも大ヒットを記録する。
ミネリ監督は、遅刻癖とヒステリーでスタジオを困らせていたジュディの良き理解者となり、やがてその仲は親密なものとなっていく。そして45年に二人は結婚。翌46年には、皆に祝福される中で長女が誕生する。この最初の娘が、のちに映画やブロードウェイで活躍することになるライザ・ミネリである。
だが幸せだったはずの二人の関係は、次第に冷え込んでいく。ジュディは夫ヴィンセントがホモセクシャルであることを承知で結婚したが、彼と男との浮気に心傷つけられる日々を送り、常習となっていた薬物使用の量が増加。不眠症やうつ病も患い、精神状態は不安定なものとなっていった。
ミネリ監督とのコンビによる映画撮影は継続されるも、47年の『踊る海賊』では薬の副作用による混迷状態でスタジオに現れ、数百人のエキストラを20時間待たせる始末。療養所での治療を余儀なくされ、撮影は延期された。
そのあと大作ミュージカル『イースター・パレード』の撮影に入るも、夫との仕事に耐えられなくなったジュディの訴えで、ヴィンセント・ミネリは監督降板となった。
夫婦は49年に別居(51年に離婚)となるが、その間もジュディの精神不安定は続き、薬物の副作用や不眠症で遅刻と撮影すっぽかしを繰り返す。『アニーよ銃をとれ』では演技もままならず、「努力、態度、熱意の欠如」を理由に主役を降ろされ、自殺未遂騒動を起こした。
問題児となってもジュディに立ち直りの兆しはなく、会社に大きな損失を負わせたとして50年7月にMGMを解雇。ショックを受けて2度目の自殺を図ろうとするも、割れたガラスがわずかに喉を傷つけただけの未遂に終わった。
ハリウッドを離れたジュディは、友人ビング・クロスビーらの助けを借りてヨーロッパでのコンサートツアーを開始。ツアー公演の好評をうけてニューヨークのパレス劇場で行なったショーも記録的大成功を収め、トニー賞の特別賞を受賞する。
ジュディはみごとステージでの復活を果し、52年にはショーをプロデュースしたシドニー・ラフトと3度目の結婚。夫婦の間には一男一女が設けられた。
54年、夫シドニーのプロデュースによる『スタア誕生』(ジョージ・キューカー監督)で4年ぶりの銀幕復帰。無名の役者からスター女優へと登りつめながら、代償として夫を自殺で亡くした主人公を熱演した。すると「私はノーマン・メイン夫人です」と舞台で挨拶するラストシーンが感動を呼び、第27回アカデミー賞で主演女優賞にノミネートされる。
アカデミー賞の有力候補と目されながらオスカーを逃すが、ゴールデン・グローブ賞では主演女優賞を受賞。この作品は映画カムバックを飾るジュディの代表作となった。
しかしジュディのうつ病、薬物使用、アルコール依存症による長年の問題は解決することなく、再び銀幕から遠ざかってしまう。61年には7年ぶりとなる映画『ニュールンベルグ裁判』(スタンリー・クレーマー監督)に出演。歌抜きのシリアスな役柄でアカデミー助演女優賞にノミネートされるが、またも受賞とならなかった。
一方、同年にカーネギーホールで行なわれたコンサートは、多くの人々から「ショービジネス史上最高の夜」と絶賛され、それを収録した『Judy at Carnegie Hall』は、グラミー賞の最優秀アルバム賞と最優秀女性歌唱賞を受賞している。
62年にはTV番組『ジュディ・ガーランド・ショー』が放送開始。ゲストには旧友のミッキー・ルーニーや、ブロードウェイ・デビューを果していた娘のライザ・ミネリも呼ばれた。
ジュディは同性愛や黒人解放運動を理解するリベラリストとして知られ、幾多の困難に遭いながらも力強く立ち上がる彼女の姿は、ゲイ・コミュニティに生きる人々を力づけた。そして “ジュディ・ガーランド” の名は「抑圧された人々の解放」のアイコンとして扱われるようになり、ゲイたちの人気者となる。
しかし順調だったはずのシドニー・ラフトとの結婚生活は13年で終わりを告げ、65年に離婚。同年には俳優のマーク・ヘロンと4度目の結婚をするが、DV騒ぎで67年に離婚となった。
69年3月、12歳年下のミュージシャン、ミッキー・ディーンズと5度目の結婚。ナイトクラブのマネージャーだった彼は麻薬の売人でもあり、ジュディに薬物を届けたことが出逢いのきっかけ。怪しげな男との結婚は、娘のライザを含め誰にも祝福されないものだった。
そして結婚3ヶ月となる6月22日、仕事で滞在していたロンドンの借家で、バスルームに横たわったまま事切れていたジュディの姿が発見される。彼女が47回目の誕生日を迎えて、わずか12日後のことだった
検視解剖では遺体から多量の睡眠薬が検出されるが、これは長期にわたって摂取されたものと判定され、死因は自殺や他殺ではなく偶発死と発表された。ジュディの長年による薬物摂取、不眠症、神経衰弱、肝臓病、過食とダイエットの繰り返しにより、50歳を前に身体はすでにボロボロになっていたという。
3年後の72年、ライザ・ミネリが『キャバレー』(ボブ・フォッシー監督)でアカデミー主演女優賞を受賞。その授賞式でライザは、「母が果たせなかった生涯の夢を果たすことができた。ママ、ありがとう」と大粒の涙を流しながらスピーチを行なった。