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ロック・ハドソンの遺言

 

ハリウッドを代表する二枚目スター

1985年10月の初旬、ハリウッドを代表する二枚目スターとして知られたロック・ハドソンの訃報が伝えられた。死因はエイズ後天性免疫不全症候群)からの合併症による衰弱死で、まだ59歳という若さだった。

 

ハドソンはエイズに感染していると診断されたのち、その事実が隠しきれずに公表。人気映画スターが同性愛者だった驚きとともに、有名人として最初の犠牲者になったというニュースは世界の耳目を集め、エイズという病名が広く浸透するきっかけとなった。

 

均整のとれた堂々たる体格(193㎝)と甘いマスク、そして包容力あふれるパーソナリティーで人気を博したロック・ハドソン。アクションからロマンチックコメディと幅広い役をこなしてきたが、日本で知られている作品はエリザベス・テイラージェームズ・ディーンと共演した『ジャイアンツ』(56年、ジョージ・スティーブンス監督)くらい。

 

決して大根役者ではなかったものの、「ロマンチックなナイスガイ」のイメージから抜けきれず、あくまでも人柄のスターに終始。そのためか同世代のチャールトン・ヘストンマーロン・ブランドポール・ニューマンジャック・レモンらの名優に比べ、これといった代表作を残すことが出来なかった。

 

俳優志願の若者

1925年11月17日生まれ、イリノイ州ウィネカの出身。“ロック・ハドソン” は俳優の駆け出し時代につけた芸名で、本名はロイ・ハロルド・シェラーJr. である。ちなみにロック・ハドソンの名は「力強いイメージを」ということで、名所 “ジブラルタルの岩” と “ハドソン川” を合わせて付けられている。

父親は自動車整備工として働いていたが、大恐慌(29~39年)の際に失業。ハドソンが5歳のとき家族を捨ててカルフォルニアへ出てしまったため、母親とその祖父母のもとで少年時代を過ごす。

ハイスクール時代にはもう190㎝と大きくなっていたが、痩せてひょろひょろとした体格がコンプレックスだったという。また勉学が不得意なうえスポーツや演劇の活動もしておらず、特に目立つ生徒というわけではなかったようだ。

それでも人なつっこく明るい性格により、仲間内では人気者。友人と一緒に女性をナンパして映画を観に行くうち、俳優に憧れを抱くようになる。9歳で男性への性的関心に目覚めたと、のちに告白しているハドソンだが、この頃の友人でそれに気づく者はいなかった。

ハイスクール卒業後の43年、志願して海軍に入隊。太平洋戦線のフィリピン諸島で、空母艦載戦闘機メンテナンスの業務に従事した。このとき何人かの男性と巡り会い、ハドソンはさらに自分の性衝動を意識するようになる。

終戦後の46年に海軍を除隊。俳優を目指してカルフォルニアへ移り住み、すでに再婚している父親家族を頼った。そしてトラック運転手や郵便配達などの仕事をしながら、南カルフォルニア大学の演劇科を目指すも、成績が悪く入試に失敗。この頃ロングビーチのゲイバーで知り合ったのが、ラジオプロデューサーのケン・ホッジだった。

ホッジとはすぐに愛人関係となり、その紹介で俳優エージェントのヘンリー・ウィルスと契約。ちなみにヘンリーも名うてのホモセクシュアルとして知られる男だった。ハドソンはヘンリーの斡旋でいくつか撮影所のスクリーンテストを受けるも、素人同然の演技では受かるはずもなかった。

それでもヘンリーが諦めずにハドソンをワーナーブラザース社に連れていくと、ラオール・ウォルシュ監督が彼の容姿を気に入り、撮影中だった『特攻戦闘機中隊』(48年)の端役で試してくれることになった。

初めてのシーンでは3行の台詞が上手く言えず、38回もテイクを撮り直すが、めでたくウォルシュ監督のお眼鏡にかなって合格となる。ハドソンの端正なマスクと堂々たる体格は、大きなスクリーンで写り映えしたのだ。このあと演劇教室に通わせて貰うことになり、俳優としての基礎を磨いていった。

 

スターへの道

24歳となった49年、ウォルシュ監督の計らいでユニバーサル社と専属契約。50年に出演した西部劇『ウィンチェスター銃’ 73』(アンソニー・マン監督)では先住民族を演じるなど、しばらく脇役での出演が続く。

ハドソンのひとつの転機となったのは、同じくアンソニー・マン監督の西部劇『怒りの河』(52年)だった。この映画でのネームランクは4番手だったが、その偉丈夫ぶりが注目され、公開時のワールドプレミアムでは主演のジェームズ・スチュアートを上回る歓声を浴びたのである。

これ以降ハドソンはユニバーサル社のイチ推し俳優となり、『スカーレット・エンジェル』『決斗!一対三』『シー・デビルズ』などの二本立てB級アクション、西部劇を中心に主役を務めるようになった。

54年にはジェーン・ワイマンと共演したメロドラマ、『心のともしび』(ダグラス・サーク監督)が大ヒット。これでハドソンはロマンチックな二枚目俳優のイメージを確立した。翌年ワイマン、サーク監督と再タッグを組んだ『天はすべてを許し給う』も評判を呼び、ユニバーサル社のスターへと成長する。

 

コンフィデンシャル騒動と唯一の結婚

そんなキャリアの登り坂にあったハドソンに降りかかってきたのが、ゴシップ雑誌『コンフィデンシャル』による騒動である。

ハドソンは当時、俳優志望の青年ジャック・ナバールと同棲中。ジャックはハドソンの好む「金髪、ブルーアイ、年下、がっちり」という条件にぴったりの若者だった。コンフィデンシャル誌はこのことを嗅ぎつけ、ジャックに接触。大金を払って情報を引き出し、スキャンダル記事のネタにしようとしたのである。

ジャックの報告でヘンリー・ウィルスとユニバーサル社がいち早く動き出し、結局ハドソンの同性愛スキャンダルが世に出ることはなかった。だがもう、新進スターの性的嗜好は関係者の間で公然の秘密となっていた。

スキャンダル騒動後の55年11月、ヘンリー・ウィルスの秘書を務めていたフィリス・ゲイツと結婚。のちに同性愛疑惑を隠すための偽装結婚ではないかと勘ぐられたが、ハドソン自身は「彼女を真剣に愛していた」と晩年に語っている。

しかし二人の結婚生活は長く続かず、1年後に別居(離婚成立は58年)。その直後にハドソンは知り合いへ電話し「男の子が欲しいんだ。この1年間は我慢していたが、もう狂いそうだ。誰かを紹介してくれないか」と懇願したという。

 

結婚と同時期の56年、名匠ジョージ・スティーブン監督からの抜擢を受け、叙情詩大作『ジャイアンツ』に出演。テキサスで牧場を営む主役の男の青年期から老年期までを堂々と演じ、アカデミー賞の主演男優賞にノミネート。一流俳優の仲間入りをする。

このとき共演したエリザベス・テイラーとは終生の親友となり、80年の『クリスタル殺人事件』で24年ぶりの再共演を果す。社交的なハドソンは相手役の女性を楽しませることに長け、親しくなったスター女優は数多くいた。もちろん彼女たちには、ハドソンの裏事情は周知の事実だった。

同年に主演した『風と共に散る』(ダグラス・サーク監督)も大ヒットを記録。57年のマネー・メーキング・スター1位に輝くと、以降8年連続のトップテン入り。押しも押されぬドル箱スターとなった。

ジャイアンツ』の成功でハドソンのもとには大作の話が舞い込むようになり、57年には『サヨナラ』『ベン・ハー』『武器よさらば』と3本の企画で主役候補に挙げられる。このうちハドソン自身が選んで出演を承諾した作品は、『武器よさらば』だった。

なにしろ原作はノーベル賞作家ヘミングウェイの代表作で、プロデューサーは『風と共に去りぬ』のデヴィッド・O・セルズニック。脚本はアカデミー賞2回の大家ベン・ヘクトが務め、監督には『黄金』『アフリカの女王』の名匠ジョン・ヒューストン。さらにヒロインをオスカー女優のジェニファー・ジョーンズが演じるとあっては、魅力を感じないほうがおかしかった。

しかし撮影が始まると、セルズニックの執拗な口出しに嫌気をさしたヒューストンが監督を降板するなどトラブル続き。役柄もフィットせず、6歳年上であるジェニファー・ジョーンズとの相性も良くなかった。完成した映画の評判は思わしくなく、興行的にも大失敗に終わる。

一方、マーロン・ブランド主演の『サヨナラ』(57年、ジョシュァ・ローガン監督)と、チャールトン・ヘストン主演の『ベン・ハー』(59年、ウィリアム・ワイラー監督)は大ヒットを記録し、数々のアカデミー賞も受賞。ハドソンは「人生最大の判断ミスだった」と後悔することになる。このあと軽い路線に専念したため、彼が後世に残るような名作に巡り会うことはなかった。

 

人気の翳り

ハドソンが人気のピークを迎えたのは、59年のラブコメディー『夜を楽しく』だった。この作品で初めて共演したドリス・デイとはたちまち意気投合。二人のオシャレで少し際どい掛け合いが観客を大いに楽しませ、人気コンビとして再共演した『恋人よ帰れ』(61年)、『花は贈らないで』(64年)もヒットを記録した。

62年には長年のビジネスパートナーだったヘンリー・ウィルスと決別。64年頃からハドソンの人気に翳りが見え、66年に主演した異色SF『セコンド』(ジョン・フランケンハイマー監督)ではキャリア最高の演技と評価を受けるも、興行的には不振。67年にはとうとうドル箱スターランキングから姿を消してしまう。

70年代に入るとTVドラマを中心に活動。主役を務めた『署長マクミラン』(71~77年)が好評で、人気を盛り返す。

 

エイズと闘った晩年

50歳半ばを過ぎてもパーティーに顔を出して夜の相手を探すなど、ハドソンの旺盛な性欲は相変わらず。57歳となった83年の秋には、28歳年下の男娼ジゴロ、マーク・クリスチャンと同居を始める。のちにこのクリスチャンがエイズを感染させたと疑われた。

そしてこの頃から体重が激減するなど体調に異変をきたしだし、84年6月には首にできた腫れ物の生体検査でエイズ感染が発覚する。当時エイズは世に知られたばかり。男同士の性行為による特殊な感染症と思われ、死に直結する病気と恐れられた。この認識は同性愛者への偏見を助長してしまう。(現在では複数の感染要因が確認されている)

当然ハドソンも病気の公表をためらい、治療を受けながら秘密は守り通すことにした。この時出演していたTVドラマ『ダイナスティ』では女優とのキスシーンがあったが、唇を閉じて軽く頬に触れるというアドリブで逃れる。

85年には、旧友ドリス・デイの新番組『ドリス・デイズ・ベストフレンズ』の第1回ゲスト出演が決まり、7月に行なわれた記者会見へ出席。やせ細った姿で現れたハドソンの写真は大衆新聞「USAトゥデー」の紙面を賑わせ、病状を巡って様々な憶測が飛び交った。

そのあと治療で訪れたパリのホテルで症状が悪化し入院。エイズ感染の噂が囁かれる中、肝臓癌を患っているとの声明が専属広報から出された。だがその1ヶ月後、余命いくばくも無いと宣告され、正式にエイズであるということが発表される。発表後にはここ数年ハドソンと関係を持った者に、注意喚起の手紙が送られた。

衰弱した身体で寝たきりとなったハドソンは、85年10月2日、ビバリーヒルズの自宅で就寝中に永眠。享年59歳だった。故人の遺言で葬儀は行なわれず、亡骸なきがらはすぐに火葬へ回され、その遺灰はカルフォルニア沖の海へ蒔かれた。

彼の遺産の一部は医学発展のため使われることになり、アメリカ・エイズ研究財団(AMFAR)立ち上げの一助となっている。