1920年代のサイレント映画全盛期に、エキゾチックな美貌で一世を風靡したハリウッドスター、ルドフル・ヴァレンティノ。その臭い立つようなエロチズムは世の女性たちを虜にし、「大いなる恋人」と呼ばれた。
だが彼が銀幕で輝いた期間は5年と短く、時代がトーキ映画へと移る前の1926年に31歳の若さで死去。葬儀の日には、遺体が運ばれていくニューヨークの路上に10万人ものファンが集まり、悲しみのあまり卒倒する女性が続出したという。
こうして伝説に彩られることになったヴァレンティノだが、実際のその素顔は、まっとうとはほど遠い人生を送ってきた小悪党といったところ。スターの座にたどり着くまでの波瀾万丈な日々を経て、生き急いだかのようにこの世を去って行った。
ニューヨークに着いた当初はレストランのバスボーイ(雑用係)として働き、お客には人気だったが、仕事がおろそかで解雇となる。しばらく路上生活を送ったヴァレンティノは、レストランの元同僚に頼んで食ベ残しを分けて貰っていたという。また窃盗や恐喝などを繰り返して、日々の生活を凌いでいたとも伝えられる。
そのうちナイトクラブでタクシーダンサー(客のパートナーを務めるダンサー)の職を見つけ、得意の踊りとジゴロ的接客で有閑マダムたちに大評判をとる。このとき親密になった顧客の一人が、チリ社交界の名士であるブランカ・デ・ソールだった。
当時ブランカは、夫ジャックとの離婚と息子の親権を求めて裁判で係争中。ヴァレンティノは彼女のために法廷に立ち、ジャックの不貞行為を証言する。裁判に敗れたジャックは、復讐のためヴァレンティノを売春斡旋業者だと告発。イタリアのタンゴダンサーは逮捕されてしまった。
証拠不十分ですぐに釈放となるも、汚名を着せられたヴァレンティノは失職。その直後、親権を争っていたブランカが元夫のジャックを銃殺するという事件が起き、ヴァレンティノは新たなトラブルに巻き込まれるのを避けて、ニューヨークの街を離れることになった。
ルドルフ・ヴァレンティノは1895年5月6日、イタリア南部のプッリャ州カスッテラネータで、4人兄妹の次男として生まれた。本名はロドルフォ・アルフォンソ・ラファエロ・ピエーレ・フィリベール・ググリエルミ・ディ・ヴァレンティーナ・ダントングオッラ。普段はググリエルミと呼ばれた。
獣医として働く父ジョヴァンニ・アントニオ・ジュゼッペ・フェデーレは、かつてイタリア陸軍の騎兵隊長を務めていたという厳格な男。母ガブリエルはトリノにルーツを持つフランス人だった。
小さい頃から眉目秀麗だったヴァレンティノは、母親に甘やかされて育つも、学業不振と素行不良で父親からは厳しく指導される。だが11歳のとき、その父親がマラリアで死去。重しの無くなったヴァレンティノのやんちゃさは、手のつけられないものになっていく。
15歳の時に陸軍士官学校の入試試験を受け失敗。ジェノバの農業学校で学んでいたが、家のお金を使い込んだことがばれ、17歳のときにパリへ出奔。ここでタンゴとギャンブルを覚えて夜の遊びにふけるが、やがて生活が立ちゆかなくなり帰郷。18歳で新たな刺激を求め、アメリカのニューヨークに旅立つ。
このあと地方巡業のミュージカル劇団に加わって活動。やがて西海岸へ移り、1917年に俳優のノーマン・ケリーと知り合ったことから、ハリウッドとの関わりを持ち始める。
最初はエキストラとしていくつかの映画に出演し、18年の『社交界の花形』で本格的な俳優デビューを果たす。いかにも異国的な見た目から、悪役に起用されることが多かった。この無名時代には、日本人スター早川雪洲の豪邸「グレンギャリ城」で働いた事もあった。
19年には女優のジーン・アッカーと結婚。だがわずか6時間で別れてしまったという。その理由はヴァレンティノが淋病持ちだったからだとも、アッカーがレズビアンだったためだとも言われているが、真偽のほどは不明である。
同じ年には、ブロードウェイ劇を映画化した『若き人の眼』に出演。女をたぶらかす詐欺師役だったが、タクシーダンサーの経験で身につけた優雅な立ち振る舞いが、メトロ社の重役で脚本家だったジューン・マジス女史の目に止まり、大作『黙示録の四騎士』の主役に抜擢されることになった。
21年に公開された『黙示録の四騎士』では、熟達のアルゼンチン・タンゴと共にその妖しげな魅力を遺憾なく披露。ヴァレンティノの美貌はたちまち世界中の女性ファンを虜にし、一躍彼をスターダムへと押し上げた。
このあと立て続けに出演した『椿姫』『征服の力』でも好評を得るが、会社の待遇の悪さに不満を抱き、メトロ社を離れてフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社(のちのパラマウント社)と契約。同社で最初の作品となったのが、冒険ロマンス映画『シーク』(21年)である。
ここでヴァレンティノの持つエキゾチックな佇まいが、性的魔力を放つアラブの族長という役柄にぴたりと一致。上映館にはヴァレンティノ目当てで多くの女性ファンが詰めかけ、映画は記録的な大ヒット。イタリアの色男は「ラテン・ラバー」、あるいは「グレート・ラバー(大いなる恋人)」と呼ばれるようになり、ハリウッドスターとしての地位を確立した。
このあと出演した海洋冒険映画『海のモーラン』、グロリア・スワンソンと共演したメロドラマ『巨巖の彼方』は役柄がマッチせず不評だったが、情熱的なスペインの闘牛士に扮した『地と砂』(22年)が再びヒットを記録する。
『地と砂』の脚本を担当したのは、ヴァレンティノを見いだしたジューン・マジス。『シーク』の成功以来、ヴァレンティノは彼女を「リトル・マザー」と呼ぶようになり、マジスもヴァレンティノを溺愛。メトロ社を去ってFPL社へと移ってきていたのだ。作品は批評的にも、『散りゆく花』(19年、D・W・グリフィス監督)に並ぶ傑作だと高い評価を得た。
こうしてヴァレンティノは時代のセックスシンボルとなり、その人気はピークへと達する。当時の女性ファンは「ヴァレンティノが見つめるから」と、しっかり化粧をしてから映画館へ出かけて行ったとのエピソードがある。
『地と砂』を撮り終えたあと、『椿姫』の美術監督で衣装デザイナーだったナターシャ・ランボヴァと再婚。二人はメキシコで結婚式を挙げた。だが実はこの時点でジーン・アッカーとの離婚が正式に成立しておらず、カルフォルニアに戻ったヴァレンティノは重婚罪に問われて拘留されてしまう。
このときヴァレンティノの釈放に奔走したのが、母親的存在だったジューン・マジスだった。しかしヴァレンティノとナターシャの結婚が認められると、新しい妻はイタリア人の夫をスピリチアル的に支配するようになる。夫婦は霊能者と交流を持つほか、交霊会へ積極的に参加。ヴァレンティノは自分を先住民族の生まれ変わりだと信じていたという。
またナターシャは夫に奴隷の腕輪を着けさせ服従を誓わせると、マネージャーとなって出演する映画にも口出し。『ヤング・ラジャー』(22年)ではヴァレンティノのためインド風衣装をデザインするが、これは「ラテン・ラバー」のイメージを損なうものとなってしまい、映画は大コケとなる。
この頃から会社とも軋轢が生じ、22年末には大幅昇給と作品への創造的関与を求めて「ワンマン・ストライキ」を宣言。事態は訴訟にまで発展し、この間ヴァレンティノは1年あまりのブランクを余儀なくされる。さらに妻ナターシャの悪評もあって、彼の元からは次々と友人が離れていった。
俳優活動を休止したヴァレンティノは、美容製品会社をスポンサーとしての、美人コンテスト審査を兼ねたダンスツアーを実施。北米88ヶ所を巡ったツアーは大成功を収め、人気の健在ぶりを示した。
23年の暮れにようやく会社との合意に達し、24年公開の歴史劇『ボーケール』で映画復帰を果す。しかし従来のイメージから脱却しようとするヴァレンティノの演技は、自意識過剰で観客の期待を裏切るものとなり、映画は興行的に失敗した。
次作『情熱の悪鬼』も不評で、FPL社との契約を終了。そのあと独立系のリッツ・カールトン社に移り、現代劇『毒蛇』(25年)に出演。すぐに2作目となる『The Hooded Falcon』に取りかかるも、ヴァレンティノ夫妻が脚本を担当したジューン・マジスに書き直しを要求。マジスを怒らせてしまい、これが原因となって母と慕う彼女と決別するはめになった。
ケチのついた『The Hooded Falcon』は、ヴァレンティノの豪華な衣装と贅沢なセットで予算が膨らみ、とうとう撮影が中止。我儘なスターを抱えきれなくなったリッツ・カールトン社は、彼との契約権をユナイテッド・アーティスツ社へ譲り渡した。
このときヴァレティノがUA社からの「ナターシャをマネジメントから外す」の条件を呑んだため、夫婦間には亀裂が生じ始め、ほどなく二人は破局を迎えることになる。
UA社の第1作となった『荒鷲』(25年)では、従来のイメージに戻って帝政ロシア軍の中尉を演じ、ひさびさのヒット。これをうけて『シーク』の続編となる『熱砂の舞い』が製作されるが、映画公開から間もない26年8月15日、胃潰瘍を患い緊急入院。
手術後のヴァレンティノの状態を心配し、多くの女性ファンが一喜一憂。健康は順調に回復へと向かうかに思えたが、21日に感染症による重度の腹膜炎を発症する。彼の体は急速に衰弱してゆき、その2日後の23日、31歳という短い生涯を終える。この訃報がもたらされると、遺作となった『熱砂の舞い』には多くの観客が詰めかけた。
ヴァレンティノの葬儀はマンハッタンで盛大に行なわれ、彼の遺体はビバリーヒルズの墓地へと運ばれ埋葬された。その土地を提供したのは、彼の死の直前に和解したジューン・マジスである。マジスも翌27年7月に40歳で死去。現在はヴァレンティノの隣に並んで埋葬され、ともに永遠の眠りについている。
同じ27年には、トーキ映画の『ジャズ・シンガー』が大ヒットを記録。サイレント映画は終焉のときを迎え、20年代を代表するスターだったジョン・ギルバートやクララ・ボウが没落の憂き目に遭った。
しかし大スターのままこの世を去って行ったルドルフ・ヴァレンティノは、その強烈な輝きで、今なお語り継がれる伝説となっている。