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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》エリック・カントナ(フランス)

 

「孤高のカリスマ」

強靱な肉体とテクニック、そして独特のインスピレーションを持ち、ストライカーとしてもチャンスメーカーとしてもハイレベルなプレーを披露した。フィールド上での絶対的な存在感を備え、ゲームを支配する力と悠然と振る舞う姿から「キング」と呼ばれたのが、エリック・カントナ( Éric Daniel Pierre Cantona )だ。

 

キャリアを始めたオーセルで秀でた才能を注目されるも、エゴイズムを貫く強いパーソナリティーで数々の問題行動を繰り返し、各クラブを転々として25歳で引退を宣言。だがイングランドの名門マンチェスター・ユナイテッドその能力を解放させ、チームをリードするカリスマとして君臨。90年代黄金期の礎を築いた。

 

一方ではその荒々しい気性から「激情家」「唯我独尊」と揶揄され、他人への妥協や追従は一切拒否。気に入らなければ誰彼無く噛み付き、乱暴な言動で物議を醸した。95年には観客への暴力事件を起こし、8ヶ月の出場停止処分を受けてしまう。またフランス代表ではこれといった活躍もなくキャリアを終えた。

 

マルセイユの問題児

エリック・カントナは1966年5月24日、フランス南部の港湾都市マルセイユに生まれた。カントナの一家は移民で、父型の祖父はイタリア・サルディーニャの出身。母親の両親はスペイン・カタルーニャの出身だった。エリックは3人兄弟の次男として、街の丘にある洞窟を利用した居住地で育つ。

6歳で地元クラブのSOカイヨワに入団。父親がゴールキーパーを経験していたため、息子もそれに倣って同じポジションでのプレーを始めるが、前線での才能を発掘されフィールドプレーヤへ転向。200以上の試合に出場してゴールを量産した。

その活躍により、各クラブのスカウトに注目されて15歳でAJオーセルへ移籍。17歳となった83年に練習生契約を交わし、11月のナンシー戦でディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)デビューを飾る。

そのあと1年の兵役期間と2部リーグに所属するマルティーグへのレンタル期間を経て、86年にオーセルへ復帰。クラブの名物監督であるギー・ルーに目を掛けられ、20歳でプロ契約を結ぶと、1年目の86-87シーズンはさっそく36試合13ゴールの活躍。若手ホープとして頭角を現した。

その活躍により、87年8月の東ドイツ戦で21歳にしてA代表デビュー。試合は1-2と破れたものの、さっそく初ゴールを記録して大物ぶりを発揮する。

しかし選手としての評価が高まるにつれ、ジュニア時代からの傲慢さもさらに増長。突然頭を丸めて出場した試合では、見事なフリーキックを決めて話題を独占。「別に僕の人生にサッカーが必要という訳じゃない。才能があるのは間違いないけど」などとうそぶき、スポーツ紙を賑わせた。

またあるときには、チームのGKで代表選手のマルティーニに練習の後で鞄を持ってくるよう頼まれ、カントナは「俺はお前の命令を受けない」と断って顔面へパンチ。クラブから罰金処分を受けるという騒動を起こす。

88年にはU-21欧州選手権で優勝という成果を挙げるも、同年のフル代表戦ではアンリ・ミッシェル監督から招集されず。それに怒ったカントナは、テレビのインタビューでミッシェル監督を「クソッタレ」と罵倒。それが大きな騒ぎへ発展し、1年間の国際試合出場停止処分を科せられてしまう。

 

繰り返される愚行

オーセルとの契約が満了した88年5月、故郷の名門クラブであるオリンピック・マルセイユへ移籍。だが傍若無人な振る舞いは相変わらずで、途中交代を告げられた試合では、怒りのままボールをスタンドに蹴り込んでユニフォームを投げつける始末。問題児に手を焼いたクラブは、すぐに彼をボルドーへレンタルした。

翌89-90シーズンはモンペリエへのレンタル。ここでもチームメイトの顔面にスパイクを投げつける騒ぎを起こし、モンペリエを追放されかけるが、カントナを擁護するローラン・ブランバルデラマの助けで10日間の謹慎処分ですんだ。

チームに残ったカントナは、この年のクープ・ドゥ・フランス(フランスカップ)優勝に貢献。その活躍により、90-91シーズンはマルセイユへ復帰する。

同年にはW杯欧州予選敗退で辞任となったアンリ・ミッシェルに代わり、ミッシェル・プラティニが代表監督に就任。カントナの理解者であるプラティニによって、フランス代表への復帰も果す。そして代表ではマルセイユの同僚でもあるジャン=ピエール・パパンと2トップを組み、ユーロ予選で活躍。ユーロ92出場決定に貢献した。

しかし復帰したマルセイユでレイモン・ゲタルス監督と対立。チームはリーグ・アン優勝、チャンピオンズリーグ準優勝などの好結果を残すが、カントナは出場機会を失っていた。勝手に帰郷して3日間行方不明になるという不始末も起こし、シーズン終了後の放出が決定。リーグ・アンへ昇格したばかりのニームへ売却された。

ニームでもその行いは改まらず、91年12月のサンテティエンヌ戦では、ジャッジに抗議して審判の顔にボールを投げつける愚行。退場の声を聞く前にさっさとロッカールームへ引き上げていった。その懲罰ため召喚された聴聞会では、委員の一人のもとに歩み寄り「馬鹿」と暴言。4ヶ月の出場停止処分を喰らう。

この処分に腹を据えかねたカントナは、ニームとの契約を解除。「もうサッカーはしない」と引退表明する。しかしその才能を惜しんだ代表監督のプラティニが説得に動き、彼を受け入れてくれるクラブを探して奔走。引退を撤回したカントナは、プラティニに促されてイングランドリーズ・ユナイテッドで心機一転をはかることになった。

 

「キング」の誕生

リーズではシーズン途中の加入となったものの、FWリー・チャップマンとホットラインを築いて活躍。多くのアシストでチャンプマンの得点王(21ゴール)獲得を助け、リーズの91-92シーズン優勝に貢献する。

その勲章を手に、シーズン終了後にはスウェーデン開催のユーロ92に出場。初戦は地元のスウェーデンに1-1で引き分け、第2戦もイングランドスコアレスドロー。第3戦では伏兵のデンマークに1-2と敗れてしまい、3位に沈んで不覚の1次リーグ敗退となる。

この結果を受けてプラティニは代表監督を辞任。国際舞台初登場のカントナはノーゴール、ノーアシストに終わり、恩人に報いることが出来なかった。

プレミアリーグ発足となった92-93シーズン、チャリティーシールドリバプール戦やリーグのトッテナム戦でハットトリックを記録するなど好調な出足。そのシーズン途中の92年11月、イングランドの名門マンチェスター・ユナイテッドからオファーが舞い込む。

このときのマンUは深刻な得点力不足に悩まされ、開幕からのスタートダッシュに失敗。そこでアレックス・ファーガソン監督がカントナの優れた攻撃センスに目を付け、獲得を申し込んだのだ。

マンUへ移籍したカントナは、ファーガソン監督のもとで水を得た魚のように能力を解放。芸術的なスキルと圧倒的なカリスマ性でチームを劇的に変化させると、勢いを加速させたマンUは後半戦を快走。26年ぶりとなる1部リーグ優勝を逆転で果し、プレミアリーグ初代王者に輝いた。

さらに翌93-94シーズン、カントナは34試合18ゴール12アシストとキャリアハイの活躍。チームをリーグ連覇とFAカップ優勝の2冠に導き、PFA(選手協会)のMVPにも選ばれる。

ロイ・キーンライアン・ギグスと新たなスターが登場する中でも、その存在感はひときわ輝きを放ち、サポーターから「エリック・ザ・キング」の称号が与えられた。カントナの襟を立てた背番号7のユニフォーム姿は、90年代黄金期を迎えたマンUの象徴となっていった。

だがチャンピオンズリーグガラタサライ戦で審判に抗議して退場となるなど、悪童としての気質が変わることはなかった。

 

パリの悪夢

92年9月からはW杯欧州予選が開始。前大会の出場を逃したうえ、次回の開催地に決まっていたフランスにとって、絶対に負けられない戦いだった。

しかし初戦からストイチコフ擁するブルガリアに0-2と敗れ、不吉さを予感させるスタート。それでもカントナとパパンの活躍で持ち直したフランスは勝ち星を重ね、残り2試合(いずれもホーム)で1勝でも挙げれば、W杯出場決定というところまでこぎ着ける。

だがラスト前となる93年10月のイスラエル戦は、ロスタイムに得点を奪われまさかの逆転負け。W杯出場の行方は、勝点1差まで迫ってきたブルガリアとの最終戦にもつれ込んだ。

11月17日、ホームのパリでW杯出場を懸けたブルガリア戦が開始。前半32分、クロスボールをパパンが頭で落とすと、それをカントナが蹴り込んでフランスが先制。しかしその5分後、ブルガリアのゴールを許して追いつかれてしまう。

1-1で進んだ試合は終盤に突入。このまま引き分けなら、勝点で1つ上回るフランスが本大会出場となるはずだった。そして終了直前の89分には相手陣営でファールを得て、あとは時間稼ぎをして終了のホイッスルを待つだけとなる。

しかしリスタートからのパスを受けたジノラが、何を思ったかゴール前へクロス。ボールはカントナの遙か頭上を超えてゆき、ブルガリアに拾われてカウンターの逆襲を喰らう。

その速攻によるボール繋ぎから、前線のペネフがポストプレー。浮き球スルーパスから抜け出したコスタディノフに、決勝のゴールを叩き込まれてしまった。

こうして土壇場で1-2と逆転負けを喫したフランスは、最後の最後でブルガリアに抜かれ、グループ3位に沈んで予選敗退。「パリの悪夢」と呼ばれる大失態だった。寸前のところでW杯出場の夢を絶たれたカントナは、頭を抱えたままピッチを去るしかなかった。

 

カンフーキック事件

94-95シーズンは前半だけで12ゴールと絶好調。キングの活躍でマンUのリーグ3連覇も間違いないと思われたが、95年1月クリスタル・スパレス戦での「カンフーキック事件」が、大きく水を差してしまった。

相手DFの執拗なマークからユニフォームを引っ張られたカントナは、怒りを露にして報復のキック。一発退場となってしまう。すると退場の通路に向かうカントナに、相手サポーターの1人から汚い言葉が浴びせられた。

激高したカントナは、そのサポーターに駆け寄りカンフーキック。さらに馬乗りになって何発ものパンチを見舞う。前代未聞の暴挙に世界は騒然。カントナは8ヶ月の出場停止処分となり、3万ポンドの罰金も科せられる。そしてキングを失ったマンUは、わずか1ポイント差でブラックバーンに首位を譲り、3連覇を逃してしまう。

一時は禁固刑、そしてクラブからの解雇も噂されたカントナ。しかしサポーター側の悪質さも認められて情状酌量の判決。カントナはボランティアを科せられることで許され、マンUとも新たに2年契約を結んだ。

だが釈明のため設けられた記者会見では、「カモメがトロール船を追いかけるのは、イワシが海に放られると思っているからだ。ありがとう」の煙けむに巻くコメント。その場の記者をポカンとさせた。また後年のインタビューでは「最高の瞬間? たくさんあるけど、ひとつ選ぶならフーリガンに蹴りを入れた時だな」と答えるなど、悪びれる様子もなかった。

 

トッププレーヤーのままの引退

W杯予選敗退後、代表のアシスタントコーチだったエメ・ジャケが監督に就任。カントナは新チームのキャプテンに指名される。94年5月にはユーロ96に向けての準備で日本遠征に参加。1-4の圧勝でファルカン・ジャパンに力の違いを見せつけた。

だが95年の「カンフーキック事件」で長期の出場停止処分を受けると、以降カントナは代表に呼ばれなくなってしまう。ユーロ96ではメンバーに選ばれず、自国開催98年W杯への道が閉ざされて代表キャリアを終了。9年間の代表歴で45試合に出場、20ゴールの記録を残した。

95-96シーズン、復帰戦となった10月のリバプールの試合で1ゴール1アシストを記録。序盤つまずいたマンUはキングの帰還で勢いを取り戻し、首位を独走するニューカッスルを追撃。終盤の逆転劇で2季ぶりのリーグ制覇とFAカップ優勝の2冠を達成する。30試合14ゴールの活躍で優勝の原動力となったカントナは、FWA(ライター協会)のMVPに選ばれた。

96-97シーズンはいち早く頭角を現したギグスに続き、ベッカムスコールズガリー・ネビル、ニッキー・バットらユース育ちの「花の92年組」が主力へと成長。首位を争ったニューカッスルを大きく引き離して、2度目のリーグ連覇を成し遂げる。

36試合11ゴールの成績を残したカントナは、「トッププレーヤーのうちに辞めるつもりだった」とシーズン限りの引退を発表。若き精鋭たちの活躍を見届け、30歳で現役を引退した。

人を寄せ付けない孤高の存在だったカントナだが、全体練習の他に個人練習を重ねるプロフェッショナルな姿勢はベッカムらの若手に影響を与え、その後に続くマンチェスター・ユナイテッドの全盛期に繋がっていったという。

 

俳優カントナ

引退後はしばらくビーチサッカーのフランス代表として活躍。05年のビーチサッカー・ワールドカップでは優勝を果し、その後は監督も務める。

また平行して俳優の活動を始め、史劇『エリザベス』(98年)や犯罪サスペンス『マルセイユの決着おとしまえ』(07年)などの映画に出演する。また09年には自らを題材にしたコメディ、『エリックを探して』を製作総指揮。本人役で劇中に登場した。カンヌ国際映画祭に出品された本作は好評を博し、パルムドール候補にもなった。

11年7月にはニューヨーク・コスモス(米独立サッカーリーグ)のスポーツディレクターに就任。だがすぐにクラブとトラブルを起こし、解雇処分を巡って訴訟沙汰にまで発展した。その後も過激なコメントを発信し続け、たびたび世間を騒がせている。