「電光石火の爆走王」
電光石火のドルブルでサイドを切り裂き、相手DFを混乱に陥れた爆速ウィンガー。一気の縦突破から中央へ鋭くカットインし、左足から放たれる正確無比のシュートでゴールを奪った。あまたの名将に重用され、多くのタイトル獲得に貢献。オランダ史上最高のアタッカーと呼ばれたのが、アリエン・ロッベン( Arjen Robben )だ。
エールディヴィジで若き快速王の名を馳せると、04年に移籍したチェルシーでも攻撃の主力として活躍。プレミア新勢力のリーグ2連覇に貢献する。そのあとレアル・マドリードを経て09年にはバイエルン・ミュンヘンに移籍。フランク・リベリーと黄金の両翼を形成し、ブンデスリーガ1強を誇るチームの中核を担った。
オランダ代表では3度のW杯と3度のユーロに出場。10年W杯南アフリカ大会では初の栄冠を目前にしながら、肝心な場面でシュートを外してしまいスペインに優勝をさらわれた。14年W杯ブラジル大会ではそのスペインと初戦で再戦。鮮やかな2ゴールを決めて前回王者を予選リーグ敗退に追い込んだ。
アリエン・ロッベンは1984年1月23日、オランダ北東部フローニンゲン州のベドゥムという村で生まれた。5歳で地元アマチュアクラブのVVベドゥムに入団。そのアグレッシブなドリブルスキルとスピードでたちまち頭角を現し、1試合でひとり18得点を挙げたこともあった。
その才能が注目され、12歳となった96年にはエールディヴィジに所属するFCフローニンゲンのユースアカデミーに移籍。すでにこの頃、カットインで切り込む独自のスタイルを確立していたという。
2000年11月、ロッベンは16歳にしてトップチーム昇格。その1週間後のRKC戦で途中出場によるエールディヴィジ・デビューを飾る。その後もユースと平行して17試合に出場し、1年目の00-01シーズンは2ゴールを記録。クラブの年間ベストプレーヤーに選ばれた。
2年目の01-02シーズンはレギュラーに定着して28試合6ゴールの成績。オランダで最も注目される若手選手となったロッベンには、国内3大クラブによる争奪戦が繰り広げられた。
一時はアヤックスとの契約が決まりかけたが、ロッベンの代理人を務める父ハンスが、書類に記載された名前のスペル間違いを発見。アヤックスとの交渉は白紙に戻され、PSVアイントホーフェンへの移籍を決める。
移籍1年目の02-03シーズン、名将フース・ヒディンク監督のもとで33試合12ゴールの大活躍。クラブ2季ぶり17度目のエールディヴィジ優勝に大きく貢献し、この年のオランダ最優秀若手選手賞に輝く。
翌年もさらなる飛躍が期待されたが、ハムストリング痛めるなどたびたびの欠場を余儀なくされ23試合6ゴールの成績。PSVはライバル、アヤックスのリーグタイトル奪回を許し、リーグ2連覇を逃してしまう。
オランダ代表の若きホープ
クラブでの活躍が認められ、03年4月に行なわれた親善試合、ポルトガル戦で途中出場によるA代表デビュー。ちなみに同い年(19歳)のMFヴェスレイ・スナイデルも、このポルトガル戦でA代表デビューを飾っている。
同年10月のユーロ予選・モルトバ戦で代表初ゴールを記録。故障でしばらく代表を離れる時期もあったが、04年には期待値込みでユーロ大会のメンバーにも選ばれる。
04年6月、ポルトガル開催のユーロ大会が開幕。グループステージの初戦は出番がないまま、宿敵ドイツと1-1の引き分け。続くチェコ戦では、ロッベンが左ウィングとして初めて先発のピッチに立った。
試合は立ち上がりからロッベンが無双状態。切れ味鋭いドリブルで相手DFを混乱に陥れ、ゲームの主導権を握った。開始4分、右サイドで得たセットプレーをロッベンが左足クロス。ファーサイドで合わせたボウマが頭で叩き込み、オランダが先制する。
さらに19分、ダーヴィッツのスルーパスに抜け出したロッベンが中央へ折り返し。これをファンニステルローイが押し込み追加点。23分にはパスミスからヤン・コレルに1点を返されるも、オランダがロッベンの活躍で2-1とリードして前半を折り返す。
後半チェコは司令塔ネドベドを中心に反撃を開始。好調ロッベンのマークを放棄して攻撃の枚数を増やし、オランダゴール深くまで攻め込んできた。これで自陣に引かざるを得なくロッベンの攻撃は無力化。58分には守備的MFボスフェルトと交代となる。
厄介者が消えて攻勢を強めるチェコ。71分にネドベドのクロスをコレルが胸で落としてバロシュが同点弾。88分にはスミチェルにゴールを決められ、オランダは屈辱の逆転負けを喫してしまう。
これで予選敗退の危機に追い込まれたオランダだが、最終節のラトビア戦で3-0の勝利。同時刻の試合で主力を温存したチェコがドイツに2-1と勝利したため、運に恵まれベスト8進出を決める。
準々決勝でもロッベンが攻撃の牽引役として活躍。PK戦では6人目のキッカーを務め、チームをベスト4に導く。準決勝では地元ポルトガルに敗れてしまったが、次世代を担うホープとして脚光を浴びた。
新興チェルシーの核弾頭
ロッベンの活躍はプレミアの名将アレック・ファーガソンの目に止まり、マンチェスター・ユナイテッドから750万ユーロのオファー。しかしその金額が安すぎるとしたロッベンとPSVはユナイテッドのオファーを断り、1800万ユーロの好条件を提示してきたチェルシーFCと契約。04-05シーズンはイングランドに活躍の場を移すことになった。
だがプレミア開幕を控えたプレシーズンマッチで、右足の中足骨を骨折するアクシデント。その際のメディカルチェックで、精巣の腫瘍が発見される。幸い早期発見だったため腫瘍の摘出手術は成功、後に子宝(2男1女)にも恵まれた。
これらの治療によりシーズンの出遅れを余儀なくされるが、04年10月23日のブラックバーン戦でプレミアデビュー。たちまちチームの堅守速攻戦術をリードするサイドアタッカーとして抜群の働きを見せ、11月のリーグ月間MVPを獲得。出場18試合ながら7得点の活躍で、攻撃の核弾頭となって新興チェルシーのプレミアリーグ初優勝に貢献する。
翌05-06シーズンも序盤戦で負傷離脱するが、復帰後26試合で6ゴールの活躍。リーグ2連覇に大きな役割を果たし、辛口のジョゼ・モウリーニョ監督からも「代わりを見つけられない貴重な選手」と称賛された。
W杯ドイツ大会の活躍
ファンバステン新監督に率いられたオランダ代表は、04年9月から始まったW杯欧州予選を12戦10勝2分けの無敗突破。故障がちのロッベンは6試合の出場にとどまったが、2ゴールを挙げて予選突破に貢献した。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。初戦の相手はセルビア・モンテネグロ、ロッベンは左ウィングとして初となる大舞台のピッチに立った。
開始18分、高速カウンターから中央を抜け出したロッベンが先制ゴール。その後もサイドを切り裂くロッベンの快足ドリブルは相手を守勢に追い込み、オランダが1-0の勝利を収める。
続く第2戦は、アフリカの新興コートジボワールとの試合。相手エースは、チェルシーの同僚でもあるドログバだった。前半23分、ファンペルシーが自ら得たFKを叩き込んで先制。その4分後、サイド突破から中央へカットインしたロッベンがスルーパス。そこからエースのファンニステルローイが追加点を決め、リードを広げる。
38分に1点を返されるも、終始ゲームを優位に進めたオランダが2-1の勝利。早くもグループ突破を確定させた。
最終節のアルゼンチン戦は、コートジボワール戦でカードを貰っていたロッベンを温存。メッシ、テベスと若い2トップを起用してきたアルゼンチンと0-0で引き分け、オランダがグループ1位での決勝トーナメント進出となった。
トーナメント1回戦の相手はポルトガル。好調ロッベンとファンペルシーの両翼がゴールに迫って試合の主導権を握るも、23分に一瞬の隙を突かれて失点。ゲームはこのあとイエローカード16枚、レッドカード4枚が乱れ飛ぶ大荒れの内容となり、好機をモノに出来ないまま試合は終了。オランダは1次リーグでの勢いを活かせず、惜しくもベスト16敗退となってしまった。
06-07シーズン、新たに加わったシェフチェンコとバラックの大型戦力が機能せず、チームは終盤戦に失速。マンチェスター・ユナイテッドのリーグタイトル奪回を許してしまう。相変わらず脚の故障に悩まされたロッベンも、21試合2ゴールの成績に終わった。
それでも快足ドリブラーの価値は下がることなく、スペインの名門レアル・マドリードからオファー。ロッベンはFAカップ優勝のタイトルを置き土産に、3シーズンを過ごしたロンドンを離れて「白い巨人」の一員となった。
移籍1年目の07-08シーズン、常態化した脚の故障に苦しみながらも、リーガ優勝のタイトル獲得に貢献。翌08-09シーズン、途中解任となったベルント・シュスター監督の後任としてファンデ・ラモスが新指揮官に就任。ラモス監督によって右ウィングにコンバートされると、ここで新境地を拓いて29試合7ゴールの活躍。レギュラーの座を確保した。
しかしクリスティアーノ・ロナウド、カリム・ベンゼマ、カカ、シャビ・アロンソと大型補強の煽りを受け、シーズン終了後にはロッベンと盟友スナイデルの放出が決定。ロッベンはレアルへの未練を残しながらも、ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンと契約をかわす。
同郷のルイ・ファンハール監督が率いるバイエルンでは、背番号10を背負って攻撃の中核として躍動。左ウィングのフランク・リベリーと「ロベリー」と呼ばれる両翼を形成し、24試合16ゴールの活躍で2季ぶりとなるリーグ優勝に貢献する。
09-10シーズンのチャンピオンズリーグも、チームを9季ぶりの決勝に導く8ゴールの活躍。決勝ステージのフィオレンティーナでは勝利を決めるアウェーゴールを叩き込み、準々決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では殊勲の決勝弾。準決勝のオリンピック・リヨン戦でも、貴重な先制ゴールを記録した。
決勝の相手は、モウリーニョ監督率いるインテル・ミラノ。司令塔を務めるのは盟友スナイデルだった。試合は前半25分にスナイデルのスルーパスからミリートの先制点を許すと、後半70分にもミリートが追加点。バイエルンはなすすべなく0-2の完敗を喫し、インテルのトレブル(3冠)達成を助けてしまった。
W杯・南アフリカ大会準優勝
08年6月には、オーストリア/スイス共催のユーロ08に出場。脚のケガで本調子ではなかったロッベンも1ゴール21アシストを記録し、イタリア、フランス、ルーマニアと強豪の揃う「死のグループ」1位突破に貢献する。
しかし準々決勝では、アルシャビンが爆発したロシアの前に1-3の敗戦。不調のロッベンに最後まで出番は訪れなかった。
指揮官がファンマルバイクに代わったW杯欧州予選では、8戦全勝の強さで首位突破。26歳と体力のピークを迎え、ロッベンは2度目の大舞台に臨む。
故障明けだったロッベンの出番は、G/L最終節カメルーン戦での途中出場からだったが、オランダは3連勝で決勝トーナメント進出した。
トーナメントの1回戦は、ロッベンとスナイデルのゴールでスロバキアに2-1の勝利。準々決勝はスナイデルの2ゴールで強豪ブラジルを2-1と撃破する。
準決勝で対戦したのはウルグアイ。1-1で折り返した後半70分、スナイデルのシュートが相手DFに当たり勝ち越し点。その3分後にはカイトのクロスをロッベンが頭で合わせ、貴重な追加点を決める。終盤ウルグアイの反撃を1点に抑え、オランダが3-2の勝利。22年ぶりとなる決勝へ駒を進める。
決勝の相手はスペイン、どちらが勝っても初優勝となる戦いだった。試合はボール支配率で上回るスペインに主導権を握られるも、効果的なカウンター攻撃で対抗。前半ロスタイムにはファンペルシーの落としからロッベンが強烈なキックを放つが、カシージャスのナイスセーブで得点とはならなかった。
0-0で折り返した後半62分、スナイデルのスルーパスに抜け出したロッベンがGKと1対1。しかし左足で狙ったシュートはまたもカシージャスのスーパーセーブに防がれ、最大の得点機を逃してしまう。
終盤の82分にもロッベンがドリブルでゴールに迫るが、またもカシージャスの好守に阻まれてしまった。
ゲームは延長戦に突入。PK戦も見えてきた116分、スペインのイニエスタが勝負にケリをつける決勝弾。オランダはチャンスがありながらも、ロッベンの決定力を欠いて優勝杯に手が届かなかった。
悲願のチャンピオンリーグ優勝
強豪バイエルンでその存在感を高めていったロッベン。11-12シーズンは自身2度目となるCL決勝の大一番に臨む。決勝の相手は古巣チェルシー、その舞台はバイエルンのホームであるアリアンツ・アレーナだった。
試合は終盤まで均衡状態が続くも、83分にトーマス・ミュラーがヘディングで先制点。バイエルン11年ぶりの戴冠が近づいたかに思えた。しかし88分、ドログバが試合を振り出しに戻す同点弾。ゲームは延長戦にもつれる。
延長前半、Pエリア内でリベリーがドログバに倒されバイエルンがPKを獲得。大事な場面のキッカーはロッベンに託された。だがロッベンのシュートは、守護神チェフのナイスセーブに防がれ失敗。千載一遇のチャンスを逃したバイエルンは、PK戦も3-4と落とし、またもビッグタイトルに手が届かなかった。
翌12-13シーズン、バイエルンは「ロベリー」の活躍でリーグ優勝とDFBポカール制覇の2冠を達成。CLも2年連続の決勝に進む。決勝は、ブンデスリーガのライバルでもあるドルトムントとのドイツ対決となった。
ドルトムントの「ゲーゲンプレス」に劣勢を強いられるバイエルンだが、後半60分にロッベンがリベリーとのワンツーに抜けだしクロス。これをマンジュキッチが押し込んでバイエルンが先制する。
この8分後にPKを与えてしまい同点へ追いつかれるも、後半終了間近の89分、リベリーのバックヒールからロッベンがDFラインを突破。落ち着いてキーパーをかわし、左足で流し込んで勝負を決めた。バイエルンに12年ぶりとなるビッグイアーを掲げ、トレブル達成の偉業も成す。
優勝の立役者となったロッベンは、「大一番に弱い男」の汚名を返上。決勝のマン・オブ・ザ・マッチに輝き、悲願となるビッグタイトルを手にした。
シーズン終了後、3冠監督のユップ・ハインケスが勇退。クラブはその後任として、名将グアルディオラの招聘に成功。ここからバイエルンはブンデス1強の道を歩み始める。
ブラジルW杯の輝き
12年6月にはポーランド/ウクライナ共催のユーロ大会に出場。しかしオランダは3戦全敗の最下位に沈み、グループステージ敗退。主力の高齢化が陰を落とし始めていた。
12年7月にはルイ・ファンハールが代表監督に就任。オランダはW杯欧州予選を9勝1分けの強さで勝ち抜き、3大会連続出場を決める。
14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。オランダ初戦の相手は、前回ファイナルの再現となるスペインだった。前半27分、不用意に与えたPKをシャビ・アロンソに決められ失点。しかし前半終了間際の44分、アーリークロスに抜け出したファンペルシーが、鮮やかなダイビングヘッドを叩き込んで同点とする。
1-1で折り返した後半の53分、ブリントのロングボールからロッベンがDFをかわして逆転弾。そのあとデフライとファンペルシーのゴールでリードを広げると、80分には中盤でボールを受けたロッベンが快足を飛ばして中央突破。立ち塞がるカシージャスをドリブルで翻弄し、ダメ押しとなる5点目を決める。
オランダは前回王者のスペインを5-1と粉砕。このあともロッベン、スナイデル、ファンペルシーの三枚看板の活躍で、ベスト4に進出する。
準決勝ではアルゼンチンにPK戦で敗れてしまい、2大会連続の決勝を逃すが、3位決定戦では地元ブラジルに3-0の快勝。前回の準優勝に続く好成績を残した。3ゴールを挙げてオランダの攻撃をリードしたロッベンは、メッシ、ミュラーに次ぐブロンズボール賞に輝く。
15年からはキャプテンマークを巻いて代表の主軸として活躍。だがオランダは16年のユーロ大会と18年W杯の出場を逃し、ロッベンは17年を最後に代表活動を終えた。代表の15年間で96試合に出場、37ゴールの記録を残している。
フルマラソンへの挑戦
18-19シーズン終了後、チームのリーグ7連覇を置き土産に、リベリーとともにバイエルン・ミュンヘンを退団。最初リベリーとは緊張関係にあったロッベンだが、10年を共有するうちに二人は盟友となっていた。
19年7月にはキャリアの終了を発表するも、20年6月に古巣のフローニンゲンで現役復帰。ここで1シーズンを過ごし、21年7月に37歳で現役を引退する。
現役引退後の22年にはフルマラソンに挑戦。2度目の参加となった23年4月のロッテルダムマラソンでは、2時間58分33秒の自己最高記録で完走を果たしている。