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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ダビド・トレゼゲ(フランス)

 

ダビデ王の標的」

左右両足で正確に標的を捉えるシュートスキルを持ち、ペナルティーエリア内を主戦場とした生粋のゴールハンター。190㎝の長身を活かしたパワースタイルを持ち味とし、得意のヘディングでは無類の強さを発揮。世界屈指のストライカーとして「レ・ダビド(ダビデ王)」の異名を取ったのが、ダビド・トレゼゲ( David Sergio Trézéguet )だ。

 

アルゼンチンのCAプラセンテでキャリアを始め、出生地のフランスに渡ってASモナコで活躍。ゴールを量産してリーグ・アン優勝に貢献する。2000年にはイタリアの名門ユベントスに移籍。01-02シーズンは24ゴールを挙げて初のリーグ得点王に輝き、チームのスクデット獲得に大きな役割を果たした。

 

20歳でフランス代表デビューを飾ると、その半年後には地元開催の98年W杯に出場。レ・ブルーの新星としてティエリ・アンリとともにエースストライカー不在の穴を埋め、母国の初優勝に寄与した。ユーロ2000では、決勝のイタリア戦で殊勲のゴールデンゴール。しかし02年日韓W杯、ユーロ04では輝きを放つことが出来なかった。

 

アルゼンチン育ちのストライカ

ダビド・トレゼゲは1977年10月15日、フランス北部の街ルーアンで、アルゼンチン系フランス人の父親と、アルゼンチン出身の母親の間に生まれた。

父ホルヘは、ノルマンディーの強豪クラブ・FCルーアンでプレーするサッカー選手。ダビドが2歳となった79年、父とクラブとの契約終了により、一家は祖国のアルゼンチンに帰国。首都ブエノスアイレスで少年期を過ごす。

小さい頃からサッカーに親しんだダビドは、街のフットサル大会で優勝を経験するなど才能を発揮。8歳で叔父トーマスが監督を務めるCAプラセンテのジュニアチームに入団する。ジュニアチームには現役を引退したホルヘもフィジカルトレーナーとして働いていたが、父のポジションだったディフェンダーには興味を持たず、もっぱらFWとしてゴールを奪うことに熱中した。

するとたちまちチームの点取り屋として頭角を現し、16歳でトップチーム昇格。94年6月のヒムナシア・ラプラタ戦でプリメーラ・ディビシオン(1部リーグ)デビューを果たす。

だがこのあとチーム内のゴタゴタに巻き込まれ、わずか5試合に出場しただけてプラセンテを退団。95年夏にはフランスに渡り、パリ・サンジェルマンの入団テストを受ける。

そのプレーはルイス・フェルナンデス監督に気に入られ、1ヶ月に及んだトライアルで合格。しかし父親が代理人を務めた契約交渉はまとまらず、PSG入団の話はご破算となった。

だがトレゼゲの才能を惜しんだフェルナンデス監督は、ASモナコの指揮官を務める旧知のジャン・ティガナに彼を紹介。ダビドは練習生としてモナコと契約を交わす。

ASモナコではリザーブリーグで経験を積み、96年1月のトーナメント大会でトップチームデビュー。翌2月のPSG戦で、ディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)初出場を果たした。

だが当初はフランス語がほとんど喋れず、チームへの適応に苦戦。最初の2年間は計10試合に出場したのみで、なかなか初ゴールも生まれなかった。

プロ3年目の97-98シーズン、主力の故障により出場のチャンスを得ると、リーグ初先発のカンヌ戦で初ゴールを記録。ここからトレゼゲの才能が開花し、27試合18ゴールの活躍。同い年のティエリ・アンリとともに、攻撃の中核を担った。

 

レ・ブルーの新星

フランスとアルゼンチンの二重国籍を持っていたトレゼゲは、迷わずフランス代表入りを選択。アンダー世代でU-19欧州選手権優勝と世界ユース選手権(現U-20W杯)ベスト4に貢献したあと、98年1月のスペイン戦でフル代表デビューを果たす。

するとエースストライカー不在に悩むレ・ブルーの新鋭FWとして、盟友のアンリと共に自国開催のW杯メンバーに選出。大会を直前に控えた6月5日の強化試合、フィンランド戦で初ゴールを記録し、20歳で世界の大舞台へ臨むことになった。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。初戦はアンリのゴールなどで南アフリカに3-0と快勝し、トレゼゲは82分の途中出場でW杯デビューを飾る。

第2戦の相手はサウジアラビア。フランスは前半29分、負傷のギバルシュに代わりトレゼゲを投入。その7分後にはアンリの先制ゴールが生まれる。後半の68分、トレゼゲがヘディングによる初ゴールで追加点。77分にはアンリがこの日2点目を決めた。ジダンの一発退場というアクシデントがあったものの、最後はリザラスがダメを押して4-0の圧勝。早くもグループ突破を決める。

主力を温存した最終節のデンマーク戦は、トレゼゲが大会初先発。前半12分にトレゼゲが得たPKをジョルカエフが沈め、フランスが2-1の勝利。3連勝で決勝トーナメントに進出した。

トーナメントの1回戦は、パラグアイと対戦。司令塔のジダンを欠くフランスは、GKチラベルトを中心としたパラグアイの堅守に苦戦。試合はスコアレスのまま延長戦に突入する。その延長後半の113分、ピレスのクロスにトレゼゲが頭で合わせ、最後はブランが押し込んでゴールデンゴール。接戦をモノにして準々決勝に勝ち上がる。

準々決勝のイタリア戦はジダンが先発復帰。シビアな展開が予想された強豪との一戦に、トレゼゲとアンリの若手二人はベンチスタートとなった。0-0で折り返した65分、フランスは局面打開のためトレゼゲとアンリを同時投入。だが試合は延長戦に入ってもスコアは動かず、PK戦へともつれた。

先攻のフランスは2人目のリザラスが失敗するも、3人目のトレゼゲ、4人目のアンリ、5人目のブランと続けて成功。対するイタリアは、2人目のアルベルティーニがGKバルデスに止められ、5人目ディ・ビアッジョのキックはバーを直撃。PK戦を制したフランスが準決勝に進む。

準決勝はクロアチアに2-1の勝利。ついに決勝へと駒を進める。だがトレゼゲは経験に勝るギバルシュに出番を奪われ、後半69分からの登場。これと言った見せ場もなく終える。

決勝ではブラジルを3-0と下し、地元フランスが悲願の初優勝。だがチームが勝ち進むにつれ、若いトレゼゲとアンリの出場機会は減少。W杯ファイナル大一番のピッチで、二人の姿を見ることは出来なかった。

 

ユーロ2000のゴールデンゴール

98-99シーズンは27試合12ゴールと安定した成績を残し、翌99-00シーズンはリーグ得点王にあと1点差と迫る30試合22ゴールの大活躍。モナコ3季ぶりとなる優勝の原動力となったトレゼゲには、イタリアの名門ユベントスからのオファーが舞い込む。

ユベントス移籍が決った直後の2000年6月、ベルギー/オランダ共催のユーロ大会が開幕。フランスは初戦でデンマークに3-0、2戦目でチェコに2-1と連勝を収めるが、ニコラ・アネルカに先発の座を譲ったトレゼゲに出場の機会は訪れなかった。

主力を温存した最終節のオランダ戦で、ようやく今大会初先発。前半31分には勝ち越しとなるゴールを決めるが、後半に失点を喫して2-3の逆転負け。グループ2位でベスト8に進む。

準々決勝はスペインに2-1の勝利、だがまたもトレゼゲの出番はなかった。準決勝はポルトガルと対戦。1-1の同点で迎えた延長の102分、アンリに代わってトレゼゲがピッチに登場。すると終了時間の近づいた延長後半の117分、ポルトガルDFのハンドによりPKを獲得。これをジダンが豪快なシュートで叩き込み、フランスが決勝進出を決めた。

決勝の相手はイタリア。後半56分にデルベッキオの先制弾を許すと、リードされたフランスは76分にトレゼゲを投入。追いつくべく猛攻を仕掛けるが、イタリアの堅守に阻まれ試合はついにロスタイムを迎えた。

イタリアが勝利を手にしたかに思えた94分、GKバルデスのロングキックをトレゼゲが頭でそらし、DFのクリアミスを拾ったヴィルトールが起死回生の同点弾。決勝は土壇場で延長に突入する。

その延長前半の103分、ドルブルで左サイドを破ったピレスが中央へクロス。フリーで待ち構えていたトレゼゲがボレーで左足を振り切ると、勝利を告げるゴールデンゴールが決った。

これでフランスは16年ぶり2度目の欧州制覇を果たすとともに、W杯に続くメジャー大会2連覇を達成。サブに回ったトレゼゲの出番は少なかったが、優勝を決めた一撃は、ユーロの歴史に名を刻むものとなった。

 

ユベントスの点取り屋

ユベントス移籍1年目の00-01シーズン、デル・ピエロインザーギとポジションを争いながら25試合14ゴールの好成績。チームのトップスコアラーとなって評価を高めた。

01-02シーズン、攻撃の主力であるジダンインザーギがチームを去るも、先発の座を確立したトレゼゲは、34試合24ゴールの大活躍でセリエA得点王を獲得。デル・ピエロネドベドと共に攻撃を牽引し、シーズン終盤の快進撃に繋げてユベントスを4季ぶりの優勝に導く。

チャンピオンズリーグでも10試合8ゴールと躍動。惜しくもユベントスは決勝ステージに進めなかったが、トレゼゲはファン ニステルローイに続く得点ランキング2位の成績を残す。

これらの活躍により、得点王に加えてセリエAの最優秀選手賞、最優秀外国人選手賞とリーグの個人タイトルを独占。前線に張り付いて運動量こそ少なかったが、両足と頭を使いこなせるシュートスキル、チャンスを逃さない決定力の高さで「ダビデ王」の異名で呼ばれた。

 

失意の日韓W杯

02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。セリエAトレゼゲプレミアリーグのアンリ、ディヴィジョン・アンのジブリール・シセと、3人の欧州主要リーグ得点王を揃えたフランスは破壊力がパワーアップ。優勝の最有力候補とされていた。

しかし本番直前に行なわれた親善試合で、司令塔のジダンが左足太腿を故障。開幕ゲームとなったセネガル戦は、大黒柱を欠いて臨むことになった。

それでも初出場のチームを相手に、前回王者の牙城は揺るがないと思えたが、セネガルのスピードに翻弄され前半30分に失点。トレゼゲが放ったシュートはポストに阻まれ、アンリのシュートはバーを叩くなど、運にも見放されて0-1と思わぬ黒星を喫する。

第2戦はウルグアイとの対戦、故障の癒えないジダンはまたも欠場となった。前半16分、DFの要であるルブフが負傷交代。25分にはアンリが危険なタックルで一発退場となってしまう。手負いとなったチームでトレゼゲは奮闘するが、ゴール前を固める相手を崩せず、0-0の引き分け。レ・ブルーは敗退の危機を迎える。

最終節の相手はデンマーク。瀬戸際に追い込まれたフランスは、ジダンが故障を押して強行出場する。しかしフランスの攻撃にギアが入ることなく、前半22分にはカウンターから失点。67分にもトマソンの追加点を許す。

トレゼゲのシュートはまたもバーに嫌われるなど、最後までツキに恵まれず0-2の敗戦。フランスは3人のリーグ得点王を擁しながら、1点も奪うことなく3連敗。屈辱のグループリーグ敗退となった。

 

カルチョポリ騒動

02-03シーズン、右膝の故障により17試合9ゴールの成績。しかしチームは前季の好調さを維持し、セリエA2連覇を達成する。一方CLの決勝ステージでは、トレゼゲがエースの活躍。強敵バルセロナを下してベスト4に勝ち上がると、準決勝ではトレゼゲの貴重な2得点で「銀河系軍団」レアル・マドリードを撃破。ユベントスは5年ぶりとなる決勝へ進出する。

決勝はACミランとの同国ライバル対決。試合は拮抗した攻防が続き、延長120分を終わってもスコアレスのまま。勝負はPK戦にもつれ込む。

先攻のユベントスは、1人目のトレゼゲが失敗。2人目、3人目も相手GKのジダに止められてしまう。ユベントスも守護神のブッフォンが2本をセーブして食いつくが、5人目のシェフチェンコにキックを決められゲームは決着。クラブ7年ぶりとなるビッグタイトルに手が届かなかった。

03-04シーズン、たび重なる怪我に悩まされながらも25試合16ゴールの成績。04-05シーズンはスクデットを奪還するも、トレゼゲは肩の負傷もあり18試合9ゴールに終わった。

05-06シーズン、コンディションを回復したトレゼゲは復活の輝き。32試合23ゴールの活躍でセリエA連覇に貢献する。

しかし06年の春、イタリアサッカー界を震撼させた審判買収疑惑、”カルチョ・スキャンダル(カルチョポリ)” が発覚。不正の主犯格とされたユベントスは、04-05/05-06シーズンのスクデット剥奪。さらにセリエB降格に加え、次シーズンをマイナス9ポイントからのスタートという厳しい処分を科せられてしまう。

これを受けてカンナバーロヴィエラなど多くの主力がチームを離れる中、トレゼゲデル・ピエロネドベドブッフォンとともに残留を表明。ビアンコネロの再起を誓った。

 

レ・ブルーへの決別

ベスト8に終わったユーロ04後、ユース代表時代の指揮官であるレイモン・ドメネクがフランス代表監督に就任。ワントップを敷くドメネク戦術にトレゼゲは先発の座を失い、W杯欧州予選は2試合1ゴールにとどまった。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。しかし監督に冷遇されたトレゼゲの出番は少なく、準決勝までの6試合で先発に起用されたのはG/Lトーゴ戦の1回のみ。その前の韓国戦では、ロスタイムの91分に時間稼ぎ要員として投入されるという有様だった。

代表復帰したジダンを中心に、結束力を高めたフランスは2大会ぶりの決勝へ進出。カルチョポリの騒動で団結を強めたイタリアと雌雄を決することになった。

1-1の同点で突入した延長の100分、フランスはリベリーに代わりトレゼゲを投入。110分には相手の挑発に乗ったジダンが一発退場となるアクシデントに見舞われるが、どうにか守り切ってPK戦へと持ち込む。

後攻のフランスは2人目のキッカーとしてトレゼゲが登場。しかし彼の蹴ったシュートはバーの下を叩き、ライン外へ弾かれて失敗。対するイタリアは5人全員が成功し、栄冠はレ・ブルーに輝かなかった。

このあとトレゼゲはほとんど代表に呼ばれなくなり、08年のユーロメンバーからも落選。フランスはユーロ08大会でG/L最下位の惨敗を喫するが、なぜかドメネク監督の続投が決定。

その報を聞いたトレゼゲは「フランス惨敗より、ドメネクの続投が腹立たしい」と憤慨。代表からの引退を発表する。11年間の代表歴で71試合に出場、34ゴールの記録を残した。

 

セリエA復帰に貢献

06-07シーズン、セリエBで31試合15ゴールの活躍。21ゴールのデル・ピエロとともにチームの攻撃を支え、マイナススタートのハンディをモノともせず優勝。1年でのセリエA復帰を果たす。

セリエA昇格の07-08シーズンも、36試合20ゴールと好調さを維持。チームメイトのデル・ピエロに1点及ばず2度目の得点王を逃すが、リーグ3位の好成績に寄与した。

だが08-09シーズンは両膝を痛め、8試合1ゴールと移籍後最低の成績。翌09-10シーズン終了後、契約満了により10年を過ごしたユベントスを退団する。ユベントスでは公式戦320試合に出場して171ゴールを記録した。

そのあとリーベル・プレートなどいくつかのクラブを経て、15年1月に37歳で現役を引退。引退後はユベントスのブランド・アンバサダーに就任。21年にはスポーツディレクターの資格を取得したことが公表されている。