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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》イケル・カシージャス(スペイン)

 

「サン・イケルの神業」

超人的な反射神経と俊敏な動きで、数々のビッグセーブを生み出してきたスペインの絶対的守護神。驚異の瞬発力で至近距離のシュートを止め、ダイナミックな飛び出して1対1の場面を制圧。キーパーとしては185㎝と小柄だが、神業のようなプレーで「サン・イケル(聖イケル)」と呼ばれたのが、イケル・カシージャス( Iker Casillas Fernández )だ。

 

レアル・マドリードの下部組織で育ち、18歳でトップチームデビュー。長きにわたって名門クラブの守護神を務め、リーグ優勝5回、コパ・デル・レイ優勝2回、欧州チャンピオンズリーグ優勝3回、FIFAクラブW杯制覇と、数々のタイトル獲得に大きく貢献。サモラ賞や欧州最優秀GK賞など、いくつもの個人タイトルにも輝いた。

 

スペイン代表としては、4度のW杯と5度のユーロ大会に出場。若くして正GKに抜擢された02年W杯・日韓大会でビッグセーブを連発し、その名を世界に轟かせた。そのあと代表キャプテンの重責を担い、ユーロ08、10年W杯、ユーロ12と、メジャー大会3連覇の偉業に大きな役割を果す。

 

名門クラブの若きキーパー

イケル・カシージャスは1981年5月20日マドリード郊外のモストレスに生まれた。公務員の父ホセ・ルイス、美容師の母マリア、7つ下の弟ウナイという4人家族の中で育つ。父とボール遊びをしていた頃からGKに目覚め、少年時代はマンチェスター・ユナイテッドで活躍するピーター・シュマイケルに憧れていたという。

9歳のときにレアル・マドリードのトライアウトを受け、「ラ・ファブリカ」と呼ばれる下部組織に入団。GKとしては小柄な体格だったが、猛練習を重ねて厳しい生存競争に勝ち残っていく。

すると高校在学中の97年11月、チャンピオンズリーグローゼンボリ戦に初招集。第2、第3キーパーの欠場による緊急招集である。ローゼンボリ戦でカシージャスの出番はなかったが、16歳でのベンチ入りは、彼への期待の大きさを語るものだった。

98-99シーズンにはレアル・マドリードCで4部リーグ優勝を果たすと、99-00シーズンはレアル・マドリードBの正GKを務めながらトップチームにも帯同。99年9月のアスレティック・ビルバオ戦でリーガ・エスパニョーラデビューを果たす。18歳でのリーガデビューは、GKとしてクラブ史上最年少記録となった。

経験が足りずしばらく先発に定着できずにいたが、正GKイルクナーの負傷離脱により、2000年5月に行なわれたCL決勝、バレンシアとの一戦に先発抜擢。カシージャスは大舞台で落ち着いたプレーを披露し、同国対決と注目されたCL決勝を3-0と完封。大会史上最年少の優勝GKに輝き、大器の片鱗を見せた。

こうしてプロ1年目の99-00シーズンは、リーグ戦27試合に出場。欧州の最優秀新人に与えられる ”ブラヴォー賞” にも選ばれる。翌00-01シーズンは「銀河系軍団」守護神の座を獲得し、リーグ戦34試合に出場してリーガ・エスパニョーラ優勝に貢献した。

 

チャンピオンズリーグでの正GK奪回

将来が約束されたかに思えたカシージャスだが、01-02シーズンは調子を崩し、奢りもあってか凡ミスを頻発。リーグ戦後半には、セサル・サンチェスに正GKの座を明け渡してしまう。初めての挫折を味わったカシージャスは、心身ともに己を鍛え直して挽回のチャンスを待った。

02年5月、レアルは2季ぶりとなるCL決勝に進出。レバークーゼンとのファイナルに起用されたのは、サンチェスだった。

試合は1-1で迎えた前半終了直前の45分、ロベルト・カルロスのハイクロスからジダンが芸術的ボレー弾。1点をリードしてハーフタイムを折り返す。

後半に入るとレバークーゼンが反撃を開始。68分には負傷退場したサンチェスに代わり、カシージャスが緊急投入される。すると猛攻を仕掛けるレバークーゼンに対し、輝きを取り戻したカシージャスがファインセーブを連発。ロスタイムにはベルバトフの至近距離からのシュートを立て続けに防ぎ、チームの危機を救った。

このままレアルが逃げ切って2-1の勝利。カシージャスは決勝点のジダンとともに優勝の立役者となり、正GKの座を奪い返した。

 

ワールドカップデビュー

アンダー世代代表の常連だったカシージャスは、2000年6月の親善試合スウェーデン戦でA代表デビュー。直後に開催されたユーロ2000大会のメンバーにも選ばれるが、出場機会はなかった。

同年9月から始まったW杯欧州予選では、代表正GKのカニサレスと併用され5試合無失点の活躍。W杯本番直前にカニサレスがアクシデントによりメンバーから外れてしまったため、21歳のカシージャスが正GKとして初の大舞台に臨むこととなった。

02年5月31日、日韓Wカップが開幕。G/Lは3戦全勝で首位突破。不運なオウンゴールもあり完封試合はなかったが、カシージャスは安定したプレーで勝利に貢献する。

トーナメント1回戦はアイルランドと対戦。前半8分にモリエンテスのゴールで先制するも、相手の速さと粘り強さに苦しい時間が続く。すると後半の63分、DFファンフランがPエリアでFWを倒してPKを献上。同点のピンチを迎えたスペインだが、ハートのキックをカシージャスが横っ飛びで弾き出し、あわやの失点を防いだ。

しかし勝利を目前にした後半のロスタイム、DFイエロが相手ユニフォームを引っ張ってしまい再びPK判定。今度はキッカーのロビー・キーンに逆を突かれてしまい、シュートを止められず土壇場で追いつかれる。

ゲームは延長戦でも決着がつかず、勝負の行方はPK戦へ。先行のスペインは2人目までがキックを成功させると、アイルランドの2人目はバーに当てて失敗。そのあとカシージャスが3人目、4人目と連続で止め、PK戦を制したスペインが準々決勝に進む。

準々決勝の相手は地元韓国。強豪を次々となぎ倒して勢いに乗るホスト国を相手に手こずり、さらに審判団の微妙なジャッジで得点を取り消されるなど、スペインは劣勢を強いられる。それでもゴールを死守するカシージャスは、朴智星パクチソン李天秀イチョンスの決定的なシュートをスーパーセーブでストップ。試合は2戦連続のPK戦にもつれ込んだ。

PK戦では1人目・黄善洪ファンソンホンのシュートに鋭く反応するも、手に当てながらセーブに失敗。続く3人にはことごとく読みを外されてしまう。対するスペインは4人目のホアキンが止められ、最後は安貞桓アンジョンファンにとどめを刺されて無念の敗退となった。

それでもCL決勝に続くカシージャスのビッグセーブ連発はスペイン国民を唸らせ、その神業で「サン・イケル」と讃えられた。

 

ユーロ08優勝

02-03シーズン、リーグ戦全38試合に出場して2季ぶりの優勝に貢献。以降、不動の守護神としてレアルのゴールを守り続け、06-07、07-08シーズンのリーグ連覇を達成。その活躍により、07-08シーズンには初の ”サモラ賞”(リーグ最少失点率キーパー賞)に輝く。

スペイン代表では、04年のユーロ大会(ポルトガル開催)に出場。G/L3試合で2失点と好パフォーマンスを見せるも、得点力不足に泣いて予選リーグ敗退となった。

06年6月にはWカップ・ドイツ大会に出場。初戦から期待の若手が活躍し、ウクライナ戦を4-0、チュニジア戦を3-1と快勝。カシージャスら主力を温存したサウジアラビア戦も1-0と勝利し、G/L3連勝で決勝トーナメントに進む。

トーナメント1回戦は、2大会ぶりの王座奪還を狙うフランスと対戦。前半28分にビジャのPKで先制するも、41分にDF裏へ抜け出したリベリーが、カシージャスをかわしてゴール。1-1の同点でハーフタイムを折り返す。

後半に入るとゲームの流れはフランスに傾き、83分にセットプレーから失点。ロスタイムの92分にもジダンの追加点を許し、1-3の完敗。無念のベスト16敗退を喫する。

このあと代表を退いたラウルに代わり、カシージャスがキャプテンに就任。新たなリーダーとしての責任を負い、ユーロ08大会(オーストリア/スイス共催)に臨む。

G/L初戦はロシアに4-1、第2戦でスウェーデンに2-1と連勝してグループ突破を決めると、最終節のギリシャ戦は、第2キーパーのレイナに先発を譲って2-1の勝利。勢いをつけてベスト8に進む。

準々決勝は06年W杯王者のイタリアと対戦。ボールポゼッションを高めてゲームを支配するスペインに対し、司令塔のピルロを欠くイタリアは守備を固めて相手の隙を窺う体勢。試合は延長120分を終えてもスコアは動かず、PK戦へと突入する。

4人目を終えてイタリアのブッフォンに1本を止められるが、カシージャスは相手の2本をセーブ。最後は5人目セスク・ファブレガスがゴールを沈め、スペインの勝利。当代双璧のキーパー対決は、カシージャスに軍配が上がった。

準決勝はG/Lのリベンジを狙うロシアを3-0と返り討ち。スペインは44年ぶりとなる決勝に駒を進める。

決勝の相手はドイツ。前半33分、シャビのスルーパスからフェルナンド・トーレスが先制点。このあと安定の試合運びでドイツの反撃を封じ、1-0の勝利。第2回大会以来、2度目となる欧州制覇を達成する。スペインは長く続いた停滞期から脱し、「無敵艦隊」への道を歩み始める。

守護神のカシージャスは決勝ステージの3試合でクリーンシートを達成。大会制覇に貢献し、UEFA選定の大会優秀キーパー賞に選出される。

 

無敵艦隊の絶対的守護神

08-09、09-10シーズンと2季連続でリーグ戦の全試合に出場。09年2月に27歳の若さでクラブのGK最多出場記録を更新(454試合)を更新し、同年11月には史上10人目となるチャンピオンズリーグ通算100試合出場を達成する。

08年9月からはW杯欧州予選が開始。09年9月のエストニア戦で5-0と無失点に抑え、スペイン代表歴代最多記録となる57試合(98試合中)のクリーンシートを達成。予選10試合でわずか5失点という優れたパフォーマンスで、グループ首位突破に大きな役割を果たす。

10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。優勝の最有力候補とされていた「無敵艦隊」スペインだが、初戦でスイスに0-1とまさかの黒星スタート。後半52分に喫した失点は、カシージャスのミスが絡んだものだった。

だがそのあと体勢を立て直し、ホンジュラスに2-0、チリに2-1と勝利。グループ1位で決勝トーナメントに進出する。

トナーメント1回戦は、隣国ポルトガルに1-0の勝利。カシージャスクリスティアーノ・ロナウドの無回転FKを弾き出すなど、スペインのゴールを死守した。

準々決勝の相手はパラグアイ。0-0で折り返した後半59分、DFピケがカルドソを倒してPKを献上。しかしカルドソのキックをカシージャスが横っ飛びでキャッチし、失点を許さなかった。その1分後にはスペインがPKのチャンスを得るも、シャビ・アロンソのキックは相手GKに弾かれ先制ならず。

だが試合が膠着状態に入った終盤の83分、シュートのこぼれ球をビジャが蹴り込み決勝点。スペインが接戦をモノにした。そして準決勝でも難敵ドイツを1-0と封じ、ついにスペインが初の決勝へ勝ち上がる。

決勝はともに初優勝を狙うオランダとの戦い。試合は一進一退の攻防が繰り広げられる展開。前半のロスタイム、ロッベンの強力シュートをカシージャスがナイスセーブ。後半62分にもロッベンと1対1の場面を迎えるが、右足1本でスーパーセーブ。最大の危機を逃れた。

スコアレスのまま終盤に入った83分、ロッベンのドリブル突破にDFラインを崩されるも、カシージャスが動きを見極めボールを奪取。快速ウィンガーにシュートを打たせなかった。

試合は延長戦に突入。その116分、セスクのパスからイニエスタが決勝点。スペインが1-0と接戦を制し、悲願の初優勝を成し遂げる。

いくつものピンチを防いでスペインを優勝に導いたカシージャスは、キャプテンとして栄光の優勝杯を掲げた。また全7試合で5つのクリーンシートを達成するという顕著な活躍で、大会のゴールデングラブ賞を受賞。この年には欧州最優秀GK賞など個人タイトルも独占する。

 

ビッグネームの矜持

10-11シーズン、ジョゼ・モウリーニョがレアルの新監督に就任。カシージャスC・ロナウドベンゼマらを擁した「新・銀河系軍団」を後方から支え、18年ぶりとなるコパ・デル・レイ制覇(11年)や4季ぶりとなるリーグ優勝(11-12シーズン)に貢献する。

しかし13年1月に行なわれたコパ・デル・レイ準々決勝、バレンシア戦で左手骨折の重傷。以前よりモウリーニョ監督との確執が続いていたカシージャスは、怪我から復帰した時には正GKの座を失っていた。

12-13シーズンはタイトル無冠に終わり、翌13-14シーズンはカルロ・アンチェロッティがレアルの新監督に就任。だが指揮官が交代してもカシージャスは正GKの座を奪い返すことが出来ず、もっぱらカップ戦要員の扱いとなる。

それでもCLではアトレティコ・マドリードとの決勝を含む13試合に出場して、自身3度目となるビッグイアー獲得に貢献。コパ・デル・レイ制覇にも大きな役割を果たし、ビッグネームの矜持を見せた。

12年6月、ポーランド/ウクライナ共催のユーロ大会に出場。初戦のイタリア戦で失点を喫する(1-1の引き分け)も、このあと決勝までの5試合でクリーンシートを達成。イタリア伝説の名手、ディノ・ゾフの記録を破る509分間無失点の偉業を成し、スペインのメジャー大会3連覇に大きく貢献する。

14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。前人未踏のメジャー4連覇を狙うスペインだが、初戦はオランダに1-5と思わぬ大敗。続くチリ戦も0-2とあえなく敗れ、最終節のオーストラリア戦は不調のカシージャスに代わってサブGKのレイナが先発。チームはようやく3-0と勝利するも、前回王者は3位に沈んで屈辱のグループ敗退。「無敵艦隊」栄光の時代は終わった。

カシージャスはこのあとユーロ2016のメンバーにも選ばれるが、新守護神ダビド・デヘアの控えに回り、最後までゴールを守ることはなかった。

 

ポルトでの現役引退

14-15シーズン、レアルで正GKに返り咲いたカシージャスは、公式戦17試合に出場してクラブW杯優勝に貢献。シーズン終了後にはクラブ内の対立から16年を過ごしたレアルを退団し、ポルトガルFCポルトへ移籍する。

ポルトでは17-18シーズンのリーグ優勝に貢献。だが19年5月、練習中に心臓発作を起こして病院へ緊急搬送。一命は取り留めるも、健康上の不安からプレーを休止。チームのコーチとして活動した。そしてポルトとの契約が満了した20年8月、39歳で正式に引退を発表する。

17年間の代表歴で167試合(歴代2位)に出場、そのうち102試合でクリーンシートを達成した。

引退後の12月には、レアルと和解して古巣に5年半ぶりの復帰。ゼネラル・ディレクターのアシスタントとして、クラブ財団「レアル・マドリードファウンデーション」の重職を務めている。