映画黎明期を飾った伝説の女優、リリアン・ギッシュ。「映画の父」と称されるD・W・グリフィス監督に見いだされ、『国民の創世』『イントレランス』『散りゆく花』『東への道』などサイレント映画の大作・話題作に出演した。
友人でもあるメアリー・ピックフォードが明朗快活な無邪気さで人々を魅了したのに対し、リリアンは可憐な純情さで薄幸な女性を演じて世界の観客を涙させた。「アメリカの恋人」と親しまれたメアリーとは当時の人気を二分し、「アメリカ映画のファーストレディー」と呼ばれる。
トーキー時代の訪れとともに舞台に活躍の場を移すが、46年に出演した『白昼の決闘』でアカデミー助演女優賞にノミネート。60年には『許されざる者』でオードリー・ヘップバーンの母親役を演じた。その芸歴は75年に及び、93歳の時に『八月の鯨』(87年)に主演。高齢を感じさせない凜とした佇まいで、世間の話題を集めた。
舞台役者から映画女優へ
リリアン・ギッシュ(本名、リリアン・ダイアナ・ギッシュ)は1983年10月14日、オハイオ州スプリンフィールドに生まれた。母メアリーは女優で、リリアンが5歳のときに妹ドロシーが誕生する。
アルコール依存症の父はほとんど家に寄りつくことなく、生活に困窮した母と姉妹は親戚を頼ってイリノイ州イースト・セントルイスに引っ越し。母が劇場近くに駄菓子屋を構えると、リリアンはポップコーン、キャンディ売りを手伝って家計を支えた。
9歳の時にオハイオ州の劇場で舞台デビュー。このあと母や妹ドロシーとともに、巡業一座の俳優として活動する。やがて駄菓子屋近くの劇場が焼失したのを機に、一家3人はニューヨークへ移って舞台の新たな仕事を求めた。
ニューヨークの引っ越し先でリリアンが親しくなったのは、隣に住む1歳上のグラディス・スミス。のちにメアリー・ピックフォードの芸名で知られる、舞台子役の女の子である。
リリアンとドロシーの姉妹はニューヨークの劇場で下積み時代を送り、診療所受付やモデルなどの仕事で生活費を稼いだ。リリアンが19歳となった1912年、映画界入りしたメアリー・ピックフォードを尋ねて一家がバイオグラフ社を訪れると、彼女からD・W・グリフィス監督を紹介される。
グリフィス監督はすぐに可憐なリリアンとドロシーを気に入り、短編映画『見えざる敵』の姉妹役に起用。当初グリフィス監督はよく似た姉妹の見分けがつかず、リリアンには青いリボン、ドロシーには赤いリボンをつけて区別したという。
銀幕スターへの道
やがてメアリーがグリフィスのもとを去ると、監督はギッシュ姉妹を重用。活発な性格の妹より、思慮深い姉の方がグリフィスの好みに合っていたため、リリアンは南北戦争を背景にした長編大作『国民の創世』(15年)のメインキャストに抜擢される。
グリフィス監督はクローズアップ、カットバック、フェイドアウトなど、現在の映画文法のベースとなる革新的技法を駆使し、スクリーンにエモーションを生んで『国民の創世』は記録的大ヒット。KKK(クー・クラックス・クラン)団に間一髪救われるヒロインを演じたリリアンは、一躍スターの座に躍り出た。
翌16年、グリフィス監督は『国民の創世』で得た大金をつぎ込んだ意欲作『イントレランス』を発表。リリアンは、4つの物語のつなぎ場面に登場する「ゆりかごを揺らす女性」役で出演している。
今でこそ革命的作品として評価の高い『イントレランス』だが、構成が難解すぎて興行的には大失敗。グリフィス監督は多額の負債を抱えることになり、以降はメロドラマ路線に転向する。
グリフィス映画のヒロイン
19年、グリフィス監督の悲恋ドラマ『散りゆく花』に主演。リリアンは薄幸な苦しむ苦しむ可憐な少女を演じながら、芯の強さを秘めたキャラクターの深みを表現し、メロドラマを芸術作品へと昇華させる。そして映画はヒットを記録、リリアンも演技派としての評価を高めた。
20年には、『散りゆく花』でも共演したリチャード・バーセルメスとのコンビによる『東への道』に主演。クライマックスの流氷へ横たわるシーンでは、長時間に及ぶ氷点下の撮影に耐え、右手凍傷の後遺症は生涯消えることがなかったという。
『東への道』は『国民の創世』に次ぐ大ヒット作となり、リリアンはトップ女優としての地位を不動のものとする。また同じ年リリアンは、コメディ映画『亭主改造』を監督。主演を務めたのは、コメディ女優として人気を博していた妹ドロシーと、彼女の夫ジェームズ・レニー。リリアンとドロシーは仲の良い姉妹として知られていた。
『亭主改造』は、撮影監督を除く制作スタッフのほぼ全員が女性。唯一撮影監督のジョージ・W・ヒルはグリフィス組のカメラマンで、グリフィス監督は裏方としてリリアンをサポートしている。だが「集団をコントロールするのは大変。これは男の仕事」と記者にこぼし、二度と監督を引き受けることはなかった。
21年、グリフィスはフランス革命を題材にした歴史大作『嵐の孤児』に出演。リリアンは妹ドロシーと久々の共演を果たす。しかし『嵐の孤児』は大コケとなり、グリフィスの名声は地に堕ちてしまう。25年にはリリアンが新興MGM社に引き抜かれたため、グリフィスとの仕事は『嵐の孤児』が最後となった。
偉大な恩師とは苦渋の別れとなったものの、監督を敬愛し続けたリリアンは生涯彼を「ミスター・グリフィス」と呼んだ。世間には二人の恋仲を噂する声もあったが、リリアン自身はそれをキッパリ否定している。
MGM時代
MGMと契約したリリアンは、『ラ・ボエーム』(26年、キング・ヴィダー監督)『真紅の文字』(26年、ビクトル・シュストレム監督)など5作品に出演する。
MGMでもグリフィス監督からの教えで徹底的に役柄へこだわり、『ラ・ボーム』では、死に際の場面のリアリティを出すため3日間水分を摂らず、綿で口内の唾液を吸い取って、唇がめくれるまで乾かせたと伝えられる。
その時代の代表作となったのが、シュストレム監督の『風』(28年)である。映画全編に吹き荒れる強風は、物語に迫力とドラマツルギーを生み出し、サイレント時代後期を飾る傑作と謳われた。だが『風』は興行的に振るわず、MGM社にはグレタ・ガルボという新たなスターが台頭していたこともあり、リリアンは旬を過ぎた女優と見なされるようになっいく。
30年には自身初となるトーキー映画『白鳥』に出演。しかしハリウッドが己の居場所ではないと感じ始めていたリリアンは、『彼の二重生活』(33年)を最後に銀幕から遠ざかり、舞台へと活躍の場を移す。
スクリーン復帰後の活動
42年、『暁の勝利』で9年ぶりのスクリーン復帰。46年に出演した『白昼の決闘』(キング・ヴィダー監督)では、貫禄の演技力でアカデミー賞の助演女優賞にノミネートされる。
50年代以降はテレビ界でも活躍。戯曲をドラマ化した『バウンティフルの旅』(53年)では主役を務め、老婆役で新たな境地を開く。また『毒薬と老女』(69年)では、旧友のヘレン・ヘイズと共演を果たす。
60年にはカーク・ダグラス、オードリー・ヘップバーン主演『許されざる者』(ジョン・ヒューストン監督)に出演。困難に立ち向かいながら悲劇の最期を迎える西部の女性は、往年の役柄を彷彿とさせた。
また俳優業と平行して無声映画の保護活動にも当たり、忘れられつつあったサイレント映画の上映会や講演会を行なった。71年には映画界への顕著な功績を評価され、アカデミー特別賞を受賞する。
さらに76年には、故郷オハイオ州のボウリンググリーン州立大学で ”ギッシュ・フィルム・シアター・アンド・ギャラリー” が開設。これはギッシュ姉妹を讃えて名前が付けられたフィルム・シアターで、リリアンは68年に亡くなった(70歳没)ドロシーとともに名誉学位を授かっている。
84年には『八月の鯨』(リンゼイ・アンダーソン監督)に93歳で主演。老姉妹役で共演した79歳のベティ・デイビスは14も年下だったが、劇中では彼女の妹役を演じている。『八月の鯨』がカンヌ国際映画祭で上演されると、伝説の大女優の元気な姿に、観客席からスタンディングオベーションが贈られた。
これが彼女の遺作となり、93年2月27日、心不全により99歳で死去。スター女優としては珍しくスキャンダルとはほとんど縁がなく、生涯独身を貫いた。それについてリリアンは、「私は女優という仕事に打ち込むため、多くのことを犠牲した」と語っている。