「バイエルンの小さな鉄人」
170㎝と小柄ながらスピード、テクニック、スタミナに優れ、正確なタックルで鮮やかにボールを奪った。秀でたインテリジェンスで攻守の要となり、機を見たオーバーラップで攻撃参加。高い精度のクロスでチャンスをつくった。ピッチの左右をこなせる万能型として世界屈指のサイドバックと呼ばれたのが、フィリプ・ラーム( Philipp Lahm )だ。
名門バイエルン・ミュンヘンの生え抜きとして長く活躍。卓越したリーダシップで2011年からはキャプテンの重責を担い、バイエルンの黄金期を支えた。また1シーズンをフルタイムで戦う鉄人ぶりでも知られ、そのタフさから「マジック・ドワーフ(魔法の小人)」と呼ばれた。
ドイツ代表でもチームの主軸として活躍。自国開催となった06年W杯では、初戦のコスタリカ戦で鮮やかなミドルシュートを叩き込み、一躍その名を世界に知らしめた。10年W杯では急遽キャプテンを務めながらドイツをベスト4に導き、14年W杯では不動のリーダーとしてチームを牽引。4度目となる優勝に貢献した。
キャリアの開始
フィリプ・ラームは1983年11月11日、旧西ドイツの首都ミュンヘンのゲルン地区で生まれた。電気通信技師の父親は、地域アマチュアリーグでプレーするサッカー愛好者。ラームは2歳上の姉と共に幼少期を過ごした。
6歳のときに地元クラブのFTガーンへ入団。その利発さと敏捷なプレーで注目を集め、11歳で名門バイエルン・ミュンヘンの下部組織からスカウト。バイエルン・ユースでは、守備的MFや右サイドハーフ、右サイドバックなどで起用される。
その攻守における能力の高さでチームの中心となり、01、02年と2度のドイツAジュニア選手権(17~19カテゴリー)制覇に貢献。2度目の優勝の際には、キャプテンとしてチームをまとめた。
そのあとバイエルンBチーム(4部リーグ所属)でのプレーを経て、19歳となった02年11月のチャンピオンズリーグ・グループステージ、RCランス戦でトップチームデビュー。しかしトップチームの厚い選手層に阻まれ、リーグ戦では出場機会を得ることができなかった。
そこでクラブは期待の若手に経験を積ませるため、03-04シーズンにVfBシュツットガルトへ2年間のレンタル移籍。心機一転を図るラームは、シーズン開幕のハンザ・ロストック戦でブンデスリーガデビューを飾る。
シュツットガルトのフェリックス・マガト監督は、ラームを左サイトバックの位置にコンバート。すると若きディフェンダーは新しいポジションに高い適応力を見せ、リーグ戦31試合、CL7試合出場とたちまちレギュラーの座を獲得。ブンデスリーガ4位の好成績に貢献した。
ドイツ代表の若きサイドバック
02年7月、アンダー世代の代表としてU-19欧州選手権に出場。決勝ではF・トーレス、イニエスタ擁するスペインに0-1で敗れるも、チームの主軸として準優勝に貢献する。
それらの活躍により、04年にはユーロ大会出場を控えたA代表へ20歳で初招集。2月18日のクロアチア戦でフル出場を果たし、代表デビュー戦を飾った。
4月28日の親善試合、ルーマニア戦で代表初ゴールを記録。このまま左SBのレギュラーに定着し、ユーロ04(ポルトガル開催)のメンバーにも選ばれる。
6月のユーロ大会では、初戦のオランダ戦から先発起用。このあとラトビア戦、チェコ戦と3試合でフル出場を果たすが、ドイツは3位に沈んでグループステージ敗退。期待外れに終わった代表チームの中で、ラームの好パフォーマンスは唯一の収穫と独メディアに取り上げられた。
04-05シーズン、指揮官がマティアス・ザマーに代わった中でも、開幕から14試合フル出場と好調な出足。しかし05年1月には右足の疲労骨折に苦しみ、長期の戦線離脱。4月のシャルケ戦で復帰を果たすも、その5週間後には右膝十字靱帯断裂の重傷。シュツットガルトの2年目はリーグ戦22試合1ゴールの成績に終わった。
これでシュツットガルトのレンタル期間も終了し、05-06シーズンはバイエルン・ミュンヘンに復帰。しばらくリハビリに時間を費やすが、05年11月下旬にトップチームへ合流。左右をこなせるサイドバックとして重用され、シーズン後半は全試合に出場。リーグ優勝とDFBポカール制覇の2冠に貢献し、ドイツ屈指のSBとしての評価を確立する。
06年6月、地元開催となるWカップ・ドイツ大会が開幕。22歳のラームは、骨折した左腕に特性ガードを装着して出場。開幕ゲームとなったコスタリカ戦で先発のピッチに立った。ミュンヘンのアリアンツ・アレーナに6万6千の大観衆を集めた試合は開始6分、左サイドから切り込んだラームが右ゴールネットを揺らす先制弾。
すると開催国ドイツの緊張がほぐれ、17分と61分にはエースのクローゼが追加点。守備の連携ミスで2点を返されるも、終盤にフリンクスの得点が生まれて4-2の勝利。これで勢いづいたドイツは、ポーランドに1-0、エクアドルに3-0と連勝。3戦全勝で決勝トーナメントに勝ち上がる。
トーナメント1回戦はスウェーデンに2-0と完勝。準々決勝では強敵アルゼンチンをPK戦で退け、ベスト4に進む。準決勝は延長の末、イタリアに0-2と敗れてしまったが、3位決定戦ではポルトガルに3-1の快勝。開催国の面目を保った。
ラームはチームで唯一、全7試合にフル出場して大会ベスト3に貢献。オールスター選定の優秀ディフェンダー賞にも輝く。
バイエルンの鉄人
06-07シーズン、ラームはリーグ戦の全34試合と、CL10試合のうち9試合に出場。そのほとんどがフルタイムでのプレーで、ハードなスケジュールながら鉄人ぶりを見せつけた。
07-08シーズンは故障に悩まされながらも、左右のSBを務めてリーグ優勝とDFBポカール優勝の2冠達成に貢献。契約満了となったシーズン後には、バルセロナやマンチェスター・ユナイテッドといったビッグクラブからの誘いに心動かされるが、ウリ・ヘーネス会長に説得されバイエルンへの残留を決意。クラブと新たな契約を結ぶ。
08-09シーズン、リーグ戦で3得点、DFBポカールで1得点を挙げて自己年間最多ゴールを記録。しかしチームはタイトル無冠に終わり、ドイツ代表をベスト3に導いたクリンスマン監督は1年で解任。翌09-10シーズンはルイ・ファンファールが新監督に就任する。
ファンハール監督のもとでは主に右SBを務め、新加入のロッベンと右サイドで見事な連携を見せて1得点12アシストの活躍。2季ぶりとなるタイトル2冠に大きな役割を果たす。
代表ではヨアヒム・レーブが新たな指揮官となり、08年6月にはオーストリア/スイス共催のユーロ大会に出場。1次リーグではクロアチアに敗れるなど苦戦するが、準々決勝で強豪ポルトガルを3-2と撃破。準決勝はトルコと戦った。
1-1で折り返した後半79分、ラームのクロスからクローゼが勝ち越し弾。これでドイツの勝利が近づいたかに思えたが、終盤の86分に失点。だが延長が見えてきた90分、右サイドを駆け上がったラームがリターンパスからPエリアに侵入。GKの動きを見極め、冷静にゴールへ流し込んで決勝点。ドイツを3大会ぶりの決勝に導く。
決勝の相手はスペイン。試合は前半33分、シャビのスルーパスからF・トーレスの突破を許し、ラームとGKレーマンの連携ミスを突かれて失点。このあとラームは足を縫う大怪我を負い、後半開始の46分に交代。ここまで5試合にフル出場してきたラームにとって、無念の途中交代となった。
ドイツはスペインのパス回しに翻弄され、最後まで追いつくことができず0-1の敗戦。12年ぶりの優勝を逃してしまう。それでもラームは大会でのパフォーマンスを評価され、優秀ディフェンダ賞に選ばれる。
ドイツ代表のキャプテン
08年9月から始まったW杯欧州予選では、10戦全てにフル出場。無敗による首位突破に大きく貢献する。大会本番を直前に控えた10年5月には、代表キャプテンのバラックがFAカップ決勝で重傷を負い、W杯メンバーから離脱。急遽ラームが後任のキャプテンを務めることとなった。
10年6月、Wカップ・南アフリカ大会が開幕。G/L初戦はエジル、T・ミュラーら若手の活躍でオーストラリアを4-0と粉砕。だが続く第2戦は、クローゼが早い時間に退場を喰らって数的不利となったのが響き、セルビアに0-1と敗れてしまう。それでも最終節でガーナに1-0と勝利し、グループ1位での決勝トーナメント進出を決める。
トーナメント1回戦は、誤審により相手ゴールが認められないという幸運にも恵まれ、強敵イングランドに4-1の勝利。準々決勝ではマラドーナ監督率いるアルゼンチンに、4-0の完勝を収める。
準決勝の相手は、ユーロ08ファイナルでも戦ったスペイン。試合は得意のパス回しで機を窺うスペインに対し、ドイツは守備ブロックを固めてのカウンター戦術で対抗。拮抗したゲームは後半までスコアレスで進んだ。
終盤に入った73分、シャビの左CKをプジョルに頭で合わされ失点。残り時間の猛反撃も実らず、ドイツはまたもスペインの軍門に降ってしまった。ここまで右SBとしてフル出場を続けていたラームだが、感染症により3位決定戦のウルグアイ戦を欠場。試合は3-2と南米の古豪を退け、前大会に続くベスト3を確保する。
優れたリーダーシップでチームを牽引したラームは、FIFA選定のベストイレブンに選出。このあとバラックが代表に呼ばれなくなったため、ドイツキャプテンの地位を不動のものとした。
バイエルンの黄金期
10-11シーズン、移籍したファンボメルの後任としてバイエルンの新キャプテンに就任。11-12シーズンはホームのアリアンツ・アレーナで行なわれるCL決勝に進むが、チェルシーに敗れてビッグタイトルを逃してしまう。
12-13シーズン、3季ぶりとなる国内2冠を達成。CLも2年連続の決勝に進出する。決勝はボルシア・ドルトムントとの同国対決。試合はドルトムントの「ゲーゲンプレス」に主導権を握られるも、ロッベンとリベリーの個人技から60分にマンジュキッチが先制点。68分にPKを与えて追いつかれるが、終了間際の89分にロッベンが決勝弾。
バイエルンは12年ぶりとなる欧州クラブ王者に輝き、トレブル(3冠)の偉業を達成。ラームはキャプテンとして栄光のビッグイアーを掲げた。12年末にはモロッコで開催されたクラブW杯も制覇。ラームはロッベン、リベリーという個性の強い両翼を、対話を重んじるキャプテンシーでまとめ、クラブの黄金期を支えた。
13-14シーズンは勇退したユップ・ハインケスに代わり、ペップ・グアルディオラが新監督に就任。30歳のラームはアンカーのポジションに起用され、新境地を開いて攻守をコントロール。2年連続となる国内2冠達成に貢献し、グアルディオラ監督から「彼は私の指導歴の中で最も知的な選手だ。別次元にいる」と称賛された。
悲願のW杯優勝
12年6月には、ポーランド/ウクライナ共催のユーロ大会に出場。ドイツはポルトガル、オランダ、デンマークという難敵を相手に、G/Lで3戦全勝。準々決勝のギリシャ戦ではラームがミドルシュートで先制点を決め、4-2とチームを勝利に導く。
だが準決勝のイタリア戦ではバロテッリの2発に沈み、1-2と敗れて決勝進出はならず。それでも予選の10試合と本大会の5試合全てに出場し、チームの精神的支柱となったラームは、2大会連続の優秀ディフェンダー賞に輝く。
14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。主将のラームはクラブと同じアンカーを務めた。G/L初戦は、ミュラーのハットトリックで強敵ポルトガルに4-0と完勝。優勝候補のドイツは順調なスタートを切ったかに思えた。
第2戦の相手はガーナ。0-0で折り返した後半51分、ミュラーのクロスをマリオ・ゲッツェが頭で押し込んで先制。しかし54分に1点を返されると、63分にはラームのミスパスからボールを奪われ失点。痛恨の逆転を許してしまう。71分にクローゼがCKを沈めて2-2と引き分けるが、ラームにいつもの冴えはなかった。
最終節はアメリカに1-0と辛勝。ドイツはどうにかグループ1位を確保し、決勝トーナメントへ勝ち上がる。
トーナメント1回戦の相手は、ハリルホジッチ監督率いるアルジェリア。「ラマダン(断食月)」のハンディを抱えるアルジェリアに、ドイツは思わぬ苦戦。執拗なカウンター攻撃で何度もピンチを迎えるが、守護神ノイアーの好守で失点を防ぐ。
試合は延長戦にスコアが動いて2-1と勝利するも、アンカーとしてアルジェリアのカウンターを止められなかったラームのパフォーマンスには、疑問の声が上がる。
アルジェリア戦後、レーブ監督はラームに右SBへの配置換えを要請。ラームはバイエルンを優勝に導いたアンカーというプライドを押し殺し、最善の選択として監督の要請を承諾。準々決勝のフランス戦では、右SBとして先発する。
ケディラとシュバインシュタイガーのダブルボランチはドイツの守備を安定させ、右SBに戻ったラームも本来の存在感を発揮。フランスに1-0の勝利を収め、準決勝へと進む。
準決勝では開催国ブラジルを7-1と粉砕。地元優勝を狙うセレソンを「ミネイロンの惨劇」に沈め、ついに3大会ぶりとなる決勝へ進出する。
決勝の相手はメッシ擁するアルゼンチン。試合は両チームとも好機をモノに出来ないまま、0-0で延長戦に突入。その延長後半の113分、シュールレのクロスをゲッツェが胸トラップからシュート。待望の得点が生まれる。
残り時間を固い守備で凌ぎ、ドイツが1-0の勝利。14年ぶり4度目となるW杯優勝を、欧州チーム初の南米大会制覇で飾った。
キャプテンとして悲願の優勝杯を手にしたラームは、大会終了後に代表からの引退を発表。故障と付き合いながらも鉄人ぶりを見せつけてきたラームだが、体力的にも精神的にも疲労は限界にきていた。11年間の代表歴では113試合に出場、5ゴールの記録を残す。
引退後の活動
16-17シーズン終了後、リーグ5連覇達成を集大成に33歳で現役を引退。12年を過ごしたバイエルンでは9度のリーグ優勝、7度のDFBポカール優勝、チャンピオンリーグ制覇、クラブW杯制覇など、数々のタイトルに輝いた。
引退後はクラブの取締役会に参加。スポーツディレクター的な役割を請け負った。18年にはサッカー協会のアンバサダーとして、ロシアW杯へ出場するドイツ代表に同行。だが前回王者のドイツが屈辱的なG/L敗退を喫すると、辛口批評による提言で世間に議論を巻き起こした。
18年8月、ドイツがユーロ2024の招致に成功したのを受け、ラームは大会の組織委員長に就任。それと並行して、22年夏からは古巣シュツットガルトのスポーツコンサルタントとしても活動している。