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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》クラウディオ・ロペス(アルゼンチン)

 

「風を切り裂くアタッカー」

風を切り裂く速さでピッチを駆け上がり、精度の高いクロスと豪快な左足シュートで勝利を呼び込んだ。ストライカー、セカンドトップ、ウィングと幅広くこなせる攻撃スタイルを持ち、ポジショニングの上手さと抜け目ない動きでゴールを奪った。その活躍で欧州リーグに名を刻んだ快速アタッカーが、クラウディオ・ロペス( Claudio Javier López )だ。

 

母国でのプレーを経て、96年にスペインのバレンシアFCと契約。98-99シーズンには公式戦33ゴールの活躍でコパ・デル・レイ優勝に貢献する。99-00シーズンはチャンピオンズリーグで躍進、6ゴールを挙げてチームを初の決勝に導いた。2000年夏にはイタリアのラツィオへ移籍。コッパ・イタリア優勝のタイトルを得る。

 

アルゼンチン代表でも活躍。96年にはアトランタ五輪代表に選ばれ、クレスポオルテガサネッティらとともにチームの中心選手となって銀メダル獲得に貢献。98年にはフランスW杯に出場、全5試合に出場してベスト8進出に寄与している。02年日韓W杯のメンバーにも選ばれるが、優勝候補と見なされていたアルゼンチンはあえなくG/L敗退となった。

 

エル・ピオポの歩み

クラウディオ・ロペスは1974年7月17日、アルゼンチン中部のコルドバ州リオ・テルセロに生まれた。赤ん坊の頃は「エル・ピオポ」(しらみ=アルゼンチンでは ”小さく可愛い幼児” のこと)と呼ばれ、これが愛称として定着する。

父ディドは熱狂的なサッカーファン。少年時代のロペスはバスケットボールに熱中した時期もあったが、やがてサッカーに専念。12歳のときに父親の創設したジュニアクラブ、デポルティボインデペンディエンテで本格的な競技を始める。

89年には全国ジュニアトーナメントのチャンピオンに輝き、その活躍が認められて首都ブエノスアイレスの名門エストゥディアンティスからスカウト。だがエストゥディアンティスのユースでは実力を充分に発揮出来ず、わずか2年で戦力外通告を受けてしまう。

そのあと同じブエノスアイレスのCAプラセンテに拾われ、ここで心機一転を図ろうとしていた矢先の92年、強豪ラシン・クラブから思わぬオファー。ロペスの潜在能力に目を付けていたクラブと契約を交わし、プロキャリアの第一歩を刻む。

18歳となった92年9月、ディポルティーボ・エスパニョールとの試合でトップリーグデビュー。ルーキー1年目は19試合1ゴールの成績を残し、スーパーカップにも出場して準優勝に寄与する。

その後も順調に実績を積み、プロ4年目の95-96シーズンは公式戦37試合19ゴールの活躍。次々に素晴らしいゴールを決める快速アタッカーの評判は海外に届き、欧州有名クラブからオファーが舞い込む。

 

アトランタ五輪銀メダル

95年5月、南アフリカとの親善試合で途中出場によるA代表デビュー。半月後に行なわれたペルーとの親善試合に先発出場し、1-0の勝利に貢献。翌96年1月のパラグアイ戦で初ゴールを記録する。

同年2月、U-23代表メンバーとして五輪南米予選に招集。オルテガクレスポアジャラサネッティと次代を担う若手が揃ったチームで、ロペスは左サイドのアタッカーを担い、6試合4ゴールの活躍。無敗による予選突破に大きな役割を果たした。

96年7月、アトランタ五輪が開幕。初戦で地元アメリカを3-1と破り1次リーグを首位通過すると、準々決勝はロペスのゴールなどでスペインを4-0と粉砕。準決勝はクレスポの2ゴールでポルトガルを2-0と打ち破り、68年ぶりとなる決勝へ進む。

決勝の相手は、「スーパーイーグルス」の愛称で知られるナイジェリア。開始3分、オルテガの縦パスからクレスポが抜け出し、その折り返しをロペスが決めて先制。だが28分にババロヤのヘディングゴールを許し、1-1で前半を折り返す。

後半50分、クレスポのバスに抜け出したオルテガが倒されPKを獲得。これをクレスポが確実に決め、再びリードを奪う。しかし74分にアモカチのループシュートで追いつかれると、ロスタイム直前の90分にはアムニケにゴールを決められ、2-3の逆転負け。アルゼンチンはあと一歩で初の金メダルを逃してしまい、同国2度目の銀メダルに終わる。

 

スペインへの移籍

アトランタ五輪終了後、スペインの古豪バレンシアCFに移籍。だが無名選手だったロペスへの期待は低く、96-97シーズン開幕当初はベンチ要員の扱い。問題児のロマーリオが秋にフラメンゴへレンタルされるとようやく出場の機会を得て、10月のアトレティコ・マドリード戦でリーガ初ゴールを記録する。

しかしリーグ下位にあえぐチームの中で充分に力を出せず、ロペスの欧州移籍1年目はリーグ戦32試合3ゴールの成績に終わった。

翌97-98シーズン、低迷するチーム立て直しのため、イタリア人のクラウディオ・ラニエリバレンシアの新監督に就任。すると、素早くボールを奪ってカウンターアタックを仕掛けるラニエリ監督の戦術と、スピードに乗った突破を持ち味とするロペスのプレースタイルがうまくマッチ。32試合12ゴールの好成績を残した。

 

W杯フランス大会

96年4月から始まったW杯南米予選では、16試合中12試合に出場。アウェーのコロンビア戦、チリ戦でそれぞれ貴重な決勝点を挙げるなど、予選首位突破に貢献する。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。クレスポを差し置いて先発に起用されたロペスは、2トップの一角として大舞台のピッチに立った。

初戦はバティストゥータのゴールで日本を1-0と退けると、第2戦はオルテガの2得点とバティのハットトリックでジャマイカに5-0と圧勝。ロペスのスピードは初出場の2ヶ国を苦しめ、ジャマイカ戦ではオルテガのゴールをアシストした。第3戦は主力の半分を温存しながら、クロアチアに1-0と勝利。3戦全勝でベスト16に進む。

トーナメント1回戦は、イングランドと激闘を繰り広げてPK戦の末に勝利。準々決勝でオランダと対戦する。前半12分、ロナルド・デブールからのクロスをベルカンプが頭で落とし、それをクライファートに決められオランダに先制される。

だがその5分後、ベロンのスルーパスからロペスが中央突破。ゴール前に立ち塞がるファンデルサール股間を抜き、同点弾を流し込む。そのまま1-1で進んだ後半の72分、オランダDFのヌマンが2枚目の警告で退場。数的優位となったアルゼンチンに流れが傾いたかに思えた。

しかし終盤を迎えた87分、Pエリアでのシミュレーションを疑われたオルテガが、怒りにまかせてファンデルサールへ頭突きをお見舞い。レッドカードで退場となり、優位な状況を無にしてしまう。

そして前半終了間際の89分、フランク・デブールからのロングパスを受けたベルカンプが、超美技による決勝点。アルゼンチンは勝利を逃し、惜しくもベスト8で大会を去ることになった。

 

バレンシアでの活躍

98-99シーズン、ロペスは32試合21ゴールとキャリアハイの成績を残し、クラブ初となるチャンピオンズリーグ(予選)出場権が得られるリーグ4位に貢献する。さらにインタートトカップでチャンピオンに輝くと、コパ・デル・レイ(国王杯)では8ゴールの大活躍。

バレンシアは準決勝で前年王者のバルセロナを2戦合計7-5と撃破、準決勝の第1レグでは強豪レアル・マドリードを6-0と粉砕。決勝のアトレティコ・マドリード戦では、ロペスが観客の度肝を抜く2発のゴールを叩き込み、3-0の快勝。クラブ20年ぶり6度目となる優勝の立役者となった。

翌99-00シーズン、ラニエリ監督がアトレティコ・マドリードに引き抜かれると、アルゼンチン人のエクトル・クーペルがチームの新指揮官に就任。ロペスは34試合11ゴールの安定した成績で、リーグ3位の好順位に貢献する。

初出場となったCLでは、1次予選とファーストステージでロペスが4得点の活躍。バイエルン・ミュンヘンPSVといった強豪を抑えて、グループ首位でノックアウトステージへ進出する。

準々決勝でラツィオを2戦合計5-3と打ち破ると、準決勝のバルセロナ戦でも下馬評を覆して2戦合計5-3の勝利。ロペスも4戦で2ゴールを挙げ、伏兵のバレンシアが決勝進出の快挙を成す。

決勝の相手はレアル・マドリード、大会初のスペイン同国対決となった。だがスター軍団の底力にロペスらの攻撃陣が沈黙、0-3の完敗を喫してしまう。バレンシアはCL初出場・初優勝を逃すも、ここまでの快進撃を支えたのはロペスの突破力だった。

 

ラツィオへの移籍

バレンシアでの活躍が認められ、2000年夏にはイタリアのラツィオへ移籍。ラツィオにはクレスポシメオネ、ベロン、センシーニなど、多くのアルゼンチン選手が在籍するチーム。世界から集めたスター選手を抱え、前シーズンはセリエA優勝とコッパ・イタリア制覇の2冠を達成していた。

ロペスはシーズン開幕前のイタリア・スーパーカップ決勝、インテル・ミラノ戦で初先発。前半33分に同点弾を決めると、その5分後には逆転ゴール。ロペスの活躍で強豪インテルを4-3と撃破し、さっそく移籍後初のタイトルを得る。

10月に出場したCLファースト・ステージのシャフタール・ドネツクウクライナ)戦では、ハットトリックの大活躍。クレスポとの2トップでゴール量産が期待されたが、11月のブレシア・カルチョ戦で左膝靱帯損傷の大怪我。長期離脱を余儀なくされ、イタリア移籍1年目は公式戦22試合5ゴールに終わった。

01年3月のCLセカンドステージで戦線復帰。ホームのアンデルレヒト(ベルギー)ではCKを直接ゴールへ放り込み、観客を沸かせた。01-02シーズンの開幕ゲーム(ピアチェンツァ・カルチョ戦)でも得点を挙げて復活の狼煙を上げ、公式戦38試合12ゴールの成績を残す。

02-03シーズン、クレスポインテルに移籍。ロペスは新しい相棒であるコッラディーと強固な関係を築き、公式戦47試合17ゴールと移籍後最高の成績。CL出場権の得られるリーグ4位確保に貢献した。

 

優勝候補の思わぬ敗退

02年5月31日、Wカップ・日韓大会が開幕。アルゼンチンは質、量ともに充実したタレントを揃え、南米予選では圧倒的な強さで勝ち抜き。前回王者フランスに並ぶ優勝候補と見られていた。

G/L初戦は難敵ナイジェリアに1-0の勝利。故障明けのロペスはベンチで出番を待つも、ピッチに立つ機会はなかった。続く第2戦は、前大会の因縁が残るイングランドとの対戦。ベッカムのPKで先制を許した後半の64分、先発のキリ・ゴンザレスに代わり今大会初出場を果たす。

攻撃の駒を次々に投入してゴールへ襲いかかるアルゼンチンだが、自陣を固めるイングランドの堅守に跳ね返され無得点。0-1の敗戦を喫した。

グループ突破の懸かった最終節は、北欧の雄スウェーデンとの対戦。イングランド戦で好パフォーマンスを披露したロペスは、先発に起用された。試合は序盤からアルゼンチンが圧倒的に支配。ロペスも左サイドからのシュートで再三相手ゴールを脅かす。

しかしスウェーデンの身体を張った守りと高さに阻まれ、前半は0-0で終了。後半59分にはA・スベンソンにFKを叩き込まれ、リードされてしまう。逆転を狙って攻勢を強めるアルゼンチンだが、スウェーデンオフサイドトラップにかかって攻撃は空転する。

終盤の83分にPKで1点を返すが、このあとの猛攻空しくゲームは1-1の引き分け。アルゼンチンはイングランドスウェーデンに勝点1及ばず、グループ3位で思わぬ敗退となってしまった。

 

その後のキャリア

03-04シーズンは故障に苦しみ、公式戦36試合4ゴールの成績。コッパ・イタリアのタイトルを獲得するも、財政状況が悪化したラツィオは、多くの主力選手を放出。ロペスはバレンシアへの復帰を望んだが、交渉はまとまらず、メキシコのクラブ・アメリカに移籍することになった。

クラブ・アメリカの1年目は、13ゴールを挙げて04-05シーズン・前期シリーズ制覇に貢献。06年のCONCACAFコンカカフチャンピオンズカップでは、決勝のテコスFC戦で2得点を挙げて優勝の立役者となる。

メキシコでは3シーズンを過ごし、07年3月に古巣のラシン・クラブに復帰する。しかし報酬の支払いを巡ってクラブと対立。08年3月にはMLSカンザスシティー・ウィザーズと契約を交わす。

10年4月には同じMLSコロラド・ラピッズに移籍。シーズン終了後にはフリーエージェント権を行使してMLSのリ・エントリー・ドラフトに参加するが、彼を指名するクラブはなく、11年9月に37歳で現役を引退した。通算9年の代表歴では55試合に出場、10ゴールを記録している。

引退後に故郷のアルゼンチンへ戻ったロペスは、自らマシーンを購入して地元のラリーレースに挑戦。11~14年までラリードライバーとして活動し、2勝を挙げたという。その後はMLSのチームマネージメントを行なうなど、サッカーに関わり続けている。