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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ソル・キャンベル(イングランド)

 

「空陸無双のディフェンダー

屈強な肉体と高い身体能力を誇り、果敢なタックルで攻防戦を制したセンターバック。ポジショニングセンスに優れ、いかつい身体に似合わず動きも敏捷。高さとパワーを活かしたヘディングは攻守に威力を発揮した。空陸無双のディフェンダーとしてその名を馳せたのが、ソル・キャンベル( Sulzeer Jeremiah Campbell )だ。

 

トッテナム生え抜きのDFとして長らく活躍するも、2001年に同じノースロンドンのアーセナルへ移籍。ライバルクラブへのフリー移籍は物議を醸し、スパーズのファンから「ユダ」の批難を浴びた。それでも移籍したガナーズではDFの要としてチームを支え、03-04シーズンの無敗優勝に貢献する。

 

イングランド代表としては98年フランスW杯に出場。アルゼンチンとの試合ではベッカムの一発退場で劣勢に追い込まれるも、キャンベルら守備陣の奮闘で延長戦終了まで持ちこたえた。02年日韓W杯ではアルゼンチンと再び対戦。ベッカムのPKによる1点を身体を張って守り切り、4年前のリベンジを果たした。

 

ジャマイカ系の才能

ソル・キャンベルは1974年9月18日、東ロンドンのプレイストウ地区で、ジャマイカ人の家庭に生まれた。父シュウェルは鉄道労働者、母ヴィルヘルミーネはフォード自動車の工場従業員。12人きょうだい(男9 女3)の末っ子だったソルは、大家族の窮屈な暮らしと父の厳しい締めつけのもと、孤独で物静かな少年として成長する。

そんな彼の唯一の息抜きは、サッカーに熱中すること。常に貧乏生活で周囲の環境も荒れていたが、ソルが非行に走らなかったのは、ボールに全てをぶつけられたおかげだった。

地元スクールの中等教育時代に小さなチームで頭角を現すと、プロクラブのウェストハムに誘われてユースアカデミーに入団。その素質が見いだされ、14歳のときにはFAサッカースクールの短期合宿メンバー16人のひとりにも選ばれた。

しかしウェストハムユースでは差別的な扱いを受け、それに反発してチームを退団。このことでプロへの道を諦めかけたソルだが、彼を評価するスカウトに説得され、89年にロンドンの名門トッテナム・ホットスパーへ入団する。

トッテナムユースでは身体能力の高いFWとしてプレー。その活躍が認められ、18歳となった92年12月、ホームのチェルシー戦でトップチームデビュー。試合は1-2と敗れたが、ソルは初ゴールを記録してプロデビュー戦を飾った。

92-93シーズンはこの1試合に留まるも、翌93-94シーズンの開幕戦、負傷したレギュラー選手に代わって左SBとして起用される。すると持ち前の守備センスを発揮し、ポジションへの適性を見せると、ディフェンダーへと転向。たちまちレギュラーの座を確保し、リーグ戦34試合に出場する。

以降、キャンベルはチーム不動のCBとしての地位を確立。96-97シーズンには22歳の若さでキャプテンに就任し、万年リーグ中位に甘んじるスパーズで存在感を見せた。

 

10人の勇者

96年5月のハンガリー戦でフル代表デビュー。翌6月には地元で開催されたユーロ96のメンバーに選ばれ、グループステージのスコットランド戦で2つめのキャップを刻む。

ユーロ後に始まったW杯欧州予選では、代表のレギュラーに定着。アーセナルが誇るDFライン、「フェイマス・フォー」のトニー・アダムスとCBコンビを組み、2大会ぶりとなるW杯出場決定に貢献。予選8試合で喫した失点はわずか2つだった。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。初戦はチェにジアに2-0と快勝するが、第2戦はゲオルゲ・ハジ擁するルーマニアに1-2の敗戦。第3戦で南米の個性派軍団コロンビアを2-0と下し、グループ2位で決勝トーナメントへ進む。

トーナメント1回戦は強敵アルゼンチンと対戦。開始6分、GKシーマンシメオネを倒してPKを献上。これをバティストゥータに決められ先制を許す。だがその4分後、今度はオーウェンがDFアヤラに倒されPKを獲得。エースのシアラーが沈めて同点とする。

さらに16分、オーウェンが驚異のスピードで抜け出し、スーパーゴールでの逆転弾。これで勢いに乗ったかに思えたイングランドだが、前半ロスタイムにベロンのFKから失点。慌ただしい展開でハーフタイムを迎えた。

後半開始直後の47分、シメオネの背後からのタックルに倒されたベッカムが、うつ伏せのまま足で引っ掛け報復行為。レッドカードが提示された。

一人少なくなったイングランドは防戦一方となるが、アダムスとキャンベルのCBコンビを中心に選手全員が奮闘。延長120分を踏ん張ってPK戦に持ち込む。しかしPK戦ではついに力尽き、無念のベスト16敗退となる。

敗戦の戦犯とされたベッカムは「一人の愚者」と批判を受けるが、120分間を戦い抜いたキャンベルらは「10人の勇者」と呼ばれた。

 

禁断の移籍

98-99シーズン、スパーズは16年ぶりとなるリーグカップの決勝に進出。決勝ではマンチェスター・シティーを1-0と破り、26年ぶり3回目の大会制覇。キャンベルはキャプテンとして優勝杯を掲げ、プレミアリーグでも自身初となるベストイレブンに輝く。

翌99-00シーズン、ダービー・カウンティ戦で勃発した大乱闘に参加。このとき相手選手を骨折させたと疑われたキャンベルは、一部責任を認めて事件を収めるも、クラブからのサポートが無かったことに不信感を強める。またこの時期には、監督との不仲も続いていた。

00-01シーズン、ブレントフォードとのリーグカップ戦で肩を脱臼。3ヶ月の長期離脱を余儀なくされ、レギュラーに定着した7年間で最低の成績に終わる。

契約が満了となった01年の夏、キャンベルはユース時代を含めて11年を過ごしたクラブからの退団を表明。スパーズはクラブ史上最高となる契約条件を提示して引き止めにかかるが、アーセナルとの交渉を進めていたキャンベルはそれを拒否。強豪チームでタイトル争いに加わりたいというのが、移籍の理由だった。

契約満了のため移籍金は発生せず、主力をタダで手放すトッテナムにとっては大きな損失。生え抜き主将のライバルクラブへの乗り換えは、ノースロンドンに大きな波紋を呼んだ。キャンベルはスパーズサポーターから裏切り者の「ユダ」と批判され、ロンドンダービーのたびにブーイングを浴びるなど、後々まで禍根を残すことになる。

それでも移籍1年目の01-02シーズン、衰えの見えたトニー・アダムスに代わってガナーズのDFを統率。公式戦48試合に出場し、プレミア制覇とFAカップ優勝の2冠達成に大きく貢献する。その活躍でベンゲル監督から「チームの背骨となる選手」と称賛された。

 

イングランドの堅守を支えた男

ユーロ2000では3試合にフル出場するも、イングランドはグループ3位で予選リーグ敗退。ユーロ終了後にトニー・アダムスが代表を退くと、キャンベルはリオ・ファーディナンドと新たなCBコンビを組み、W杯欧州予選突破に貢献する。

02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。北欧の雄スウェーデンと初戦を行なう。試合は前半24分、ベッカムの左CKからキャンベルがヘッドで合わせて先制点。このあとイングランドスウェーデンの高さを抑えてゲームを優位に進める。だが後半の59分、DFミルズのクリアミスから失点を喫し、1-1と引き分けてしまった。

第2戦の相手は、4年前の因縁が残るアルゼンチン。イングランドは序盤からペースを握られるも、前半終了直前の43分、オーウェンがPエリアで倒されPKを獲得。これをリベンジに燃えるベッカムがゴール右に沈め、1-0のリードでハーフタイムを折り返す。

反撃に掛かるアルゼンチンは、後半に入るとアイマールクレスポ、C・ロペスと攻撃の駒を次々と投入。攻勢を強めて相手ゴールに襲いかかる。対するイングランドは、DF4枚、MF5枚を並べて自陣に分厚いブロックを敷き、専守防衛に徹した。

キャンベルは得意のヘディングでアルゼンチンのクロスを跳ね返し、虎の子の1点を死守。南米の優勝候補を封じて前大会の雪辱を果たした。

第3戦は無理をせずにナイジェリアと0-0で引き分け、グループ2位で決勝トーナメント進出を決める。そしてトーナメント1回戦ではデンマークを3-0と圧倒し、ベスト8へと勝ち上がった。

準々決勝は強豪ブラジルとの戦い。開始23分、オーウェンが巧みな動きで相手DFを欺き、技ありの先制ゴール。しかし前半のロスタイム、ロナウジーニョの高速ドリブルから中央突破を許し、そこからのパスをリバウドに決められ同点。さしものキャンベルもロナウジーニョのスゴ技に対応できなかった。

後半立ち上がりの50分、右30mの距離からロナウジーニョのFKにネットを揺らされ逆転。その7分後にはロナウジーニョが一発退場となるが、イングランドは数的優位を活かせず1-2の敗戦。ベスト8敗退となった。

それでもDFの要として5試合3失点とチームの堅守を支えたキャンベルは、イングランドで唯一となる大会ベストプレーヤーズ(17名)に選出されている。

 

無敗優勝に貢献

02-03シーズン、プレミア2強時代を築いたマンチェスター・ユナイテッドにリーグタイトルを奪われるも、キャンベルは秀でたパフォーマンスで2度目のベストイレブンに選出される。

翌03-04シーズン、コロ・トゥーレアシュリー・コール、守護神レーマンとともに堅陣を築き、26勝0敗12分けの無敗優勝に貢献。この快挙によりガナーズは「インビンシブルス(無敵のチーム)」の称号で呼ばれ、キャンベルは2年連続3度目のベストイレブンに輝く。

04-05シーズンは膝の怪我により、リーグ戦16試合に出場したのみ。プレミア優勝は新興勢力のチェルシーにさらわれてしまう。05-06シーズンも怪我の後遺症とスランプに悩み、ベンチを温める日が続く。キャンベルも30歳を越え、すでに選手としてのピークは過ぎ去っていた。

アーセナルはリーグ3位に終わるも、チャンピオンズリーグでは初となる決勝へ進出。キャンベルはバルセロナとの決勝の舞台となったパリのスタジアムで、スターティングメンバーに名を連ねた。

試合は開始18分、GKレーマンがPエリア外でエトーを倒して一発レッド。いきなり不利な状況へと追い込まれる。しかしその37分、アンリのセットプレーからキャンベルが頭で叩き込んで先制。アーセナルは押し込まれながらも、1点をリードして前半を折り返す。

その後もキャンベルを始めとする守備陣がバルセロナの猛攻を凌ぐが、後半76分にエトーのゴールを許して同点。その5分後にはベレッチに逆転ゴールを決められ、1-2の敗戦。アーセナルの欧州タイトル獲得はならなかった。

キャンベルはこのCL決勝を最後に、栄光のキャリアを刻んだアーセナルとの契約を終了。06年8月にはポーツマスFCに移籍した。

 

引退後の道

イングランド代表では04年6月のユーロ大会に出場。準々決勝で開催国ポルトガルに敗れるが、02年W杯に続いての大会ベストプレーヤーズ(23名)に選ばれる。

しかしユーロ大会後はチェルシーの新鋭ジョン・テリーにポジションを奪われ、DFのサブ要員へと降格。06年ドイツW杯のメンバーに選ばれるも、キャンベルの出番はG/Lスウェーデン戦の1試合にとどまった。

そして07年を最後にスリーライオンズへ呼ばれることも無くなり、13年間に及んだ代表キャリアを終了。73試合に出場、1ゴールの記録を残した。

3シーズンを過ごしたポーツマスでは、07-08シーズンのFAカップ優勝に貢献。このあとEFLリーグ2(4部リーグ)ノッツ・カウンティでの短期在籍を経て、2010年1月に古巣のアーセナルへ復帰。CL決勝ステージのポルト戦では、4年前のバルセロナ戦以来となるゴールを挙げている。

10年7月にはニューカッスルへ移籍。ここで1シーズンをプレーするが、出場機会に恵まれず12年5月に37歳で現役を退く。

引退後の15年にはロンドン市長選への立候補を表明するも、所属する保守党の最終選考に残れず断念。18年にはマクルドフィールズ・タウン(EFLリーグ2)の監督に就任する。19年からはサウスエンド・ユナイテッド(EFLリーグ1)の監督を務めるが、コロナ禍に見舞われた20年6月に退任。現在は次のステージに向けて英気を養っている最中である。