「レアルの王様」
あらゆる能力をハイレベルで備え、フィールドを支配した史上最高のフットボーラー。破壊的な得点力、中盤でのゲームメイク、守備能力の高さなど、オールラウンダーとしてのプレーで「1人トータルフットボール」を演じたと言われたのが、アルフレッド・ディ・ステファノ(Alfredo Stefano Di Stéfano Lauthe)だ。
1940年代に南米を席巻したリーベル・プレート、「ラ・マキナ」の若きエースとして活躍。その後コロンビアのミジョナリオスを経て、スペインのレアル・マドリードへ移籍。「レアルの王様」としてリーグ優勝8回、チャピオンズカップ5連覇などの50~60年代黄金期を築き、2度のバロンドールにも輝く。
アルゼンチン代表として、1947年の南米選手権に出場。6試合6得点の活躍でチームを大会3連覇に導いた。そのあとコロンビア代表やスペイン代表でもプレーしたが、ついにワールドカップの大舞台に立つことはなかった。
アルフレッド・ディ・ステファノは1926年7月4日、ブエノスアイレス郊外にある労働者地区のバラカスで生まれた。同じ名前の父親はイタリア系移民の2世で、リーベル・プレートの元ディフェンダー。膝の故障のため、若くして引退したという経歴を持っていた。
アルフレッドは3人兄弟の長男。父親の自作農を手伝いながらストリートサッカーに熱中し、12歳のときに地元チームのラス・カルダレスに入団。すぐに才能の輝きで頭角を現し、チームのジュニア選手権優勝に貢献。15歳になると父親が古巣リーベルへ連絡を取り、息子に入団テストを受けさせる。
アルフレッドは父親の期待に応えてテストを見事合格。名門リーベル・プレートの一員となる。そして下部チームでの育成期間を経て、18歳となった44年にトップチームへの昇格を果す。
だが当時は「ラ・マキナ(ザ・マシーン)」と呼ばれ、南米を席巻したリーベルの全盛時代。モレノ、ラブラナ、ペデルネラ、ムニョス、ロウストウら強力攻撃陣の中に、経験の浅いディ・ステファノが入り込む余地はなく、1試合のみの出場で46年にはCAウラカンへレンタルされる。
ウラカンの監督を務めていたのは、第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会得点王のギジェルモ・スタービレ。スタービレ監督が若いディ・ステファノに出場機会を与えると、デビュー戦でいきなり2ゴールの活躍。また元チームであるリーベルとの試合では、開始わずか15秒でゴールを記録。強烈な印象とともに25試合10ゴールの好成績を残し、1年でリーベルへ呼び戻される。
復帰の47年シーズン、CAアトランタへ移籍したCFペデルネラの後釜として、レギュラーの座を獲得。抜群のテクニックに加え、スピードとスタミナを備えたディ・ステファノの動きは神出鬼没。29試合27ゴールの大活躍でリーグ得点王に輝き、チームを2年ぶりのプリメーラ・ディビシオン(アルゼンチン1部リーグ)優勝に導く。
翌48年は兵役のため一時チームを離れたものの、23試合13ゴールの活躍。ピッチを縦横無尽に駆け回る金髪頭の若きプイレーヤーは、「ラ・サエタ・ルビア(ブロンドの矢)」の愛称で呼ばれるようになる。
またこの年には南米チャンピオンクラブを決める第1回カンペナート・スダメリカーノ(コパ・リベルタドーレスの前身)が開催され、ここでもディ・ステファノは4試合6ゴールの活躍。ヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)に続く大会2位に貢献した。
アルゼンチン代表でのキャリア
リーベルでの活躍により、47年にエクアドルで開催された南米選手権のメンバーに21歳で選出。ディ・ステファノを呼んだのは、ウラカンとの兼任で代表を率いるスタービレ監督だった。
大会形式は出場8チームによる総当たり戦。アルゼンチンの第2戦となる12月4日のボリビア戦で代表デビューを果し、いきなり初ゴールを決めて7-0の勝利に貢献する。続くペルー戦とチリ戦でも得点を挙げると、第5戦目となるコロンビア戦ではハットトリックを記録。
最終のウルグアイ戦で出場はなかったものの、アルゼンチンはライバルを3-1と下して優勝を決定させる。ディ・ステファノは新人ながら6試合6ゴールの活躍で大会3連覇に貢献し、南米最優秀選手賞にも選出。その名を南米全土に馳せた。
このあと12年ぶりに行なわれる50年W杯・ブラジル大会に向けての南米予選が始まるが、開催国との関係悪化、国内経済の混乱、選手の他国への引き抜きなどの理由により、アルゼンチンはこれを棄権。ディ・ステファノのアルゼンチン代表での実績は、47年の南米選手権が唯一のものとなった。
ミジョナリオス時代
アルゼンチンで輝かしい実績を残すかと思えたディ・ステファノだが、49年には政治の失策により国内経済が悪化。プリメーラの各クラブは経営難に陥り、選手への報酬も滞る状態となった。
すると選手会がギャラの支払いと待遇の改善を訴えてストライキを決行し、リーグは長期の中断を余儀なくされる。この混乱により有力選手たちの国外流出が頻発し、リーベルの主力であるディ・ステファノもユース時代に手本としたペデルネラに誘われ、コロンビアのミジョナリオスへ移籍する。
コロンビアのプロリーグは48年に創設されたばかりで、FIFAの承認を得ない海賊版リーグだった。それをいいことに、豊富な資金力を誇るミジョナリオスなどのクラブが、混乱するアルゼンチンリーグにルール無用の選手引き抜きを仕掛けたのだ。
こうしてコロンビアリーグにはアルゼンチンからだけではなく、南米各地や欧州からも選手が集まり、新設リーグは「エルドラド(黄金郷)」と呼ばれる活況を呈していた。
新天地に移ったディ・ステファノは、ペデルネラらとともにミジョナリオスの主力として活躍。入団後の4年間で2度の得点王に輝き、リーグ優勝3回、国内カップ制覇1回などに大きく貢献する。
多くのスター選手を擁したミジョナリオスは、ユニフォームの色から「バレット・アズーリ(青いバレエ)」の異名を持ち、海外にもその名を知られるようになった。
またディ・ステファノはコロンビアサッカー連盟からの強い要請を受けて、同国の国籍を取得。コロンビア代表で4試合プレー(当時はナショナルチーム転籍が許されていた)したが、FIFA公認ではないため非公式記録となっている。
騒動を経てのレアル・マドリード入団
52年5月、スペインのレアル・マドリードが、クラブ創設50周年を記念しての親善大会を開催。ミジョナリオスはスウェーデン王者のノルシェーピングとともに招待され、レアルとの三者間トーナメントが行なわれた。
初戦のノルシェーピング戦は2-2の引き分けに終わるも、ミジョナリオスの2点はディ・ステファノによるもの。続くレアル戦もディ・ステファノの2ゴールで4-2の勝利。その活躍を目の当たりにしたレアルのサンチャゴ・ベルナベウ会長は、すぐにミジョナリオスとの獲得交渉に動く。
するとレアルのライバルクラブであるバルセロナも南米スターの獲得に乗り出し、正当な保有権を持つとされたリーベル・プレートと交渉。2大クラブの間で激しい争奪戦が繰り広げられた。
するとこの事態にFIFAとスペインサッカー連盟が調停に乗り出し、今後4年間ディ・ステファノが両チームで1年交代にプレーするという折衷案を持ち出す。だがこれに本人が難色を示し、バルサもすったもんだのあげく保有権を売却。ディ・ステファノとレアルとの正式契約が成立する。
すでに27歳となっていたディ・ステファノは、レアルの1年目となる53-54シーズンから28試合27ゴールの活躍。ピチーチ賞(得点王)に輝くとともに、チームを21年ぶりのリーガ優勝に導く。
翌54-55シーズンも得点ランク2位となる30試合25ゴールの好成績を残し、リーガ2連覇に大きく貢献。ラテンカップ(南欧4ヶ国によるクラブ選手権)優勝のタイトルも得た。
こうしてディ・ステファノは、長く続いた3強(FCバルセロナ、アトレティコ・マドリード、アスレティック・ビルバオ)時代に風穴を空け、レアル黄金期への道を切り開いた。
完全なフットボーラー
55-56シーズンはリーグ3位に留まるも、エースのディ・ステファノは24ゴールを挙げて2度目のピチーチ賞。そしてこのシーズンから始まった欧州チャンピオンズカップ(以下CC)では、パルチザン・ベオグラード(旧ユーゴスラビア)やACミランといった強豪を退けて決勝へ進出する。
パリで行なわれた決勝は、レイモン・コパ擁するフランス王者のスタッド・ランスと対戦。試合は開始早々2点をリードされるも、ディ・ステファノのゴールを口火に怒濤の反撃。レアルが4-3と逆転で激戦を制し、初代CC王者に輝く。
56-57シーズン、レアルはスタッド・ランスからレイモン・コパを引き抜き。右ウィングを努めたコパとホットラインを築いたディ・ステファノは、31ゴールを挙げて3度目のピチーチ賞を獲得。リーグタイトル奪回に貢献した。
またCCでもディ・ステファノ6ゴールの活躍で2年連続の決勝進出。フィオレンティーナの決勝ではディ・ステファノのPKとフランシスコ・ヘント(通称パコ)のゴールでイタリア王者を2-0と退け、大会2連覇を達成する。
このとき準決勝で対戦した若き日のボビー・チャールトン(マンチェスター・ユナイテッド)は、「ピッチのあらゆる場所に姿を現して全てを支配している。この完全なフットボーラーはいったい何者なんだ!」と、当時の驚きをのちに述懐している。
さらにラテンカップ優勝と合わせてビッグタイトル3冠の立役者となったディ・ステファノは、これらの顕著な活躍によりスペイン年間最優秀選手賞を受賞。重ねてバロンドールの第2回受賞者(初代受賞者はスタンリー・マシューズ)にも選ばれ、その威名を世界に轟かせた。
2度目のバロンドール
57-58シーズンは19ゴールながら4度目のピチーチ賞。リーガ連覇に貢献する。3年連続決勝進出となったCCでは、難敵ACミランを相手に苦戦を強いられるが、ディ・ステファノの得点で息を吹き返し延長戦へ。最後はパコのゴールで3-2と決着をつけ、レアルが3年連続の栄冠。この大会でディ・ステファノは10ゴールを挙げ、初のCC得点王に輝く。
翌シーズン、54年W杯で準優勝したハンガリーの中心選手であるフェレンツ・プスカシュが入団。「マジック・マジャール」のエースとして世界に名を馳せたプスカシュとの両立が危ぶまれたが、2人は良い関係を築いてチームの勝利に貢献する。
そして23ゴールを記録したディ・ステファノは、3年連続5度目のピチーチ賞を獲得。58-59シーズンのリーグ優勝はライバルのバルセロナに譲るも、CCでは貫禄の4年連続となる決勝へ進出。58年W杯得点王のジュスト・フォンティーヌ擁するスタッド・ランスを2-0と封じ、4年続けての戴冠。ディ・ステファノはまたも決勝で得点を記録した。
また59年7月に行なわれたペレ擁するサントスFCとの親善試合では、ディ・ステファノ率いるレアルが、ブラジルの強豪相手に5-3の勝利。人々に強烈な印象を残した「レアルの王様」は、2度目のバロンドールに輝く。
プレイヤーとしては多くの賞賛を浴びたディ・ステファノだが、気難しい性格でチームメイトからは畏怖され、「ドン・アルフレッド」と呼ばれた。その威光による被害を受けたのが、58年W杯の活躍でレアルに移籍してきたブラジル代表のジジ。彼はチームに君臨していた王様から屈辱的な扱いを受け、憤慨しながら1年で古巣へ戻っていった。
5年連続の欧州制覇
すでに30代も半ばとなり、キャリアの晩年期に差し掛かっていたディ・ステファノのハイライトとなったのが、59-60シーズンのCCだった。大会5連覇を狙うレアルに対し、ライバルのバルセロナはラディスラオ・クバラ、ルイス・スアレス、シャンドール・コチシュ、ゾルターン・チボールら強力なタレントを揃え、絶対王者の牙城を崩しにかかった。
スペインの両雄は大会準決勝で対戦。王者のレアルは、好敵手をサンティアゴ・ベルナベウに迎えての第1戦で3-1と快勝。アウェーのカンプ・ノウでも3-1と勝利し、力の違いを見せつけた。そして決勝で争うことになったのは、前評判にも昇らなかった西ドイツのアイントラハト・フランクフルトだった。
際だったスターこそいないが、秀でたチームプレーでの高い得点力を誇るフランクフルト。キックオフから果敢に攻め込み、18分に右サイドのクレスが先制ゴール。レアルは思いがけないリードを許してしまう。しかしディ・ステファノが26分、28分と立て続けに得点。前半終了間際にはプスカシュのゴールが生まれ、3-1でハーフタイムを折り返す。
後半に入った53分、プスカシュがPKで1点。さらに60分、68分と15分間で3得点を決める。それでも怯まないフランクフルトは71分、75分とシュタインのゴールで3点差と詰め寄るが、72分にディ・ステファノがハットトリックとなるダメ押し点で勝負を決めた。
試合は7-3で終了。プスカシュ4点、ディ・ステファノが3点という両エースの活躍で、レアルが5年連続優勝の偉業を達成。そのすべての決勝に出場したディ・ステファノは、いずれの試合もゴールを挙げるという快記録を残した。
このあと60年から始まったインターコンチネンタル・カップで、ウルグアイのペニャロールと対戦。ディ・ステファノらのゴールで南米王者を下し、レアルが初代クラブ世界王者に輝く。
60-61シーズンは3季ぶりのリーグ優勝を果すも、CCではトーナメント1回戦でライバルのバルセロナに敗れてついに王座陥落。61-62シーズンはリーグ優勝とコパ・デル・レイ制覇の国内2冠を達成し、CCでも2年ぶりとなる決勝へ進出する。
アムステルダムで行なわれた決勝は、前年王者ベンフィカ(ポルトガル)との戦い。試合はプスカシュのハットトリックでリードするも、後半エウゼビオの2得点を許して3-5の逆転負け。覇権交代を告げる試合となった。
「白い巨人」の伝説
56年にスペイン国籍を取得したディ・ステファノは、57年1月のオランダ戦で同国代表デビュー。ハットトリックの活躍で5-1の勝利に貢献。58年のW杯予選では敗退を喫して大舞台を逃し、60年には第1回・欧州ネイションズカップ(現、欧州選手権)予選に出場する。
予選の1回戦はディ・ステファノ2試合3得点の活躍でポーランドを撃破するが、本大会進出を決める第2回戦は政治的理由でソ連との試合を棄権。本大会へ進めずに終わった。
61年4月から始まったW杯欧州予選では、ディ・ステファノの活躍で3大会ぶりとなる出場を決定。だが62年のW杯チリ大会は、尊大なエレニオ・エレラ監督とディ・ステファノの個性が衝突。怪我を理由に出場を拒否したため、世界最高の選手がW杯のピッチに立つことはなかった。
スペイン代表での5年間で31試合に出場。23ゴールの記録は、約30年後にエミリオ・ブトラゲーニョに更新(29ゴール)されるまで、同国の通算最多得点を保持していた。
63-64シーズンは自身8度目となるリーガ優勝。さらにCCでは7度目となる決勝進出を果す。しかしCC決勝ではエレニオ・エレラ監督率いるインテル・ミラノ( “グランデ・インテル” の全盛期だった)に3-1と敗れ、欧州王座奪還を阻止される。
そしてこのCC決勝を最後に、ディ・ステファノはレアル・マドリードを退団。11年を過ごしたレアルでチームを数多くのタイトルへ導き、「白い巨人」の異名で呼ばれたクラブに伝説を残した。そのあとエスパニョールでのプレーを経て、66年の夏に40歳で現役を引退する。
レジェンドの晩年
引退後は指導者の道に進み、故郷アルゼンチンのボカ・ジュニアーズや古巣リーベル・プレート、スペインのバレンシアなどで監督を務めた。
82年にはレアル・マドリードの監督に就任。ブトラゲニョーらカンテラ育ちの選手を引き上げ、「ラ・キンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシ軍団)」と呼ばれる80年代隆盛期の礎を築く。
89年にはスーパーバロンドールの候補となり、クライフ、プラティニ、ベッケンバウアーら欧州のスーパースターを押しのけて受賞。20世紀を代表するレジェンドとなった。
2000年11月、レアル・マドリードの名誉会長に就任。ここでクラブの象徴としての余生を送り、14年7月7日、心臓発作により死去。88年にわたる巨人の生涯に幕を閉じた。