「グラウンドに吠える闘犬」
無尽蔵のスタミナと容赦ないハードタックルを武器とし、ピンチの芽を潰しにかかった守備的MF。高いテクニックがあったわけではないが、献身的なハードワークで攻守に存在感を発揮した。闘争心を剥き出しにして誰彼なく吠えかかる姿から「闘犬」と呼ばれたのが、ジェンナーロ・ガットゥーゾ( Gennaro Ivan Gattuso )だ。
若手時代にイタリアからスコットランドへ渡り、名門グラスゴー・レンジャーズの「汗かき役」として活躍。その後移籍したACミランでは、代表ユース時代からの親友であるアンドレア・ピルロと中盤で強力なパートナーシップを築き、2000年代半ばのクラブ黄金期を支えて世界最高の守備的MFと謳われた。
イタリア代表では3度のW杯と2度のユーロ大会に出場。02年日韓W杯では途中交代による2試合の出場にとどまったが、06年ドイツW杯では盟友ピルロとともにチームの中核を担い、イタリア24年ぶり4度目となる優勝に大きく貢献した。
漁師に憧れたフットボーラー
ジェンナーロ・ガットゥーゾは1978年1月9日、イタリア南部の町コリリアーノ・カーラブロで、船大工の家に生まれた。彼のあとに2人の妹が誕生し、長男は名前を簡単にした「リーノ」の愛称で呼ばれる。
父フランコはセリエDでのプレー経験もある元アマチュア選手で、熱心なACミランサポーター。漁船が身近にある環境から漁師に憧れたこともあるリーノだが、やがてサッカーに熱中する。ちなみにプロ選手となってからも故郷に帰るたび漁船に乗っていたいたというリーノは、2010年に自分の魚屋を開業している。
リーノは父が好むジャンニ・リベラのようなファンタジスタには目もくれず、ナポリで「戦士」と呼ばれた守備的MFサルバトーレ・バーニを敬愛。バーニ同様にすね当てを外してソックスを下げ、彼の泥臭いプレーを真似したという。
12歳でペルージャの下部組織に入団。リーノは親元を離れての寄宿舎生活を送りながら、プロ選手を目指して練習に励んだ。
ペルージャユースでは、2度のプリマヴェーラ選手権(ユース大会)優勝に貢献。90分間を走り回るスタミナと守備力が認められ、17歳でトップチーム昇格。シーズン終盤戦となる96年3月のパレルモ戦で、セリエBでのデビューを果たす。
プロ1年目の95-96シーズンは2試合の出場に留まるも、リーグ3位の好成績を残したペルージャはセリエA昇格。96-97シーズンはユース契約のままトップリーグで8試合に出場するが、16位に沈んだチームは1年でセリエB降格となった。
レンジャーズのブレイブハート
95年のU-19欧州選手権で準優勝に貢献するなど、アンダー世代代表時代から活躍したリーノ。翌96年のユース大会では、試合を観戦していたグラスゴー・レンジャーズのウォルター・スミス監督が、彼の闘志あふれるプレーに着目。若きファイターの獲得を熱望する。
リーノはこの移籍話に乗り気ではなかったが、破格の契約金を提示された父親から「お前はグラスゴーに行くんだ。さもなければ殴る」と脅されたため、渋々レンジャーズのオファーを承諾したという。
だがペルージャ側はチームの有望株を手放すつもりがなく、レンジャーズ移籍を強奪行為だとFIFAに提訴。しかしリーノとプロ契約を結んでいなかったことがアダとなり、選手の自由移籍が認められた「ボスマン判決」に乗っ取って、19歳の若者は97年の春にスコットランドへ渡った。
グラスゴーに到着すると、レンジャーズのスター選手であるポール・ガスコインから、シャワー中にソックスを糞まみれにされるという手荒い歓迎。気質の似た二人はすぐに打ち解け、リーノにとってガスコインは兄貴分のような存在となった。
移籍騒動によりスコットランドでのデビュー戦は遅れたが、さっそくレギュラーの座を与えられて活躍。9月のUEFAカップ初戦・ストラスブールとの試合ではプロ初ゴールを記録する。
スコットランドリーグのタフな環境は、「汗かき役」を持ち味とするリーノのプレースタイルにハマり、97-98シーズンは公式戦40試合に出場。そのファイターぶりでサポーターの人気を集め、「ブレイブハート」の愛称で呼ばれる。
「ブレイブハート」とは、95年に公開されたメル・ギブソン主演の歴史映画。リーノの風貌が映画に登場するスコットランドの英雄を彷彿とさせたため、このあだ名が付けられた。
翌98-99シーズン、プレミアリーグのエバートンに引き抜かれたスミス監督に代わり、オランダ人のアドフォカートがレンジャーズの指揮官に就任。
新監督によって右SBへ移されたことに不満を抱いたリーノは、母国サッカー協会からの話もあり、シーズン途中でのイタリアへの帰国を決意。クラブの名誉理事であるショーン・コネリーに引き止められるなど惜しまれつつ、レンジャーズの人気者はスコットランドの地を去って行った。
ACミラン移籍
イタリアに戻ったリーノは、セリエAに昇格したばかりのサレルニターナと契約。ユベントスやローマといった強豪クラブの誘いもあったが、ミラニスタである父親の希望を叶えるため、しばらくACミランからのオファーを待つことにしたのである。
サレルニターナでもチームの中核として活躍。だがリーノの健闘虚しくサレルニターナのセリエB降格が決ると、ミランから待望のオファー。99年の夏に意中のクラブと契約を結ぶ。
ビッグクラブへ移籍した99-00シーズンは、リーグ戦22試合に出場して1ゴールを記録。インテル・ミラノとのミラノダービーでは「怪物」ロナウドを封じ、守備的MFとしての評価を高めた。
ミラン3年目の01-02シーズン、代表ユース時代からの親友であるアンドレア・ピルロがロッソネリに加入。だがピルロのポジションには中盤の名手が揃っており、守備力に弱点を抱える彼の出場機会は限られていた。
そこでピルロは、アンチェロッティ監督に中盤底へのコンバートを直訴。アンチェロッティ監督はその願いを受け入れ、運動量豊富なリーノと組ませて守備の負担を免除し、ピンポイントパスを活かした中盤底からのゲームメークを託す。ここからミランの新たな黄金期が始まることになった。
無念のW杯敗退
2000年2月、スウェーデンとの親善試合でA代表デビュー。同年5月にはスロバキアで開催されたU-21欧州選手権に出場し、ピルロと共にチームの主力として優勝に貢献。さらにこのあとオリンピック代表メンバーにも選ばれ、9月のシドニー五輪ではイタリアのベスト8に寄与する。
選手層の厚いA代表ではレギュラーの座を奪えなかったが、その献身的な働きが認められて02年のW杯メンバーに選出。リーノは24歳にして初の大舞台に臨むことになった。
02年5月31日、Wカップ・日韓大会が開幕。G/L初戦のエクアドル戦で、途中出場によるワールドカップデビューを果たす。
第2、第3戦でリーノの出番はなく、G/Lを2位で勝ち上がったイタリアは、トーナメント1回戦で開催国の韓国と対戦する。試合は開始18分、イタリアのCKからビエリが頭で決めて先制。このままリードを保って前半を折り返すも、後半は攻勢を強める韓国に押され気味となる。
逃げ切りにかかるイタリアは、61分にデル・ピエロを下げてリーノを投入。72分にはベテランのディ・ビーリオを入れて守備固めに入った。対する韓国は、ヒディンク監督が攻撃の駒を次々と投入。FW5枚を並べるという超攻撃的布陣で襲いかかってきた。
その88分、韓国の猛攻を凌ぎきれず失点。土壇場で延長戦に持ち込まれる。延長前半の103分、トッティがPエリアで倒されるも、シミュレーションをとられて2枚目の警告。10人となったアズーリは劣勢を強いられた。そして延長後半の117分、安貞桓のゴールデンゴールを許して勝負は決着する。
ゲームは主審の誤審などで物議を醸し、リーノは次回のリベンジを誓って大会を去っていった。
リンギオと呼ばれた男
02-03シーズン、ミランはリーグ戦で3位に終わるも、コッパ・イタリアを26年ぶりに制覇。さらにチャンピオンズリーグでも決勝に進出。決勝では同国のライバルであるユベントスをPK戦で下し、9季ぶりの欧州王者に輝く。
翌03-04シーズン、リーグ戦を快走したミランは6季ぶりのスクデットを獲得。チームの得点源となったシェフチェンコやカカの活躍を導いたのは、リーグを代表するレジスタとなったピルロのゲームメークによるもの。もちろんそこには、相棒リーノの奮闘によるサポートがあった。
アンチェロッティ監督がピルロ、ルイ・コスタ、セードルフ、リバウドといった10番タイプを併用できたのは、汗かき役に徹したリーノの働きがあってこそ。フィールドを疲れ知らずで走り続け、ボールを奪うまで相手を追い回す姿は本能のまま。そのプレーから ”リンギオ” の愛称で呼ばれる。
”リンギオ” とは、「猛犬のうなり声」の意味。転じて「闘犬」を現す言葉でもある。容赦無用のハードタックルで相手に襲いかかり、闘争心むき出して誰彼かまわず吠えまくる姿は、まさに闘犬そのものだった。
04-05シーズン、スクデットはユベントスに奪われるも、CLでは2季ぶりの決勝に進出。会場となったイスタンブールでイングランドのリバプールと戦う。ミランは前半で3点を奪って優位に立つが、後半に怒濤の反撃を喰らって同点とされ、勢いに呑まれてPK戦負け。「イスタンブールの悲劇」に沈み、ビッグイアーを逃してしまう。
05-06シーズン、またもユベントスの後塵を拝してリーグ2位。しかしシーズン終盤にセリエAの大規模審判買収疑惑「カルチョ・スキャンダル」が発覚。不正の主犯格とされたユベントスはセリエB降格となり、事件に関与したと疑われたミランも、ポイントを減らされて3位へと落ちた。リーノら選手たちは不正と無関係だったが、捜査当局の調べを受けるなど事件に巻き込まれた。
ドイツW杯優勝
04年、ポルトガルで開催されたユーロ大会に出場。イタリアは予選リーグ3位と力を出せないまま終わる。リーノは2試合に出場するも、プレーの時間は多くなかった。
ユーロ04終了後、ユベントスの指揮官だったマルチェロ・リッピがイタリア代表監督に就任。リーノはクラブと同じくピルロをサポートする役割を与えられ、W杯欧州予選の8試合に出場。グループ首位突破に貢献する。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。故障明けのリーノは初戦のガーナ戦を欠場となったが、イタリアは2-0と快勝スタート。第2戦でアメリカと対戦する。前半22分にピルロのFKから先制するも、27分にオウンゴールで失点。さらにその1分後、デ・ロッシがラフプレーで一発退場。イタリアは劣勢を強いられた。
35分、リッピ監督はアメリカのプレスに苦しむトッティに代えてリーノを投入。リーノは豊富な運動量で数的不利をカバーするだけでなく、闘志あふれるプレーで仲間を鼓舞。アズーリの士気を高めた。そのあとアメリカの2選手が退場となって逆にアドバンテージを得るが、相手の粘りもあって1-1の引き分け。全4チームが決勝トーナメントへの可能性を残すという、混戦模様となった。
最終節のチェコ戦は、リーノが今大会初先発。ネドベドなど前線にタレントを擁する強敵に、リーノ、カンナバーロ、ブッフォンらで構成する鉄壁の守備陣が完封。2-0と勝利を収め、イタリアは首位突破を果たす。リーノはインザーギの得点をアシストし、攻撃にも寄与した。
トーナメント1回戦でオーストラリアを1-0と退け、準々決勝ではウクライナに3-0と完勝。リーノは厳しいマークでミランの同僚であるシェフチェンコを封じ、「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれる。
そして準決勝では開催国ドイツを2-0と撃破し、ついに決勝へと進出。王者復活を目指すフランスと雌雄を決することになった。試合は開始7分、ジダンのPKでフランスが先制。序盤イタリアは司令塔のピルロがマークに封じられるも、代わりにリーノが前線へパスを繋げてリズムを作った。
その19分、ピルロの右CKからマテラッツィが頭で合わせて同点。堅守を誇る両チームの戦いは均衡を保ち、延長戦に突入する。延長後半の110分、マテラッツィに挑発されたジダンが頭突きで一発退場。だがイタリアは数的優位を生かせず、勝負はPK戦へ。そしてフランスのトレゼゲがPKを外したのに対し、イタリアは5人全員が成功。アズーリが6大会ぶり4度目の栄冠に輝く。
リーノは出場選手最多数となる47回のボールチャレンジに成功。その奮闘ぶりで何度もチームのピンチを救い、ピルロとともに大会のベストMFに選出される。
傷を負った闘犬
06-07シーズン、CL決勝でリバプールに2年前のリベンジを果たし、自身2度となるビッグイアーを獲得。07年12月には日本で開催されたFIFAクラブW杯を制し、守備的MFとしての名声を極めた。
だがそんな絶頂期にあった08年12月、シーズン前半のカターニア戦で前十字靱帯損傷の大怪我。リーノは負傷にかかわらず90分ピッチに立ち続けたが、ダメージは大きく5ヶ月間の戦線離脱を余儀なくされる。
イタリア代表では08年のユーロ大会と、10年W杯・南アフリカ大会に出場。ユーロ08では準々決勝でリーノが累積警告で出場停止となり、スペインに敗れてベスト8止まり。南アW杯では怪我のピルロを欠いた前回王者がG/L最下位に沈み、屈辱のグループ敗退を喫する。
W杯でわずか1試合45分の出場にとどまったリーノは、大会終了後に代表からの引退を表明。11年間の代表歴で73試合に出場し、1ゴールを記録している。
しばらく怪我の後遺症に苦しむも、10-11シーズンに復活の輝き。リーグ戦31試合に出場して7季ぶりのスクデット獲得に貢献した。しかし11年9月、視神経に麻痺を生じて再び長期の離脱。以降回復の兆しは訪れず、11-12シーズンを最後に13年間を過ごしたミランを退団する。
12年6月、スイス1部のFCシオンに移籍。13年2月からは兼任で監督を務めるが、わずか3ヶ月で解任。そのまま37歳で現役を退いた。
引退後は古巣のミランなどいくつかのクラブで監督を務めるが、まだタイトルを得るような実績を残せていない。