87年公開の『ゆきゆきて、神軍』は、「神軍平等兵」を名乗る過激な運動家・奥崎謙三が、太平洋戦争中に起きた事件を巡り、関係者を一人一人訪ね歩いて、その責任を執拗に問い詰めていく様を追ったドキュメンタリー作品。
奥崎謙三は昭和天皇の戦争責任を追求し続け、かつて皇居の一般参賀でパチンコ玉を陛下に向かって発射し逮捕されたという経歴を持つ、過激なアナーキストである。
監督は『全身小説家』(94年)の原一男。最初企画は今村昌平監督に持ち込まれたが、諸事情により断念。しばらく経って今村監督の弟子筋である原一男に話がゆき、奥崎という人物に興味を抱いたことから製作が始まった。
奥崎の過激な言動をありのままに写したこの作品は、平和な時代を謳歌していた観客に衝撃を与え、公開時は大きな話題となった。ただ奥崎の理解不能な人物像は、当時の若者にブラックユーモアと受け取られたそうだ。
映画はヒットを記録、作品も高い評価を受け、毎日映画コンクール優秀映画賞のほか国内の各映画賞に輝いている。
太平洋戦争のニューギニア戦線から帰還した奥寺謙三が、戦地の部隊で起きた “上官による部下処刑射殺事件” と “兵隊同士の食人事件” の真相を突き止めようと、36年後に現場関係者を訪ね歩く姿を追う。
ニューギニア戦線で奥崎の部隊は飢えとマラリアにより四散。一千名の兵員中、生き残ったのは僅か三十数名にすぎなかった。そんな中、残留部隊では隊長の命令による若い兵士の銃殺事件が発生。なぜ終戦後23日も経ってから部下を射殺したのかを、奥崎は行く先々で問い詰める。
戦中の記憶を、忌まわしい過去として封殺しようとするかつての戦友、上官の家を次々と訪れては執念深く食い下がり、時には暴力を振るってまで口を割らせようとする。カメラはそんな奥崎の狂気を冷徹に写し出している。
奥崎が自らの戦争体験を語ることは、自分の正当性を訴えることであり、戦争責任を具体的に追求する唯一の原動力。その過激さが、彼の自己表現なのだ。
81年に原監督が神戸の自宅を訪れた時点で、奥崎は傷害致死罪など前科三犯の身。街宣の自家用車には「田中角栄を殺す」など物騒なスローガンが掲げられ、7時間ぶっ通しで持論を話し続ける彼のバイタリティーに圧倒されたが、物腰は紳士的で危険な感じはしなかったそうだ。
だが82年に撮影が開始され、元上官の家を訪ねたとき、何も語ろうとしない相手に奥崎が突然殴りかかったの見て、初めて彼の狂気性を認識したという。
撮影はある程度の方針を決めて行われたが、撮影隊は「よし、行くぞ」と突撃スタイルの奥崎のあとを追っかけるだけ。対象と距離を取って冷静に見つめる原監督の視線が評価されたが、「暴力も辞さない奥崎の振る舞いに、どうしていいか分からなかった」と正直に述べている。
幾度となく原監督へ激高しながら、何日かたつと何事もなかったかのように電話を掛けてきたという奥崎。あるとき自分の撮り方に不信感を抱き、撮影したフィルムを見せろとしつこく要求。原監督は、しかたなく無難に編集したラッシュを見せたそうだ。
そのラッシュフィルムを見て感激した奥崎は、「原さん、感謝の印です。私が人を殺す場面を撮って下さい」と、とんでもないことを言い出す始末。このとき原監督は本質的な恐怖を感じ、ノイローゼになるほど悩まされたという。原監督はその提案をどうにかやり過ごし、だんだん彼のやり方にも慣れてきたらしい。
83年、事件当事者の殺害を決意した奥崎は、元中隊長の自宅を訪れ、応対した長男に向かって改造拳銃を発砲。殺人未遂で逮捕され服役することになる。
『ゆきゆきて、神軍』は、奥崎が服役中の87年8月に公開。映画公開から程なくして昭和天皇が病に倒れ、世の中は自粛ムードとなっていく。
原監督は「もし奥崎が服役しなければ口出しされて完成が遅れ、その後の自粛ムードで日の目を見ることはなかった。この映画が生まれたのは奇蹟だ」と語っている。
奥崎謙三は93年に府中刑務所を出所。05年に85歳で亡くなった。奥崎の生誕100年にあたる2020年の夏には、リバイバル公開がされている。