「赤い悪魔の怪童」
スピード、パワー、テクニック、運動量とすべてに秀でた万能ストライカー。高い決定力と献身性を備え、チームを勝利に導いた。またパスセンスにも優れ、チャンスを見極める戦術眼も確か。現代プレミアリーグを代表するFWとして活躍したのが、ウェイン・ルーニー( Wayne Mark Rooney )だ。
エバートンの練習生時代に、アーセナルの30戦無敗記録を止める殊勲弾。プレミアリーグ最年少ゴール記録を更新し、「神童現る」と世界を騒がせた。13シーズンを過ごしたマンチェスター・ユナイテッドでは、常に攻撃の中心として活躍。ファーガソン政権後期の黄金期を支えた。
イングランド代表でも、史上最年少の17歳で国際Aマッチデビュー。04年のユーロでは4ゴールを挙げる活躍を見せ、その実力がフロックでないことを証明する。しかし06年W杯と10年W杯は期待を裏切る成績。代表ではいまひとつ輝けないまま終わった。
神童現る
ウェイン・ルーニーは1985年10月24日、リバプール郊外のクロクステス地区に、3人兄弟の長男として生まれた。5人家族が住む公営住宅の近くには、エバートンFCのホームスタジアムであるグディソンパークがあり、ルーニー家は代々のトフィーズ(クラブの愛称)サポーターだった。
7歳で地元ジュニアクラブのコップルハウス・ボーイズに入団。9歳の時には1シーズン99ゴールを挙げるという驚異的な記録を残し、早くもストライカーとしての才能を発揮。街のクラブ関係者に注目される存在となる。
最初に接触してきたのはリバプールFCだが、ルーニーと父親はその誘いを断り、直後のスカウトを受けてエバートンFCと契約。憧れのユニフォームに袖を通すことになった。
エバートンのアカデミーで英才教育を受けたルーニーは、恐るべきスピードで成長。父親が経験者だったためボクシングにもいそしんだが、やがてサッカー1本に専念。15歳の頃には、すでにU-19のチームでプレーするほどになっており、準優勝したFAユースカップでは8試合8ゴールの大活躍。「逸材」の名を欲しいままにした。
16歳となった01-02シーズンの終わりにはトップチーム昇格。ベンチ入りしたものの、出場の機会はなかった。翌02-03シーズン、リーグ開幕を前にトップチームへ合流。開幕戦となったトッテナムとの試合に先発し、さっそくアシストを記録する。
10月のリーグカップ・レクサムFC戦では、トップチーム初ゴール(2ゴール目も)を記録。クラブの最年少得点記録を塗り替えた。その約半月後のリーグ戦、エバートンは昨季から30戦無敗の快進撃を続けるアーセナルと対戦する。
1-1で迎えた後半81分、17歳の誕生日を5日後に控えたルーニーが途中出場。すると終了間際の89分、後方からの浮き球をルーニーが見事なトラップで収めると、素早く反転して25mのミドルシュート。ボールはクロスバーを叩いてゴールイン。アーセナルの無敗記録をストップする決勝点が生まれた。
16歳360日でのゴールは、当時プレミア史上最年少記録を更新(現在は歴代3位)するもの。衝撃のゴールは世界を驚かせ、「神童現る」と話題をさらった。ちなみにプレミアリーグのプロ契約は17歳からという規定があるため、この時のルーニーは練習生という立場だった。
ファーストシーズンは33試合6ゴールの成績。若き逸材には世界中の強豪クラブから関心が寄せられるが、03年1月にエバートンと正式契約。愛するクラブでプロキャリアの第一歩を刻んだ。
スリーライオンズの若きエース
プロ契約後の03年2月、オーストラリアとの親善試合でA代表デビュー。17歳111日という、マイケル・オーウェンの最年少出場記録(当時)を更新するものだった。同年9月のユーロ予選・マケドニア戦で代表初ゴールを記録。これ(17歳317日)は現在でも歴代最年少得点レコードである。
4日後のリヒテンシュタイン戦でもゴールを挙げるなど、ユーロ予選突破に貢献。初の国際舞台となるユーロ04大会に、スリーライオンズ(代表の愛称)の最年少メンバーとして臨むことになった。
04年6月、ポルトガル開催のユーロ大会が開幕。初戦から先発のピッチに立ったルーニーだが、前回王者のフランスに1-2と痛恨の逆転負け。しかし続くスイス戦でルーニーが2得点の大活躍、3-0の快勝に大きく貢献した。
第3戦はクロアチアの先制を許すが、40分にルーニーのパスからスコールズが同点弾。前半ロスタイムの46分にはルーニーのミドルシュートで逆転する。後半68分にもルーニーが追得点を決めると、追いすがる相手を振り切って4-2の勝利。18歳のエースがチームをグループ突破に導いた。
準々決勝は地元ポルトガルとの対戦。開始3分にオーウェンのゴールで先制するも、27分にルーニーが足を骨折して退場。それでもこのまま逃げ切るかに思えた終盤の83分、ポスティガの同点ゴールを許して延長に持ち込まれる。延長は両チーム1点ずつを加えて2-2で終了。PK戦ではイングランドの6人目が止められ、惜しくも敗退。好調ルーニーの負傷退場が痛手となった。
ルーニーは最後までピッチに立てなかったものの、その活躍により大会の最優秀FWに選出。イングランドを率いるエリクソン監督からは、「彼は完全無欠のフットボーラー。58年W杯のペレ登場に匹敵するものだ」と絶賛された。
ユーロ04の活躍でルーニーの評価はいよいよ高まり、いくつもの有力クラブからオファー。ルーニー自身もモイーズ監督との不和や、よりレベルの高いチームでのプレーを望んだため、気持ちは移籍へと傾いていた。
そして04年8月、プレミアの名門マンチェスター・ユナイテッドとの契約が合意。期待の新星は「赤い悪魔」の一員となった。5年契約、移籍にかかった総額3000万ポンドの内容は、20歳未満の選手として破格のものだった。
ユーロ大会の怪我により04-05シーズンの序盤は欠場を余儀なくされるが、9月末にオールド・トラフォードで行なわれたチャンピオンズリーグのフェネルバフチェ戦で初登場。さっそくハットトリックの活躍を見せると、アシストも記録。6-2の勝利の立役者となる。18歳335日でのCLハットトリック達成は、大会の最年少記録を更新した。
リーグ戦は怪我の影響で出遅れるも、19歳の誕生日となる04年10月24日には、再びアーセナルの無敗記録(49戦無敗)をストップする活躍。こうして移籍の1年目は、11ゴールとキャリア初の二桁得点を記録。エースのファン ニステルローイとブレイク前のクリスティアーノ・ロナウドを差し置き、チームのトップスコアラーとなった。その活躍により、PFAベストヤングプレーヤーに選ばれる。
05-06シーズン、36試合16ゴールの活躍。ファン ニステルローイ(21ゴール)とともにチームの攻撃を牽引する。リーグ戦は首位を独走したチェルシーに及ばなかったものの、ウィガンとのリーグカップ決勝ではルーニーがゲームを決める2得点を挙げ、自身初となるタイトルを獲得した。
こうして英国を代表するストライカーへと急成長したルーニーには、間近に迫った06年W杯への期待が高まっていく。しかし大会を1ヶ月半後に控えた4月29日のチェルシー戦、相手DFのタックルを受けて左足中指骨折の怪我。残りシーズンの欠場を余儀なくされ、W杯への影響も危惧された。
W杯の退場
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。故障明けのルーニーは初戦を欠場するも、試合はパラグアイに1-0の勝利。第2戦は初出場のトリニダード・トボゴを相手に苦戦を強いられるが、終盤に得点を重ねて2-0と連勝。後半58分にオーウェンに代わって投入されたルーニーは、見せ場こそなかったものの順調な回復ぶりを見せた。
最終節のスウェーデン戦はルーニーが先発に復帰。開始4分、オーウェンが右膝を負傷しベンチに退くアクシデント。それでも34分にはジョー・コールのスーパーゴールで先制する。しかし後半51分にCKから追いつかれると、69分にはルーニーを下げてジェラードを投入。終盤の80分にそのジェラードの勝ち越し点が生まれる。
これで勝利を手中にしたかと思えたイングランドだが、ロスタイムの90分にラーションに押し込まれて同点。惜しくも3連勝を逃したものの、イングランドはグループ首位で決勝トーナメントに進む。
トーナメント1回戦はベッカムがFKを叩き込んでエクアドルに1-0の勝利。ルーニーは今大会初めて90分をフル出場した。
準々決勝の相手はポルトガル。0-0で折り返した後半52分、主将のベッカムが左足を痛めて退場。さらに62分、ルーニーがリカルド・カルバーニョの股間を踏みつけ一発レッド。流れは一気にポルトガルへと傾くも、イングランドはテリーとファーディナンドを中心とした固い守備で凌ぎ、延長120分を終えて0-0。しかしPK戦ではイングランドの3本が止められ、ベスト8敗退。ルーニーにとって悔いの残る大会となった。
ユナイテッドの栄光
06-07シーズン、34試合17ゴールと覚醒したC・ロナウドともに14得点13アシストの大活躍。若き両雄がチームの攻撃を牽引し、チェルシーの3連覇を阻止して4季ぶりのリーグ優勝。翌07-08シーズンはロナウドが34試合31ゴールと大爆発。ルーニーも12ゴール10アシストと決定的な働きを見せる。
新戦力のカルロス・テベスを加えた攻撃陣はさらに破壊力を増し、追いすがるチェルシーを振り切ってリーグ2連覇を達成。チャンピオンズリーグでは9季ぶりとなる決勝に進む。
決勝の相手はプレミアのライバルであるチェルシー。前半16分にロナウドのヘッドで先制するが、45分にランパードのゴールで同点。試合は一進一退の攻防が続くも、延長でも決着が付かず勝負の行方はPK戦へ。
先攻のユナイテッド3人目のロナウドが失敗。後攻のチェルシーは4人続けてPKを成功させ、5人目のがキックを沈めれば優勝をさらわれるところまで追い込まれる。しかし5人目のテリーは足を滑らせPK失敗。最後チェルシー7人目のアネルカをファン デルサールが止め、ユナイテッドが3度目のビッグイアーを獲得。延長101分にナニと交代としたルーニーは、ベンチで歓喜の瞬間を味わった。
08年の12月には日本で行なわれたクラブW杯に出場。準決勝のガンバ大阪戦では、試合途中から投入されたルーニーが2得点の大活躍。5-3の勝利に貢献する。決勝のLDUキト(エクアドル)戦ではルーニーが貴重な決勝点。クラブW杯制覇の立役者となり、大会MVPに輝く。
08-09シーズンも12ゴールを挙げてリーグ3連覇に貢献。CLも2年連続の決勝に進出するが、メッシら生え抜き選手を中心に黄金期を築きつつあったバルセロナに0-2の完敗。大会連覇はならなかった。
09-10シーズンはロナウドとテベスがチームを去るも、CFに固定されたルーニーがその穴を埋める26ゴールの大活躍。シーズン終盤の故障によりプレミア4連覇とリーグ得点王のタイトルをさらわれてしまうが、PFA(選手協会)とFWA(記者協会)のMVPをダブル受賞。「赤い悪魔」の怪童は、24歳にしてそのキャリアを極めつつあった。
輝けなかった2度目のW杯
08年のユーロ大会は、ブロック予選敗退で出場を逃してしまうという不覚。チーム再建を託されたファビオ・カペッロ監督に背番号10を与えられたルーニーは、W杯欧州予選で9ゴールとエースの活躍。捲土重来を期して10年W杯に臨む。
10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。しかし初戦のアメリカ戦を1-1で引き分けると、続くアルジェリア戦もスコアレスドロー。最終節のスロベニア戦を1-0と勝利し、グループ2位で辛うじてベスト16に進んだ。
トーナメント1回戦はドイツとの強豪対決。しかしランパードのゴールが誤審により認められない不運もあり、1-4の敗戦。国民の期待を裏切る結果となってしまった。
エースのルーニーは、リーグ戦の故障の影響もあり4試合ノーゴールと不振。敗退直後にバカンスでゴルフに興じる写真もタブロイド紙に掲載され、第一級戦犯としてバッシングを受ける。
プレミア史上最高のゴール
10-11シーズン、移籍騒動の影響で出遅れてしまったルーニーだが、11月20のウィガン戦でチームに復帰。翌11年2月のマンチェスター・シティーとのダービー戦で、「自身最高のゴール」と語るビッグプレーが生まれる。
1-1で迎えた後半78分、ナニのクロスが相手DFに当たって軌道が高くなったところを、ルーニーがアクロバティックなオーバーヘッドで捉えて勝ち越し点。ファーガソン監督からは「他に並ぶものがない見事なゴール」と激賞され、プレミア20周年を記念した投票でも「ベストゴール」の1位に選出される。
10-11シーズンは出遅れの影響で28試合11ゴールに留まるも、リーグ戦はチェルシーからタイトルを奪回。シーズンオフには、植毛手術を行なったことをツイッター(現 X)で報告。その理由は「25歳でハゲるつもりはなかったから」と、意外な繊細さも見せた。
11-12シーズンは、ゲームメーカーも兼任しながら34試合27ゴールとキャリアハイの成績。しかしリーグ戦ではデッドヒートのすえマンチェスター・シティーに初戴冠を許し、得点王争いもファン ペルシー(30ゴール)に敗れてしまう。
12-13シーズン、怪我の影響で27試合12ゴールと成績を落とすが、チームは2年ぶりのリーグ優勝。ファーガソン監督は自身13度目となるリーグ優勝を置き土産に、27年間の長期政権を敷いたユナイテッドを勇退する。
その後任として指名されたのは、エバートン時代の指揮官であるモイーズ監督。ユナイテッドのエースの去就が注目されたが、チームの強い意向により残留が決定。13-14シーズンは17ゴール10アシストと納得の成績を残すが、名将の去ったユナイテッドはリーグ7位に沈み、モイーズ監督は10ヶ月で解任となった。
代表での戦績
ユーロ予選のモンテネグロ戦では相手選手を蹴って一発退場。ユーロ12本大会は、3試合出場停止の厳しい処分を受けてしまう。しかし処分はその後2試合の出場停止に軽減され、ユーロ12(ウクライナ/ポーランド共催)の第3戦で先発復帰。地元ウクライナ相手に貴重な決勝点を挙げ、グループ首位突破に貢献する。しかし準々決勝ではイタリアにPK戦負け。またも上位進出を阻まれてしまう。
14年6月、Wカップ・ブラジル大会に出場。初戦のイタリア戦でルーニーがW杯初ゴールを記録するが、試合は1-2の敗戦。続くウルグアイ戦は先制を許すも、後半75分にルーニーがW杯初ゴール。イングランドが同点に追いつくも、85分にスアレスによる2点目を決められて1-2の敗戦。早々とグループ突破の可能性は消滅した。
第3戦はルーニーらベテランを外してコスタリカに0-0の引き分け。イングランドは「死の組」と呼ばれたDグループで最下位に沈み、屈辱の1次リーグ敗退に終わる。
16年6月、フランス開催のユーロ2016に出場。中盤の左サイドを務め、イングランドのグループ2位突破に貢献。トーナメント1回戦のアイスランド戦ではPKを沈めて先制するも、大会初出場の格下チームに思わぬ逆転負け。ルーニーは低迷する代表を救うことはできず、結局これが最後の国際大会となった。
晩年のキャリア
16-17シーズン終了後、13年間を過ごしたマンチェスター・ユナイテッドを退団。ユナイテッドで積み重ねた公式戦253ゴールは、クラブのレジェンドであるボビー・チャールトンの記録(249ゴール)を更新するものだった。
17年8月には代表から退くことを発表。18年11月に行なわれた親善試合・アメリカ戦が代表キャリアの最後を飾る試合となった。15年間の代表歴で120試合に出場、53ゴールを記録した。出場数は20年間代表守護神に君臨したピーター・シルトン(125キャップ)に次ぐもので、ゴール数もハリー・ケインに続く歴代2位である。
17-18シーズンは古巣のエバートンに復帰。ここでプレミアリーグ通算200ゴールを達成すると、18年6月にはMLSのD.C.ユナイテッドと契約。19年8月からはダービーカウンターFC(イングランド2部)の選手兼監督を務め、21年1月に35歳で現役を引退する。
引退後の23年10月にはバーミンガム・シティー(イングランド2部)の監督に就任するも、成績不振によりわずか3ヶ月で解任となった。