詩人や作家として、映画監督として、そして前衛芸術家として、過激な問題作で宗教界や資本主義社会を挑発し続けた、ピエロ・パオロ・パゾリーニ。
軍人の家に生まれ、母親の強い影響を受けて育つが、パルチザンだった弟を内ゲバで亡くして唯物史観に傾倒。それからは無神論者であり同性愛者であることを隠すこともなく、大いなる批判精神から若くして波乱の日々を送ることになる。
常に挑発的な映画を撮り続け、世間に物議を醸していたパゾリーニ。だが75年に退廃的な性を描いた作品『ソドムの市』を撮り終えた直後、彼の惨殺死体が発見されるというショッキングな出来事が起きる。犯人はパゾリーニと関係を持った17歳の男娼とされたが、スキャンダルとして騒がれたこの事件は謎を残したまま今に至っている。
パゾリーニは1922年3月5日、イタリアのボローニャに生まれた。母親が教育者だったという環境で、幼い頃から文学や美術にいそしむ。
軍人だった父に従い一家は各地を転々とするが、39年にボローニャ大学へ入学。この頃から映画に熱中し始め、ジャン・ルノワール、ルネ・クレール、チャップリン、のちには溝口健二の作品にも影響を受けている。
42年に母親の故郷フリウーリ地方の方言を詩的言語に練り上げた『カザルサ詩集』を出版、詩人としての第一歩を刻む。
45年、レジスタンスに参加した3歳下の弟グイドが内部抗争で殺され、パゾリーニは生涯最大の衝撃を受ける。レジスタン運動に加わらなかったパゾリーニは自責の念にかられ、弟の死に責任を感じるようになったのだ。のちのパゾリーニ作品には、若くして殺された弟の象徴として「血に染まった少年」や「殺される少年」のイメージが頻出することになる。
終戦後パゾリーニは『共産党宣言』に目を通し、無神論者だった彼は47年にフリウーリの共産党へ入党、すぐに地域で1番目立つ活動家となった。やがてその地域の中学校教師となり、捕虜になっていた父親も帰還。パゾリーニ一家の平穏な暮らしが始まるかに思えたが、そんな時に最初のスキャンダルが訪れる。
49年の秋、ある村祭りの間に何人かの少年と部屋にこもって遊んだことが表沙汰になり、パゾリーニは猥褻行為と未成年者を堕落させた罪で告発されてしまう。この出来事はフリウーリ地方で前代未聞のスキャンダルと騒ぎ立てられ、共産党はパゾリーニを除名、教職も停止となってしまった。
さらに、捕虜時代に精神を病んでアルコール依存症となった父にも苦しめられ、地獄の日々を送ることになったパゾリーニ。住み難くなったフリウーリに父親を残し、50年のはじめに母と二人でローマへ出奔する。最初の頃はローマ近郊のスラム街に住み、母は家政婦の仕事を、パゾリーニは安月給教員の仕事で糊口を凌ぐことになった。
そんな暮らしが続いた55年、スラム街の少年たちを描く長編小説『生命ある若者』を発表。「イタリアの汚れた面を強調しすぎ」「猥褻な言葉が多すぎる」と様々な批判を受けるが、知識人に評価され旺盛な執筆活動を始める。
54年には脚本家として映画界に進出。フェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』(57年)にも参加し、39歳となった61年には『アッカートネ』で監督デビューを果たす。粗野な男の剥き出しの生と死が直截に表現されたこの処女作はさっそく世間を騒がせ、18歳未満鑑賞禁止の指定も受けてしまう。
62年には長編劇『マンマ・ローマ』と、短編作品の『ラ・リコッタ』を発表。『ラ・リコッタ』はキリスト受難劇の主人公を浮浪者に設定。その主人公が裸の女を見て自慰行為をし、十字架の場面でチーズを食い過ぎて死んでしまうという内容がカトリックを愚弄していると問題になり、イタリアでの公開が禁止となった。
61年、『奇跡の丘』を監督。生身のキリストを描いたこの作品は国際的に高い評価を受け、カトリックにも認められてパゾリーニは監督としての名声を得た。さらにエディプス王の悲劇を再現した『アポロンの地獄』(67年)や、ブルジョア家庭を舞台とした『テオレマ』で、耽美と退廃の美学を描くパゾリーニ・スタイルを確立する。
69年には『豚小屋』を発表、カニバリズムや獣姦といた題材を寓話として扱い、「俺は親父を殺した、人間の肉を喰った。歓びでぞくぞくする」のセリフで代表される背徳的なテーマがまたもや物議を醸す。
70年の『王女メディア』では、オペラ界の名プリマ・ドンナで大スターであるマリア・カラスに出演を依頼。パゾリーニの才能を評価していたカラスは、「芸術家のことが分かるのは芸術家だけです」とその要請を快諾した。
撮影中二人の中は親密になり、カラスは情熱的な愛の告白を何度もパゾリーニにしている。しかし同性愛者のパゾリーニにとって彼女は母親的存在で、その求愛に応えることはなかった。
71年から74年にかけて「生の三部作」と呼ばれる、『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアン・ナイト』を発表。セックスをユーモラスかつおおらかに描いたこの三部作は好評を持って迎えられるが、一方では商業主義に墜ちたという批判も浴びることになった。
75年、『ソドムの市』を監督。この映画はマルキ・ド・サド原作の「ソドムの百二十日」に倣って、第二次世界大戦末期のファシストたちが残虐の限りを尽くす過激な内容の物語。ファシストは少年・少女たちを館に閉じ込め、強姦や男色行為を繰り返した挙げ句、スカトロの強要やサド・マゾ地獄を現出させるという、人間の下劣な欲望をとことんえぐり出した問題品である。
しかしこの作品の反響を、監督自身が知ることはなかった。映画の公開を控えた75年11月2日の早朝、ローマ近くのさびれた海岸で、ゴミ箱に捨てられたパゾリーニの惨殺死体が発見されたのである。その遺体の様子は棒でめった打ちにされ頭蓋骨は砕かれ、顔は見分けがつかないほど潰されていた。
しかもその屍体は何度も車に轢かれたらしく、ボロ布のかたまりようになって正視も出来ない状態だったという。やがてパゾリーニの愛車を運手していた17歳の少年ペロージが、不審尋問で捕まり犯行を自供する。すると事件は、たちまちスキャンダラスに彩られていった。
ローマ暮らしを始めてから、男色生活に溺れるようになったパゾリーニ、たびたび夜の街に繰り出し、「クルージング」と呼ばれる少年あさりを行っていた。そして殺された夜に声を掛けたのが、少年院を出たばかりで旧知の仲でもあったペロージだった。
ペロージ少年はパゾリーニに性行為を強要され、怖くなって逃げようとしたが、揉み合いとなり近くにあった棒で思わず撲殺してしまったと犯行を供述。その証言が裁判でも認められ、ペロージは懲役9年の刑に服すことになった。
だが少年の単独犯行とするには無理な点も多く、パゾリーニが過激な政治発言を繰り返していたことから、ネオ・ファシストによる犯行説が噂された。そしてその事件から30年以上たったある日、犯人とされたペロージが新たな証言を始める。
その証言は、パゾリーニが5人のネオ・ファシストによって殺されたのを目撃したが、仕返しが怖くて本当の事が言えなかったという内容だった。だが不良少年だった男の証言が今さら信じられるかは疑問のあるところで、事件の真相は依然謎のままである。
パゾリーニの人生は社会への挑発と闘いの連続、右にも左にも攻撃されていた。彼の芸術への理解者・愛好者も多かったが、同じように嫌悪する者や憎悪する者も沢山いたのである。57歳で没したその壮絶な死に様は、過激な人生を送ったパゾリーニの宿命だったと言えるだろう。