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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》マリオ・コルナ(ポルトガル)

 

ベンフィカの聖なる怪物」

疲れを知らない運動量とエレガントなテクニックを備え、中盤のダイナモ及び司令塔としてチームを牽引した名選手。また左足による強烈なシュートを持ち、たびたび重要な場面でゴールを決めた。キャプテンとしての資質にも優れ、フィールドを支配する存在感から「聖なる怪物」と畏怖されたのが、マリオ・コルナ( Mário Esteves Coluna )だ。

 

アフリカのモザンビークに生まれ、19歳からポルトガルベンフィカでプレー。さっそくインサイドWとして26試合14ゴールと活躍し、54-55シーズンのプリメーラ・リーグ(ポルトガルリーグ)優勝に貢献する。そのあとアフリカ出身のエウゼビオ、アグアス、サンタナペレイラらとチームの中核をなし、ベンフィカ60年代の黄金期を築いた。

 

66年にはポルトガル代表としてW杯イングランド大会に出場。当時最強を誇ったベンフィカの選手を中心に構成された代表のキャプテンとしてチームを統率し、得点王となったエウゼビオとともにW杯初出場のポルトガルを大会3位に導く。

 

アフリカの若者

マリオ・コルナは1935年8月6日、ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)のロウレンソ・マルケス市(現在の首都マプト)沖合にあるインハカ島に生まれた。父はポルトガル本土から来た貿易商人で、母親は現地生まれのアフリカ人。マリオは混血の一人っ子だった。

4歳のときに家族とともにロウレンソ・マルケス市へ引っ越し。高い木に登ってマンゴーを採るなど活発に遊んだ少年は、やがてボール蹴りにも熱中するようになった。

50年にはSLベンフィカがアフリカツアーを敢行。コルナはその試合を観戦して以来、リスボン名門クラブのファンとなる。

15歳となった51年には、ベンフィカの関連クラブであるディポルティーボ・ロウレンソ・マルケス(現GDマプト)に入団し、本格的なサッカーを始める。クラブでは平行してバスケットボールやボクシング、陸上競技も行ない、走り高跳びでは1m83㎝のモザンビーク記録を打ち立てるなど、抜群の身体能力を誇ったという。

コルナはその身体能力に加えてテクニックも抜群。たちまちチームの中心選手に成長し、52年のマプト州選手権優勝に大きく貢献する。

彼の評判はやがて本土にも届き、SLベンフィカスポルディングCP、FCポルトの「トレス・グランデス(3強クラブ)」からも関心を寄せられるようになる。当時のポルトガルリーグでは外国人選手のプレーが許されておらず、国内強豪チームはアフリカ植民地のモザンビークアンゴラに人材を求めたのだ。

それまでプロ選手になるなど夢にすぎず、自動車整備工の見習いに励んでいたコルナだったが、サッカー選手への希望の道が拓けてきた。

最初に声を掛けたFCポルトに対し、スポルディングがそれを上回る条件を提示。だがコルナが選んだのは、一番条件の低いベンフィカだった。こうして19歳の青年は、憧れの名門クラブへ入団することになった。

ロウレンソ・マルケスの同僚だったGKペレイラとともに入団したベンフィカでは、激しいトレーニングや寮での外出制限を課せられるなど、新しい環境への適応に苦労を強いられた。だがブラジル人監督オットー・グロリアのもと、その技量と戦術眼は磨かれていった。

そしてベンフィカの1年目となる54-55シーズンは、インサイドFWとしていきなり26試合14ゴールの活躍。チームのエースでアフリカ出身の先輩であるホセ・アグアスに続くゴール数を記録し、クラブの19年ぶりとなるプリメーラ・リーグ優勝に貢献する。

 

弱小チーム、ポルトガル代表

ベンフィカでの活躍により、55年3月にはポルトガル代表へ招集。親善試合のスコットランド戦で代表デビューを飾り、59年6月の東ドイツ戦で初ゴールを記録する。

ポルトガル代表は1914年から活動する古参だったが、過去4回のW杯予選でいまだ1勝もできず、国際大会でまったく実績のない弱小チームだった。

58年W杯予選も3敗1分けで敗退。62年W杯予選ではルクセンブルグ相手にようやく1勝を挙げたが、同組の強豪イングランドに敵うはずもなく、あえなく敗退。60年から始まった欧州ネイションズカップ(現、欧州選手権)でも成果を残せず、イベリアの弱小国の暗黒期は続いた。この間のコルナの代表活動については詳細不明である。

 

ベンフィカ、初のチャンピオンズカップ優勝

グロリア監督によって中盤へとコンバートされたコルナは、持ち前のスタミナ、テクニック、戦術眼に加え、守備能力も向上。ゲームメーカーとダイナモの役割を兼ね、チームの要として無くてはならない存在となる。

ベンフィカは56-57シーズンにリーグ優勝とタサ・デ・ポルトガルポルトガルカップ)の2冠を達成。40年代から隆盛期を築いていたスポルディングの時代を終わらせた。

翌57-58シーズンは、国内王者として初となる欧州チャンピオンズカップに出場する。だが予備予選でスペインのセビージャに2戦合計1-3と敗れ、力及ばず敗退。世界一流リーグの強豪を相手にして、まだ実力差があることを痛感させられる結果となった。

58-59シーズンはリーグ優勝を逃し、チーム再興の功労者だったグロリア監督が退任。その後任としてやってきたのは、ハンガリー人のベラ・グッドマン監督だった。

彼は第二次大戦前から活動するベテラン監督で、母国のホンベド、イタリアのACミラン、ブラジルのサンパウロといった有名クラブを指揮するなど豊富な経験を持っていた。傲慢不遜な態度でトラブルが絶えず、一つのクラブに長く留まることは殆どなかったが、その指導力には定評があった。

グッドマンは就任早々20人もの選手をお払い箱にすると、コルナやアグナス、ペレイラサンタナらアフリカ出身の選手をチームの中心に据えた。そして前任のグロリア監督より厳しい管理体制を敷き、サンパウロ時代に編み出した4-2-4システムで戦う。こうして59-60シーズンは攻撃陣が爆発し、リーグ優勝のタイトルを奪回する。

60-61シーズン、2度目となるチャンピオンズカップに出場。ベンフィカは大方の予想を裏切って快進撃を続け、ついにポルトガル勢初となる決勝戦へ到達する。その決勝の相手はバルセロナ、大会5連覇中だったレアル・マドリードを打ち破って勢いに乗るスペインの強豪だった。

前半21分、コチシュにシュートを決められ失点。だが31分にアグアスのゴールで追いつき、直後の32分には相手オウンゴールで逆転。後半55分にはコルナが左足ミドルを叩き込んで追加点が生まれる。終盤に1点を返されたためこれが貴重な決勝点となった。こうしてベンフィカが3-2と勝利し、念願の欧州ビッグタイトルを手に入れた。

 

「聖なる怪物」と「黒豹」

ベンフィカが欧州王者に輝く2ヶ月前の61年3月、コルナの故郷から一人の若者がリスボンへやってきた。それが当時19歳のエウゼビオ、のちに「南海の黒豹」と呼ばれることになる不世出のストライカーである。

コルナの家族とエウゼビオの家族は、同じロウレンソ・マルケス市の顔見知り。エウゼビオの母親は遠い地で暮らす内気な息子を心配し、コルナへの「世話をして欲しい」の手紙を託していた。するとコルナは7歳下の若者を身内のように可愛がり、読み書きの不得意な彼に代わって銀行口座の開設からお金の管理まで面倒を見た。

こうしてすぐにチームへ馴染んだエウゼビオは、1年目の61-62シーズンからリーグ戦17試合12ゴールの好成績。ベンフィカが前回王者として臨んだチャンピオンズカップでは、早くもエース的存在として活躍する。

準々決勝の第1戦はニュルンベルグに1-3と敗れるも、ホームでの第2戦はアグアスのゴールで先制し、エウゼビオの追加点で同スコアとする。そのあとコルナの得点が生まれて前半で逆転し、後半にもエウゼビオが追加点。最後は6-0の大勝を収め、ベンフィカが準決勝へ進む。そして準決勝ではイングランドトッテナムを連勝で下し、2大会連続の決勝進出となった。

決勝の相手は、ディ・ステファノ、プスカシュ、パコ・ヘントらスター選手を擁する「白い巨人レアル・マドリード。試合はたちまちプスカシュの左足が炸裂し、18分、23分と立て続けにゴールを決められ、2点を追う展開となる。

それでも25分にエウゼビオのFKからアグアスが1点を返すと、33分にはカベムのゴールで同点。しかし39分にプスカシュのハットトリックで再びリードを奪われ、2-3のビハインドで前半を折り返す。

後半の50分、コルナのミドルシュートが決まり同点。65分にはドリブル突破を試みたエウゼビオが倒されPKを獲得。いつもキッカーを務めるのはコルナだったが、エウゼビオの「僕でいいですか?」の申し出を快く了承し、彼にボールを譲った。そしてエウゼビオの右足シュートが見事ネットを揺らして、ついに逆転となった。

その5分後には、コルナのセットプレーからエウゼビオが追加点。ベンフィカが5-3と鮮やかな逆転勝利を収め、チャンピオンズカップ2連覇の偉業を成した。

コルナは勝利の立役者となったエウゼビオのため、恥ずかしがり屋の彼に代わってディ・ステファノに声を掛けて、偉大なフットボーラーのユニフォームを譲って貰ったという。

ベンフィカインターコンチネンタルカップ(のちトヨタカップ)でも2連覇を果し、このあとポルトガルの国内タイトルもほぼ独占。チャンピオンズカップでは計5度の決勝を戦った。圧倒的な存在感でピッチを支配したコルナは「オ・モンストロ・サグラード(聖なる怪物)」と呼ばれ、エウゼビオとともにクラブ60年代の黄金期を築いていっく。

 

初めての大舞台

64年、オットー・グロリアがポルトガル代表監督に就任。グロリア監督はかつて指揮したベンフィカの選手を中心に代表を構成し、主将のコルナにチームをまとめさせた。こうしてポルトガルは、本大会初出場を懸けて65年1月から始まったW杯欧州予選へ臨んだ。

トルコとの初戦は、コルナの先制点とエウゼビオハットトリックで5-1の圧勝。このあとエウゼビオの7ゴールによる活躍で、過去1勝のポルトガルが6戦4勝1分け1敗の躍進。62年W杯準優勝チェコスロバキアを押しのけての、ワールドカップ初出場を決める。

強いチームに生まれ変わったポルトガル代表は、国民から「マグリソッス」(ポルトガルの騎士道伝説に由来)の愛称で呼ばれるようになり、W杯本番での活躍が期待された。

66年7月、Wカップイングランド大会が開幕。初戦で64年東京五輪金メダルの強豪ハンガリーを3-1と退けると、第2戦はエウゼビオのW杯初ゴールでブルガリアを3-0と一蹴。第3戦で大会2連覇中のブラジルと対戦することになった。

開始14分、エウゼビオのクロスからシモンエスが先制点。25分にはコルナのセットプレーの流れからエウゼビオが追加点を決める。その直後には、ポルトガルDFの激しいタックルを浴びたペレが、膝を痛めてプレー続行不可能となり場外へ。当時は途中交代が許されていなかったため、ブラジルは10人となった。

それでも後半72分に1点を返されるが、85分にはエウゼビオが試合を決定づける3点目。初出場のポルトガルが優勝候補ブラジルを1次リーグ敗退に追いやり、3戦全勝での決勝トーナメント進出を決めた。

 

W杯初出場3位の快挙

トーナメント1回戦の相手は、「神秘のベールに包まれた謎の国」北朝鮮。1次リーグでは強豪イタリアを下すという大波乱を起こしており、決して侮れない相手だった。

その不安が当たり、開始1分に早くも失点。ポルトガル北朝鮮の驚異的な運動量と機敏さに対処できないまま、22分と25分にも得点を奪われてしまう。

たちまち3失点を喫したポルトガルを救ったのは、「黒豹」エウゼビオ。28分にシモンエスのスルーパスから1点を返すと、44分にはPKを沈めて2点目。後半の56分には鮮やかな突破からハットトリックとなる同点弾を叩き込む。

その2分後には、自ら得たPKを決めてついに逆転。80分にはアウグストの追加点が生まれ、5-3の大逆転勝利。チームを蘇らせたエウゼビオ4得点の活躍で、ベスト4進出となった。

だが準決勝ではボビー・チャールトンの2発に沈み、開催国イングランドに1-2の敗戦。ポルトガルゴードン・バンクスボビー・ムーア、ジャッキー・チャールトン、ノビー・スタイルズらイングランド鉄壁の守備陣を崩せず、終盤にエウゼビオのPKで1点を返すのが精一杯だった。

それでもソ連との3位決定戦を制して大会ベスト3の快挙。大会得点王は9ゴールを挙げたエウゼビオが獲得した。主将のコルナにゴールとアシストこそなかったが、その統率力でチームを結束させた功績は明らか。エウゼビオとともに大会ベストイレブンに選ばれる。

 

モザンビークサッカー界の重鎮

70年に35歳となっていたコルナは、チームの若返り方針によりベンフィカを退団。フランスのオリンピック・リヨンに新たな活躍の場を求めた。

ベンフィカはクラブの功労者に敬意を表し、送別記念試合を開催。コルナのためにヨハン・クライフ、ドラガン・ジャイッチ、ジェフ・ハースト、ウーベ・ゼーラー、ルイス・スアレスボビー・ムーアら欧州中の名選手が集まった。

16年を過ごしたベンフィカでは公式戦677試合に出場し、150ゴールを記録。リーグ優勝10回、国内カップ優勝6回と数々の栄光に輝いた。5度の決勝を経験したチャンピオンズカップでは58試合に出場。これは当時ディ・ステファノに並ぶ大会最多出場記録だった。

ポルトガル代表では68年10月から始まったW杯欧州予選に参加するも、チームに4年前の勢いはなく、グループ最下位で敗退。2大会連続のW杯出場はならなかった。

W杯予選のギリシャ戦を最後にコルナは代表を引退。14年間の代表歴で57試合に出場、8ゴールを記録した。

オリンピック・リヨンでは2シーズン在籍。そのあとポルトガルに戻ってアマチュアクラブのSCエストレーラで選手兼監督としてプレーし、72年に37歳で現役引退となった。

引退後の75年、モザンビークポルトガルから独立し共和国を樹立。コルナは指導者として故郷に戻り、テクスタフリカ・ド・チモイオの監督として全国選手権・初代王者のタイトルを獲得する。そのあとナショナルチーム監督、文化スポーツ大臣、サッカー連盟会長などの要職を歴任。重鎮として母国サッカーの発展に尽力した。

しかし晩年は肺感染症を患い、闘病生活を送っていた2014年1月5日、盟友エウゼビオ心不全で急死。病床でコメントを求められたコルナは「彼は私にとって息子のようなものでした。今は冷静に話すことができません」と悲しみに暮れた。

それから2ヶ月も経たない2月25日、エウゼビオのあとを追うように故郷のマプトで死去。享年78歳だった。