〈2020年7月28日の記事〉
米映画『風と共に去りぬ』のメラニー役などで知られるハリウッド女優、オリビア・デ・ハビランドさんが、7月26日にパリの自宅で亡くなった。死因は自然死(老衰)、享年104歳だった。今年の2月に103歳で亡くなったカーク・ダグラスさんとともに、ハリウッド黄金期を支えた最後の大スターだった。
39年の『風と共に去りぬ』では、主人公スカーレットに寄り添う誠実な女性メラニーを好演して米アカデミー賞助演女優賞にノミネート。このときオスカー獲得はならなかったが、後にアカデミー主演女優賞に2度輝いた。
12年に96歳で亡くなったジョーン・フォンティーンさんは実妹。ともにアカデミー主演賞に輝いたオスカー女優だが、不仲のスター姉妹としても知られていた。またオリビアさんは、米映画界で俳優側の立場強化に尽力した女優でもあった。
オリビアがこの世に誕生したのは1916年7月1日。英国人の両親が仕事の関係で日本に住んでいたため、オリビアと翌年生まれた妹のジョーンは東京生まれとなった。一家が日本を離れた19年に父親のウォルター・O・デ・ハビランドと母親のリリアンが離婚。母子3人はカリフォルニアに移住し、父は日本人家政婦と日本に戻ってのちに再婚した。
母リリアンは25年に百貨店経営者のジョージ・M・フォンティーンと再婚。だが娘二人はこの義父を好いておらず、またオリビアとジョーンも子供の頃から仲の悪い姉妹だった。ちなみに母リリアンは元舞台女優で、二人の娘は彼女の影響を強く受けている。
オリビアはカルフォルニア州サラトガの高校に進み、演劇部に所属。在学中にサラトガの地方演劇公演へ参加し、その演技を舞台で見ていた演出家の関心を引いて、映画『真夏の夜の夢』(35年)への出演を果たす。英語教師になるつもりで大学への進学を決めていたオリビアだが、このことがきっかけでワーナー・ブラザースと8年契約を結び女優への道を進むことになる。
義父との折り合いが悪かった妹ジョーンは、実父を頼り日本へ渡航、東京目黒の聖心女学院に通う。そしてそこを卒業した35年にアメリカへ帰国、すでに女優として名を知られていた姉につられて小さな劇団で芝居を始める。すると間もなくRKOにスカウトされ、ジョーン・クロフォードの恋仇役として映画デビューする。
キャリアの最初の頃は剣戟スター、エロール・フリンの相手役として人気を博していたオリビアだが、39年『風と共に去りぬ』のメラニー役が高い評価を受け、オスカーは逃したものの演技派女優への脱却を果たす。
40年にはアルフレッド・ヒッチコック監督『レベッカ』への出演依頼が舞い込むが、ワーナー社がオリビアの出演を許さなかったため、結局ヒロイン役は妹のジョーンが演じることになった。『レベッカ』は同年のアカデミー作品賞を受賞、それまでくすぶっていたジョーンも主演女優賞にノミネートされ、一躍人気女優に躍り出た。
41年、オリビアはパラマウントに貸し出されて『Holid Back the Dawn』に出演、アカデミー主演女優賞にノミネートされる。だが主演のオスカー像を手にしたのはオリビア・デ・ハビランドではなく、『断崖』(ヒッチコック監督)で候補となっていた妹のジョーン・フォンティーンだった。
式場に居合わせた皆が固唾をのんで見つめる中、姉に握手を求めるジョーン。だがオリビアはそっぽを向いて、差し出した手に応えることはなかった。「子供の頃からお互いに感じていた敵意、髪の引っ張り合い、取っ組み合い。オリビアに鎖骨を折られたこと。全てが走馬燈のように駆け抜けた」とジョーンは後に述懐している。
一方では、オリビアの祝福をジェーンがあからさまに拒否したという証言もあり、マスコミがおもしろおかしく書き立てることで、余計に姉妹の仲を遠ざけることになった。
二人の母リリアンは子供の頃からオリビアのほうを可愛がっており、ジョーンが女優になっても「デ・ハビランド」の名前を使うことを許さなかったらしい。この母親の偏った態度が、二人の仲を険悪なものにした要因だと言われている。
その後オリビアは46年の『遙かなる我が子』で念願のアカデミー主演女優賞を獲得、49年の『女相続人』で2つ目のオスカー像を手にした。退役軍人の夫と離婚したあと、フランス人と再婚したのを機に53年にパリへ移り住み、晩年まで健在ぶりを見せていた。
ちなみに、オリビアさんの代表作『風と共に去りぬ』に人種差別的な表現があるとして、一時動画配信が停止されていた。だが現在は、約4分の背景説明が付けられ配信が再開されている。