『飢餓海峡』『神々の深き欲望』『復讐するは我にあり』等の映画で迫真の演技を見せる一方、人気コメディシリーズ『釣りバカ日誌』では好々爺の社長を演じるなど、幅広い役柄をこなした個性派俳優・三國連太郎。
その生き様は、宿痾に見舞われた罪深き人間そのもの。若くして放浪と女性遍歴を繰り返し、俳優となってからも数々の問題行動で “反逆児” のレッテルを貼られた。またその徹底した役作りと、憑依の凄ましさから「怪優」と称される。
映画界入りは27歳と遅かったが、60年に及ぶ俳優生活で主演・助演問わず180本あまりもの映画に出演。狂気を演じながら晩年まで役者バカとしての人生を貫いた
三國連太郎の本名は佐藤政雄、出生は1923(大正12)年1月20日となっている。母親 ”はん” は静岡県伊豆の大きな網元の娘だったが、家業が没落し広島県の軍人宅に女中奉公。ここで若い軍人の子供を身ごもり、奉公先に知られて追い出され、16歳のときに故郷へ舞い戻っていた。
その伊豆の船場で電気工事の渡り職人・佐藤正と出会い、この男の仕事場であった群馬県太田市で子供を出産。つまり三國は私生児としてこの世に生まれた。
養父となった正は被差別部落の出身者で、家業である棺桶屋を継がず電気工事職人として働いていた。のちに三國は自らの出自をカミングアウトすることになるが、生まれながらにして重い宿業を背負っていたのだ。
少年時代を西伊豆で過ごし、養父との関係は悪くなかったが、旧制中学校に入学したころ愛人をつくり出奔。その原因が母の養父に対する蔑視にあると考えた三國は、女のいやらしさを見せる母親に嫌悪感を持ち続けた。旧制中学は配属将校の軍事教練を嫌って二年で無断中退。ここから三國の放浪癖が始まる。
14歳で家出をし、下田に停泊していた中国・山東省行きの輸送船にこっそり乗り込み、青島まで密航。青島では19歳と偽り日本人街のダンスホールで働き、その後釜山に移って弁当売りで帰国の船賃を稼ぐ。
帰国後は郷里の伊豆に帰らず大阪で生活。三國はここで「泥棒とヤクザ以外は、手当たり次第に仕事をした」と振り返るほど何でもやり、当時付き合っていた女性のアパートで同棲を始める。
20歳のときに徴兵検査を受けて甲種合格。しかし三國は兵役を逃れるため、同居していた女性と九州を経由しての大陸逃避行を計画。しかし渡航を直前にして憲兵に捕まってしまい、とうとう入隊せざるを得なくなった。
入隊直後は中国戦線の漢口へ配属。だが上官に目をつけられ殴られる毎日に嫌気が差し、脱走しては捕まるという軍隊生活。そんなとき中国・八路軍の急襲を受けて窮地に陥るも、田んぼの肥だめに一晩中隠れて難を逃れた。
そのあと仮病を使って北京の病院へ入院。三國が漢口に戻った時、すでに部隊は南方戦線へ移動していた。彼の所属した静岡連隊には総勢千数百人の兵士がいたが、苛酷な戦地で生き延びたのは1割にも満たなかったという。三國は戦うことよりも、生きることへの執着を見せたのだ。
中国で終戦を迎えた三國は帰国便の乗船許可を得るため、行方不明となった同じ佐藤姓の上官の軍籍を詐称。さらに妻帯者なら帰国を優先されると言う噂を信じ、漢口にいた宮崎県出身の女性と結婚。46(昭和21)年6月に復員を果たす。
帰国後は結婚した女性のツテを頼り宮崎交通に就職。そこも2年で辞め、女性と別れてインチキな石鹸やクリームを売る闇屋稼業をしながら長野、静岡、鳥取と各地を転々。腰を落ち着けた鳥取で資産家の娘と知り合い再婚をする。
そして50(昭和25)年、職探しに訪れた東京・銀座で松竹のプロデューサーにスカウトされ、映画俳優への道を進むことになる。三國はこのとき27歳であった。
翌51年、木下惠介監督の『善魔』で映画デビュー。この時の役名 “三國連太郎” をそのまま芸名とし、ブルーリボン賞新人賞を受賞して注目される。
そのあと『宮本武蔵』(54年、稲垣浩監督)『ビルマの竪琴』(56年、市川崑監督)『夜の鼓』(58年、今井正監督)『切腹』(62年、小林正樹監督)など名監督の作品で存在感を示し続け、65年の『飢餓海峡』(内田吐夢監督)の主演で性格俳優としての地位を確立。
その後も『神々の深き欲望』(68年、今村昌平監督)『戦争と人間』(70年、山本薩夫監督)『戒厳令』(73年、吉田喜重監督)『復讐するは我にあり』(79年、今村昌平監督)『利休』(89年、勅使河原宏監督)『息子』(91年、山田洋次監督)などの名作群に出演し、日本を代表する演技派俳優の評価を不動のものとする。
87年には、自ら企画・監督した『親鸞 白い道』がカンヌ国際映画祭の審査員賞を受賞。また88年からは松竹のドル箱シリーズ『釣りバカ日誌』でスーさん役を演じるなど、幅広い活動で斜陽期にあった日本映画を牽引していった。
だがその徹底した役作りと、ひとつに縛られることを嫌う生き方は「役者バカ」「奇人」「反逆児」としてのエピソードに溢れていた。
まだ新人時代だった52年には、社員契約する松竹の意向に逆らって東宝の『戦国無頼』(稲垣浩監督)に強行出演。当時俳優を縛っていた「五社協定」に違反し、松竹を懲戒解雇される。その後も東宝、日活、東映と契約しては、フリーの身となるということを繰り返していった。
57年に出演した『異母兄弟』(家城巳代治監督、独立プロ)では、共演した当時46歳の田中絹代が16歳の乙女を演じたのに対抗し、32歳の三國は上下の歯10本を抜いて老け役を力演。しかも治りが早いという理由で麻酔なしの抜歯だった。
58年の『夜の鼓』では、監督(今井正)に命じられて妻役の有馬稲子を本気で殴打。美人女優の顔が腫れ上がりながら何度も撮り直し、ついには有馬が気絶してしまい大騒ぎになったという。
代表作となった『飢餓海峡』では、内田監督の指示で左幸子と本気の濡れ場。足尾銅山鉱毒事件を題材にした『襤褸の旗』(74年、吉村公三郎監督)では、明治の社会運動家・田中正造になりきり熱演。強制執行する官吏と争う場面で、馬糞混じりの土をアドリブで口に含み、共演者の西田敏行を驚かせる。
連続殺人鬼の父親役を演じた『復讐するは我にあり』では、主役の緒形拳とバチバチの演技合戦。台本にはなかったが、拘置所の面会シーンで緒方の顔に痰を吐きかけ、迫真の場面を生みだした。
こうして三國は愚直なまでに自分の演技へ没頭、そののめり込みぶりから「怪優」の名を頂戴するようになった。
また母親への反発からか、その生涯で女性遍歴を繰り返した三國連太郎。52年に2番目の妻と離婚し、翌53年には元神楽坂の芸者と3度目の結婚。この7年後に生まれたのが、後に俳優となった佐藤浩市である。
このころ神楽坂に邸宅を構えた三國は、母親と弟一人、妹二人を自宅に呼び寄せる。さらに伊豆に住む養父が脳卒中で倒れると、愛人と共に引き取りその面倒を見た。そのため息子の佐藤浩市は、特殊な家族環境の中で幼少期を過ごすことになった。
そんな暮らしを送っていた63年に出会ったのが、俳優座の新進女優・太地喜和子だった。このとき三國は41歳で、太地はまだ20歳。二人は年の差を越え互いの魅力に惹かれ、たちまち深い関係となっていく。
一時は妻子を捨てる事まで考えた三國だが、太地が女優を辞めてまで一緒になるつもりのないことを知ると、二人が共倒れになることを恐れて別れを決意。その関係は3ヶ月で終わった。
72年には神楽坂の邸宅と財産を妻に譲り渡して3度目の離婚。三國は49歳にして再び放浪の旅に出た。そして、自身を投影した自主製作映画『岸辺なき河』撮影のため、アフガニスタン、パキスタンを巡るも、製作が行き詰まり完成の予定が立たないまま帰国を余儀なくされる。
帰国後はしばらく車中生活を送っていたが、面倒を見てくれていた友人カメラマンの奥さんに女性を紹介され、4度目の結婚。最後の妻とは長年連れ添うことになる。
74年には母はんが69歳で死去、翌75年には郷里に戻っていた養父の正が76歳で亡くなった。三國は母親の危篤を聞いてもロケ先の北海道から戻ることはなかったが、養父の危篤を知ったときには仕事を放りだして駆けつけたという。
96年の映画『美味しんぼ』(森﨑東監督)では、息子の佐藤浩市と親子役で初共演。そのあとも映画界の重鎮として現役を続け、13年4月14日に急性呼吸不全により90歳で死去。12年公開『わが母の記』(原田眞人監督)が遺作となった。