米アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされること14回、そのうち4度の受賞を果たしたアメリカ映画界きっての名女優、キャサリン・ヘプバーン。
いわゆるハリウッドの典型的美女ではないが、抜群の演技力と聡明さを感じさせる佇まいで独自の個性を発揮。また中性的魅力とチャーミングさを持ち合わせながら、誇り高き女性も演じ続けた。
彼女の魅力は大富豪ハワード・ヒューズの心を捉え、結婚を考える仲にまでなったがやがて破局。そのあと生涯独身を貫きながら、名優スペンサー・トレイシーと公私ともに深いパートナー関係を築いている。
キャサリン・ホートン・ヘプバーンは1907年5月12日、コネチカット州ハートフォードで6人兄妹の長女として生まれた。父トーマスは町の外科医で、母マーサは婦人参政権運動の活動家。リベラルな気風の家庭でキャサリンは少女時代を過ごした。
お転婆娘だった彼女は父親の影響を受け、幼い頃からダイビング、スウィミング、ランニング、レスリング、体操と様々なスポーツに親しみ、特にテニスとゴルフは上級者の腕前までいったといわれる。
スポーツのほかにも演劇や映画に関心を持ち、少女時代のヒーローはサイレント時代の西部劇スター、トム・ミックスやウィリアム・S・ハートであったという。
そんなことから芝居にも興味を持つようになり、心理学を修めたブリンナー大学で学生演劇に熱中。21歳で卒業したあと、ボルチモアの劇団で初舞台を踏む。
だが緊張するとカン高い声を出してしまうという悪癖で苦労し、ニューヨークに出て発生の訓練を受けるなど下積み時代を送った。またこの頃には、学生時代に知り合ったラドロウ・オグデン・スミスと結婚をしている。
そして多くの舞台を踏むうちブロードウェイでも注目される新人となり、32年にRKO社の『愛の嗚咽』で映画デビュー。舞台に専念するキャサリンは当初この話に乗り気でなかったものの、断る気で出した高額ギャラの条件をRKOが呑んだため、引っこみがつかなくなって出演を承諾したという。
この映画のヒロインには多くの女優が売り込みを掛けていたが、キャサリンの演技力を高く評価したジョージ・キューカー監督の推薦により出演が決定。このあとキャサリンは「女性映画の名手」キューカー監督と何度もコンビを組み、2人は生涯の盟友関係となる。
33年『勝利の朝』でアカデミー主演女優賞を受賞。同年の『若草物語』(J・キューカー監督)で演じた次女ジョーは彼女の当たり役となり、カンヌ国際映画際で主演女優賞に輝く。こうしてキャサリンは、ハリウッドきっての演技派女優と認められるようになった。
だが普段からドレスで着飾ることをせず、当時は珍しかったパンツスタイルで通したキャサリン。インタビューを嫌い、アカデミー賞など公の場にも出席することなく、反抗心を貫き通す彼女は映画会社の悩みの種だったそうだ。
そんな彼女に魅力を感じたのが、大富豪で映画製作者のハワード・ヒューズ。34年にラドロウと離婚したばかりのキャサリンも、活動的で冒険心に溢れる男ハワードに惹かれていくようになる。
2人は映画、ゴルフ、飛行機と共通の活動に情熱を注ぎ、濃厚な時間を過ごして結婚を考えるまでの仲となる。だが個性と独立心の強い似た者カップルは、互いに自分を譲ることなく、やがて気持ちが離れていった。
34年にはジョン・ヒューストン監督の『赤ちゃん教育』に主演、最高のコメディエンヌとしての才能を開花させる。今ではスクリューボール・コメディの傑作として名高い本作品だが、公開当時は赤字となるほどの不入りで、この頃からキャサリンには「ボックスオフィス・ポイズン(金にならないスター)」のレッテルが貼られるようになる。
そんな苦境の中で起死回生の一打になったのが、39年の『フィラデルフィア物語』。元恋人のハワード・ヒューズにブロードウェイ作品の映画化権を譲って貰ったキャサリンは、MGM社の帝王、ルイス・B・メイヤーと自ら交渉を行う。
映画化権をMGMに売却する代わりに、監督にJ・キューカー、共演者にケイリー・グラントとジェームズ・スチュワートを指名。脚本もチェックするという条件まで認めさせる。
映画は公開されるやいなや大ヒット。キャサリンは「ボックスオフィス・ポイズン」の汚名を返上し、名実ともにトップスターの地位に躍り出た。
同時期キャサリンは『風と共に去りぬ』(39年)のヒロイン、スカーレット・オハラの役も熱望したが、プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックからは「クラーク・ゲーブルが君を10年追い続けるなんて想像できない」と断られている。
42年には『女性No.1』(ジョージ・スティーブンス監督)に出演。このとき出会ったのが、かねてから共演を願っていた名優スペンサー・トレイシーである。
ハリウッドの優男たちに辟易していたキャサリンは、トレイシーの持つアイルランド気性の荒々しさと、その男っぽさにたちまち魅了される。そして2人はすぐに愛し合うようになり、仕事でも9本の映画で名コンビとして共演。公私ともに深いパートナーシップを結んだ。
しかしトレイシーは妻子持ちの身。妻ルイーズとは長く別居状態にあったが、クリスチャンであったことと、障害者の息子を苦労して育てて貰ったという負い目から、離婚をすることはなかった。
キャサリンはそんなトレイシーを理解し、ヤケになって酒に溺れることもあった彼に対し、良きパートナーとしてかいがいしく面倒を見続けていた。
旬を過ぎると忘れられることも多いスター女優の中で、キャサリンはベテランになっても主役の座を保ち続け、『アフリカの女王』(51年、J・ヒューストン監督)、『旅情』(55年、デヴィッド・リーン監督)、『去年の夏 突然に』(59年、ジョセフ・L・マンキウィッツ監督)などの名作に出演。67年には『招かざる客』(スタンリー・クレイマー監督)でトレイシーと最後の共演を果たす。
夫婦を演じた映画の公開を前に、トレイシーは心臓発作を起こして死去。病院での最期を看取ったのはキャサリンだった。だが彼女は妻ルイーズに遠慮し、亡きパートナーの葬儀を欠席する。この作品でキャサリンは2度目の主演賞に輝くが、もちろん式典の壇上に彼女の姿はなかった。
スペンサーの死で引退もささやかれたキャサリンだが、翌68年の『冬のライオン』で意欲的に撮影へ取り組み、3度目のオスカーを獲得。その後も映画や舞台で精力的な俳優活動を続けた。
74歳となった81年には、ブロードウェイ舞台の映画化作品『黄昏』で76歳のヘンリー・フォンダと初共演。それまで父と確執のあった娘、ジェーン・フォンダからの依頼を受けての出演であった。
映画で老夫婦を演じたキャサリンとヘンリーは、第54回アカデミー賞で2人揃って主演賞を受賞。このとき体調を悪化させていた父に代わりジェーンがオスカー像を受け取り、5ヶ月後にヘンリーはその生涯を閉じている。
このあとキャサリンは85歳まで現役キャリアを貫き、03年6月29日、故郷のコネチカット州で老衰により死去。享年96歳だった。