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嫌われた大女優 ジェニファー・ジョーンズ

 

栄光と転落の生涯

黒髪の東洋的な美貌と幅広い演技で、40年代から50年代にかけてハリウッドの代表的女優となったジェニファー・ジョーンズ

 

長い下積み時代を経て、初のメジャー出演作『聖処女』でいきなりアカデミー主演女優賞に輝くと、大プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックの庇護のもとで『白昼の決闘』『黄昏』『終着駅』『慕情』などの名作で輝きを見せた。

 

だが栄光の時期は長く続かず、夫のセルズニックが65年に亡くなったあと、次第に映画界から忘れられる存在となる。晩年はアルコール中毒精神疾患に苦しむなどして表舞台から遠ざかり、74年に出演した『タワーリング・インフェルノ』が最後の花道となった。

 

下積み時代

ジェニファー・ジョーンズ(本名、フィリス・リー・イズリー)は、1919年3月2日生まれのオクラホマ州タルサ出身。両親はともに地方巡業を行なう劇団俳優で、娘も早い時期から子役として舞台に立っていた。

両親の希望でノース・ウェスタン大学に進学するが、女優を志して中退後にニューヨークのアメリカ演劇学校へ入学。そこで同じ俳優志望のロバート・ウォーカーと出会い、恋人となった二人は39年に結婚する。

結婚後は故郷のオクラホマに戻っていたが、父親の勧めで夫婦ともどもハリウッドに移り、パラマウント社のオーディションに応募した。

二人ともテストに不合格となるも、若い妻はチャンスを得てB級映画会社のリパブリック社と契約。低予算西部劇の『ニューフロンティア』で銀幕デビューを果たす。ちなみにこの西部劇の主演は、『駅馬車』でスターとなる前のジョン・ウェインである。

しかしこれで彼女が注目されることはなく、連続短編活劇『ディック・トレイシー』で脇役を得ただけ。下積み時代は続いた。

夫ロバートはラジオの仕事で生活費を稼ぎ、40年に長男、41年には次男が誕生。一家はささやかながらも幸せな時間を過ごした。後に二人の息子たちも俳優となっている。

 

セルズニックとの出会い

41年にはブロードウェイ劇『クラウディア』のオーディションを受け、役を得ることは出来なかったが、これがきっかけとなり成功への道が拓けることになる。

オーディションに立ち会っていた劇作家から、ハリウッドの大プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニック風と共に去りぬレベッカなどを製作)を紹介され、彼のオフィスに行って台本テストを受けることになった。

しかし緊張から上手くセリフが喋れず、ついには泣き出してオフィスを退散。だがすっかり諦めていた彼女のもとに、翌日セルズニックの秘書から「もう一度来るように」の電話が入る。

イングリッド・バーグマンヴィヴィアン・リー、ジョン・フォンティーンというスターを育てながら、彼女たちに職業的関心しか持たなかったセルズニックが、純朴な新進女優にひと目ぼれしてしまったのだ。

こうして彼の会社と専属契約を結ぶことになり、“ジェニファー・ジョーンズ” という芸名を付けられる。このときジェニファー23歳、セルズニックは40歳。やがて二人は深い関係となった。

セルズニックの後ろ盾を得たジェニファーは、ベストセラー小説・映画化企画の主役オーディションに合格。43年公開の主演作『聖処女』(ヘンリー・キング監督)は高評価を得て、アカデミー賞8部門にノミネートされる。

 

ロバートの不幸

初の大役に臨んだジェニファーは、いきなり主演女優賞のオスカーを獲得。一躍スター俳優の座に躍り出た。しかし彼女が新人でないこと、子持ちの既婚者であることは秘密とされ、映画撮影中はセルズニックの徹底した管理のもとに置かれることになった。

しかしこのことがロバートとの軋轢を生み、やがて夫婦は別居。妻を奪われた哀れな夫は「どうしてセルズニックのような男と太刀打ちできるだろう」と嘆き、酒に酔っては暴れたという。

飲酒運転で重傷を負う事故も起こすが、ジェニファーが見舞いに顔を出すこともなく、二人は45年に正式離婚。その後ロバートは役者としての仕事が軌道にのり、48年には巨匠ジョン・フォード監督の娘、バーバラと結婚する。

だが酒に溺れたロバートの暴力により、娘が虐待されていることを知ったフォード監督は激怒。二人を別れさせため、結婚生活は1年ともたなかった。ロバートにはまだ、ジェニファーへの未練が捨てきれずにいたのだ。

51年にはヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』で犯人役を好演するが、同年の8月に心臓発作を起こして32歳の若さで亡くなっている。

 

キャリアの絶頂

46年にセルズニックが製作した西部劇大作『白昼の決闘』(キング・ヴィダー監督)で4度目のアカデミー主演賞にノミネート。二人の関係はもはや公然の秘密となり、出会ってから5年後の49年にふたりは結婚する。

こうして私生活・仕事ともに充実した時期を送ったジェニファーは、演技の幅を広めて『黄昏』(52年、ウィリアム・ワイラー監督)、『終着駅』(53年、ビットリオ・デ・シーカ監督)、『慕情』(55年、ヘンリー・キング監督)などの名作群で順調にキャリアを重ねていった。

特にウィリアム・ホールデンと共演した『慕情』では、そのエキゾチックな風貌で英中混血の女医を好演。異国情緒豊かな香港を舞台とした悲恋物語と、マット・モンローによる甘美な主題歌が人々の心を捉え、恋愛映画のスタンダードとなった。

 

不人気女優

しかしロバートの急死以降、ジェニファーには「夫を捨てて権力者に走った女」の悪いイメージがつきまとうことになる。またマスコミ嫌いだったことから「お高くとまっている」という風評も受け、次第に人気は失われていった。

セルズニックはそんな彼女のため、そして低迷期にあった自身を挽回するため、57年にヘミングウェイの文芸大作『武器よさらば』を製作する。

しかしこの時ジェニファーは38歳。相手役のロック・ハドソンより6つも年上なのに、20歳のヒロインを演じるには無理があった。さらにジョン・ヒューストン監督は、セルズニックからの「妻の出番を増やせ」というたびたびの口出しに嫌気がさし、途中で映画を降りてしまった。

公開された『武器よさらば』は、批評的にも興行的にも大惨敗。セルズニックは巨額の負債を負い、失意のうちに65年に63歳で死去する。

 

波乱の後半生

ジェニファーは『武器よさらば』以降ほとんど映画に出演することもなくなり、夫の死後は睡眠剤中毒とアルコール中毒により療養所暮らしも経験している。67年には孤独と絶望に堪えきれず自殺を図るが、一命を取りとめた彼女に対し、マスコミはただ冷笑を送るだけだった。

追い込まれたジェニファーは、69年に超マイナー作品『ザ・ダムド / あばかれた虚栄』へ出演。エクスタシーを感じたことのない元ポルノ女優というダーティーな役を演じ、「 “聖処女” でアカデミー賞を受けた女優が・・」と世間の批判を浴びることになった。

それでも71年には億万長者のノートン・サイモンと再婚し、生活の安定を得ると、74年には大作パニック映画『タワーリング・インフェルノ』に出演。これが最後の出演作となったが、ゴールデングローブ賞助演女優賞にノミネートされるなど、久々に充実した時期を過ごす。

しかしその2年後の76年5月、セルズニックとの間に生まれた娘メアリーが、ロサンゼルスにあるアパートの22階から飛び降り自殺。まだ21歳の若さだった。

自殺の原因は精神疾患によるものと考えられ、娘の死を嘆き悲しんだジェニファーは80年に「ジョーンズ財団」を設立。心の病に苦しむ人たちのメンタルケアにあたった。

晩年は長男家族とマリブの高級住宅街に暮らし、静かな余生を送る。09年12月17日、老衰により自宅で死去。享年90歳だった。