日本初の国際映画スター、早川雪洲。明治時代の終わりに単身アメリカへ渡り、創生期ハリウッドのサイレント映画でデビュー。1915年に出演した『チート』では、悪役ながらエキゾチックな表情で米国女性を悩殺する。映画は大ヒットし、ルドルフ・ヴァレンティノに並ぶ異国出身の人気者となった。
第一次世界大戦(1914~18年)後は英仏でも活躍。米欧でトップスターに輝いた最初のアジア系俳優となる。米英合作映画『戦場にかける橋』(57年公開)では厳格な日本軍将校を演じ、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされている。
一方、ハリウッドでの成功を助けた青木鶴子という良妻を持ちながら、3人の婚外子を設けるなど奔放な私生活を送った雪洲。しかしその風格と存在感を晩年まで保ち続け、日本の国内外で活躍した。
早川雪洲は1886(明治19)年6月10日、千葉県朝夷郡千田村(現、南房総市千倉町千田)の網元の家に生まれた。本名は早川金太郎、6人兄姉の末っ子だった。父親の躾は厳しく、幼い頃から四書五経(儒教の古典)を学び、剣道や座禅で心身を鍛えたという。
海軍大将を志し東京の海城学校(海軍予備校)に入学するが、帰省した際に海へ潜って鼓膜を破るというアクシデントに遭い、後遺症のため海軍兵学校の受験も失敗。大きなショックを受けた雪洲は、ハラキリによる自殺未遂騒動を起こしている。
失意に沈む中で人生の転機となったのは、1907(明治40)年に起きた米貨客船ダコタ号の白浜沖座礁事故。得意としていた英語を生かし、村民に救出されたアメリカ人乗客の世話に当たったことが、そのきっかけとなった。
多くのアメリカ人と触れ合った雪洲は、彼らに触発され異国の地で身を立てることを決意。元々この地域からは、多くの村民がアワビ漁のためカルフォルニアまで出稼ぎに行っており、(雪洲の長兄もその一人)その決断は突拍子なものでもなかったようだ。
こうして雪洲がアメリカに渡ったのは、ダコタ号座礁事故から4ヶ月後の1907年7月25日。この時21歳、青雲の志に燃える若者だった。
しかし名門シカゴ大に入学して通信教育を受けるも、1年で挫折。そのあと皿洗いや農場作業、ボーイなどの仕事をして生活費を稼いだが、当時日本人移民の急増で起きた “排日運動” のあおりを受け、「口には出せない程の辛酸をなめた」という。
下働きの生活に行き詰まった雪洲は、もともと演劇に興味を持っていたことあり、日本人主宰の素人劇団に参加。主役を務めてロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルと西海岸の日本人タウンを公演して回るようになる。
11(明治44)年に自分の劇団を立ち上げるが、やがて日本人相手の興行に飽き足らなくなり、欧州で流行っていた舞台『タイフーン』のアメリカ人向け公演を計画。『タイフーン』は日本人を主人公とした物語で、シカゴでも上演されていたが、そのキャストはオール白人。雪洲はこれを日本人中心のキャストで公演しようと奔走した。
その執念が実り、雪洲主演の『タイフーン』は1913年に初上演。舞台はアメリカ人観客にも好評を博し、興行的にも成功。「早川雪洲」と名乗りだしたのはこの時である。敬愛する西郷隆盛の号「南州」から頂いたもので、最初は「北州」を使っていたが、同名の者がいると分かり「雪洲」とした。
『タイフーン』の舞台を観ていたのが、ハリウッドデビューを果たしたばかりの女優・青木鶴子だった。鶴子が契約するニューヨーク・モーション・ピクチャー社(NYMP)の社長、トーマース・H・インスに舞台の評判を話したことから、雪洲もNYMPと契約することになった。
鶴子は、“オッペケペー節” で知られる「新派劇の父」川上音二郎の姪。音二郎・貞奴夫婦が主宰する川上劇団の米国公演に子役として連れてこられるが、失敗続きの巡業で足手まといとなり、現地に置き残されてしまった。
当時10歳の鶴子を引き取ったのが、サンフランシスコで成功していた日本画家の青木敏夫である。青木の養女として育った鶴子は、知人女性の紹介で演劇学校に入学。それがきっかけとなり『ツルさんの誓い』で映画デビュー。神秘的な東洋美女という物珍しさもあり、鶴子はたちまちハリウッドで注目されるようになった。
雪洲の映画デビューとなったのは、鶴子が主演した『神々の怒り』(14年)。桜島噴火を題材にしたスペクタクル映画だった。その4ヶ月後に雪洲主演の『タイフーン』が公開。鶴子は相手役を務めながら、まだ映画に慣れない雪洲を助けた。
この2作は反響を呼び、雪洲の存在はアメリカ中に知られることになる。そして雪洲と鶴子はすぐに恋に落ち、『タイフーン』の撮影終了後に結婚。このとき雪洲は27歳、鶴子は24歳だった。
『タイフーン』のヒットのあと、雪洲はNYMPを離れフェイマス・プレイヤーズ社(現パラマウント)と契約。15年にはセシル・B・デミル監督の『チート(欺瞞・不貞)』に出演する。
雪洲が演じたのは、日本の古美術商 トリイ。上流階級のマダムが株式投資で失敗したのにつけ込み、金を貸す代わりに彼女を手籠めにしようとするヒール役である。
この映画で話題を呼んだのは、トリイが美術品に印す「焼きごて」を、自分の所有物としてマダムの肩に押し当てるシーン。
「焼きごて」を押した女性の肌から煙が昇るショッキングな場面は観客たちを興奮させ、眼光鋭い日本人のエキゾチックなルックスと、その匂い立つようなエロチズムは、たちまちアメリカ人女性を虜にしていった。
『チート』は予想を遙かに上回る大ヒット、“セッシュウ” は一晩にしてハリウッドのトップスターにのぼり詰めた。しかし日系社会で『チート』は「誤解と偏見を生む」と反発を呼び、母国の日本では “国辱的” な内容だとして上映禁止になっている。
それでも雪洲は「稼げるスター」として数多くのハリウッド映画に出演。その後デビューしたイタリア系のルドルフ・ヴァレンティノと、「異国出身のセックスシンボル」と呼ばれて人気を二分する。
雪洲に支払われる高額ギャラは、喜劇王チャーリー・チャップリンと比べても遜色ないものだった。17(大正6)年には「グレンギャリ城」と呼ばれる大豪邸へ引っ越し、連日のように宴が行なわれ、ハリウッドでも指折りの社交場となったという。
18年には独立プロを設立するが、排日運動の激化と身に危険が及び始めたことにより、22(大正11)年に解散。「グレンギャリ城」も売却された。
翌23年、フランス映画界からのオファーを受けた雪洲は、日露戦争の日本海海戦を題材にした『ラ・バタイユ(戦闘)』に妻とともに出演。鶴子はこの作品を最後に女優を引退している。
仏海軍の全面協力を得た大作『ラ・バタイユ』は、2年のロングラン上映を続ける大ヒット。そのあと英王室に招かれ、舞台劇『神の御前に』をロンドンのコロシアム劇場で公演を行なう。
『神の御前に』は満員御礼となる人気を博し、英国滞在中に雪洲のために書かれた『ザ・サムライ』も大成功。日本人スターはヨーローパでも大きな名声を得た。
しかし調子に乗りすぎたのか、モナコのカジノで全財産をスッて無一文。断崖から身を投げて自殺したという誤報(すぐに別の日本人投身と判明)もなされた。そのあと25年にアメリカへ戻り、ニューヨークを拠点とした本格的な舞台活動を始める。
26年にはボードビルのツアーに加わり、全米とカナダを巡業。その巡業中、40歳の雪洲は相手役を務めていたルース・ノーブルを愛人にする。ルースは鶴子が見つけてきた10代の新進女優だった。
28(昭和3)年に愛人ルースが雪洲の子を妊娠、明けて29年の1月1日に男の子を出産した。それを知った鶴子は「天と地が逆さまになる」ほど驚き、悩んだ末に夫へ離婚を告げる。ちなみに鶴子との間に子供はいなかった。
だが赤ん坊を連れてスタジオに押しかけ騒ぐなど、ルースの常軌を逸した行動に雪洲の心は離れていく。そういった事情もあり、「自分の子供を彼女に任せられない」と鶴子を説得を行なう。
それで離婚を思いとどまった鶴子は「雪夫」と名付けられた男の子を引き取り、我が子として育てることになった。
だが雪洲に裏切られた上に子供を奪われたルースは恨み爆発、31年に親権を巡っての訴訟を起こす。そして裁判の結果、ルースへ慰謝料が払われる代わりに養育権は雪洲夫妻のものとなる。
愛人スキャンダルやトーキー映画時代の到来により、アメリカの雪洲人気は急下降。32(昭和7)年に帰国し、日本で映画俳優としての活動を行なう。
同年6月には鶴子が雪夫を連れて帰国。そのあとを追っかけるようにルースも来日し、雪夫に会わせろと迫ってきた。以降もルースは異常な執念で、雪洲を追いかけ回すことになる。
それでも雪洲の女性遍歴は収まることなく、女優志望だった17歳のシズに目を付け、愛人として囲った。34年にはシズとの間に長女・令子が誕生、35年には次女の冨士子が生まれたが、もちろん鶴子はそのことを知らなかった。
36年には日独合作映画『新しき土』に出演。当時17歳の新人女優、原節子の父親を演じた。同年末にはフランスから映画『ヨシワラ』のオファーが舞い込み、勇躍パリへ出発。数ヶ月の滞在予定だったが、その後10年以上日本の土を踏むことはなかった。
パリでは『ヨシワラ』主演女優の田中路子と恋仲になり同棲、お互い既婚者という奔放な恋愛だった。この欧州の地にもルースが追っかけてきて、愛人同士で鉢合わせしている。
路子との関係は長く続かなかったが、雪洲はパリで独立プロを設立。ヨーロッパに腰を落ち着けての活動を始める。やがて日本への送金は途絶え、鶴子たちの生活は困窮。残された一家は家財を売って糊口をしのいだ。
生活に困ったのは愛人のシズも同じで、彼女は二人の娘を連れて鶴子のもとを訪問。もはや夫の浮気に驚かなくなっていた鶴子は、あっさりその子たちを引き取った。
39年には第二次世界大戦が勃発。ドイツ軍パリ占領により一時期消息不明となるが、終戦後の49(昭和24)年に『東京ジョー』でハリウッド復帰。同年10月には13年ぶりに日本へ帰国し、初めて家族5人が揃った。このとき雪洲は63歳、鶴子60歳。長男の雪夫は20歳、長女の令子は15歳、次女の冨士子は14歳となっていた。
このあとも日本を中心に俳優活動を行ない、57年にはデヴィッド・リーン監督『戦場にかける橋』に出演。最初は気乗りせずオファーを断ったが、脚本を読んだ鶴子の強い勧めにより出演を決めた作品だった。
『戦場に架ける橋』は、第30回米アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞など主要7部門を独占する名作となった。捕虜収容所所長を演じた雪洲も、助演賞受賞は逃したものの名優の存在感を世界に示した。また60年の米作品『戦場よ永遠に』では、37年ぶりに映画復帰した鶴子と夫婦共演している。
61年1月にはルースがまたもや慰謝料を求めて訴訟。裁判は雪洲夫婦の勝利に終わり、5月にルースが52歳で急死。雪洲の自業自得とはいえ、彼女の30年余りに及んだ迷惑行為は終わりを告げた。しかしその5ヶ月後、今度は鶴子が急性腹膜炎により72歳で亡くなってしまう。
78歳となった64年には38歳年下の日本舞踊家・吾妻秀穂と再婚。その後もNHKの大河ドラマ『太閤記』(65年)で武田信玄を演じるなど、晩年まで精力的に活動した。
1973(昭和48)年11月23日、東京都内の病院で肺炎により逝去。享年87歳だった。