サイレントノイズ・スタジアム

サッカーの歴史や人物について

サッカー日本代表史 1. ベルリンの奇跡

 

 

記録によると、日本最初のサッカー国際試合が行なわれたのが1917年5月9日。もう100年以上も前のことになる。東京で開催された第3回極東選手権大会の競技のひとつとして日本チームが参加し、その時は中華民国に0-5で敗れている。

 

翌10日に行なわれたフィリピンとの試合も2-15で惨敗しており、当時は日本のレベルが相当低かったことが窺われる。ちなみにこの時点では日本サッカー協会は設立されておらず、選抜チームを作るという考えもなかったので、日本代表として戦ったのは予選で決った東京高等師範の蹴球部であった。

 

しかし、日本最初の国際試合が開催されたことでサッカーへの関心は高まり、日本国内で多くの大会が開かれることになった。そして21年5月に上海で開催された第5回極東選手権大会には、初の選抜選手で結成された代表チームが参加し、同年10月には日本サッカー協会の前身となる大日本蹴球協会が設立された。

 

この頃日本サッカーの強化に貢献したのが、ビルマ(現ミャンマー)からの留学生チョウ・ディンである。当時のビルマは英国支配の影響下にあり、アジアの中でもサッカー先進国であった。早稲田高等学院サッカー部の練習をたまたま見かけたチョウ・ディンは、インステップキック、インサイドキックなどの基礎技術や、基本戦術を指導する。

 

その指導を受けた早稲田高等学院はインターハイで2連覇を達成し、チョウ・ディンの名は全国サッカー関係者の間に知れ渡ることになった。

 

23年の関東大震災で授業を受けられなくなったチョウ・ディンは、時間が空いたため全国巡回コーチを行なう。その巡回コーチにより山口高等学校(現山口大学)で指導を受けた竹腰重丸などの名選手が生まれ、その後の日本サッカー界に大きな影響を与えた。 

 

FIFA加盟とオリンピック参加決定

チョウ・ディン指導の成果により、27年の国際試合でようやく初勝利。28年には国際サッカー連盟FIFAへ加盟する。そういった課程を経て、30年の第9回極東選手権東京大会で国際大会初優勝を飾るなど、ゆっくりだが着実に日本サッカーは発展していった。

30年にはウルグアイで第1回ワールドカップ(当時世界選手権)が開催され、日本も前年にFIFAから参加を打診された。だが当時の日本協会には資金もなく、遙か南米まで遠征する余裕はなかった。

それよりも日本サッカー界の目標は、すでに国際スポーツの祭典として広く知られていたオリンピックであった。オリンピックなら、体育協会からの補助金も期待できたのである。

32年のロサンゼルス五輪では、サッカーが競技として採用されなかったので、日本協会は36年のベルリン五輪初参加を目指すこととなった。同盟国ドイツの開催する大会だけに、日本は大選手団を派遣するこを決定。サッカー競技もその対象となる。

そしてサッカー競技参加を表明した世界の16カ国がそのまま認められ、予選を行なうこともなく日本蹴球チームのオリンピック出場が決まったのだ。

代表選手の選考はチームのまとまりを重視し、当時最強の早稲田大学蹴球部員を中心に、幾人かの優秀な選手を補強として加えるという形になった。そして16人の選手が選ばれると、監督には早大出身の鈴木重義が任命され、竹腰重丸もコーチとして加わった。

そして1ヶ月余りの合宿で選手たちは鍛えられ、ベルリンへと出発。競技は16チームによる勝ち抜きトーナメント形式で行なわれ、日本は初戦でスウェーデンと戦った。

スウェーデンは当時のヨーロッパサッカー先進国のひとつで、オリンピックやワールドカップでも実績を残していた。サッカー発展途上地域のアジアからヨーロッパに初めて来た日本チームにとって、強豪スウェーデンとまともに戦えるか危惧する声もあった。

それでも日本は地元のクラブチームとの練習試合を重ね、2バックから当時最先端の守備戦術3バックシステムへ切り替える。オフサイドルールが変更された事により、新しい守備戦術が生まれていたが、日本にも3バックの理論が伝わっており、それなりに試してはいたのだ。そのため、急遽のフォーメーション変更にも割とスムーズに対応できたようだ。

 

地元強豪クラブチームとの親善マッチで新戦術の手応えを感じた日本チームは、1936年8月4日、ついにスウェーデンとの対戦を迎える。試合は観客6千人を集めたヘルター・プラッツ競技場で行なわれた。

試合前に両チームの選手はグラウンド練習で顔を合わせたが、そのとき大柄なスウェーデンの選手たちは、小さな日本人選手に対し薄笑いを浮かべていた。スウェーデンの関心はすでに次戦の相手になるだろうイタリアに向けられており、日本チームなど眼中になかったのだ。

それに闘志を燃やした日本は、強風が吹くグラウンドの風上に陣取って先制点を狙うが、スウェーデンの圧力に押されペースを乱される。彼らの強さは桁違いで、今までの練習相手とは比較にならないほどだった。

15分頃には右のフルバック堀江忠男が相手選手と激突し肘を骨折したが、当時は選手交代が認められず、痛みを堪えながらプレーせざるを得なくなった。

だが時間が進むにつれ落ち着きを取り戻した日本は、いくつかのチャンスを作り出していく。しかし屈強な相手ディフェンスに得点を阻まれ、一瞬の隙を突かれて逆に失点。結局前半に2点を奪われ、日本の野心は砕かれたかに思えた。

ハーフタイム、鈴木監督が途方に暮れる日本選手に円陣を組ませ、おもむろに声をかけた。「お前たち、今日は馬鹿に調子がいいじゃないか。これなら後半はいける。後半頑張ればきっと勝てる」

意外な発言だったが、この言葉で選手たちは開き直り、やる気を取り戻してピッチに飛び出していった。

 

日本の大逆転「ベルリンの奇跡

後半は不利な風下に立ったが、日本は油断しきったスウェーデンに開始早々攻勢をしかける。後半開始4分、相手の緩慢なプレーで守備に穴が空いたのを見逃さなかったのが、日本のFW陣。健と正五の加茂兄弟が俊敏なプレーで切り込み、送られたクロスをエース川本泰三が叩き込んで日本の初得点を決めた。

守備陣も奮闘。3バックシステムが機能して相手の攻撃を潰していくうち、後半13分には日本にまたチャンスが訪れた。加茂兄弟が再び相手陣営に切り込み、ペナルティエリアの川本に向かってセンタリングを上げる。川本は力んで球をそらしてしまうが、後ろに走り込んでいた右サイドの右近徳太郎が強烈なシュートを決め、日本は同点に追いつく。

勢いに乗る日本。詰めかけたドイツの観客も彼らを熱心に応援しだした。スウェーデンチームは目を覚ましたように攻め始めるも、そのプレーは冷静さを欠き、精度もなかった。そしてスウェーデンのシュートを日本のゴールキーパー佐野理平がことごとく防ぎ、試合はこのまま延長戦に入るかと思われた時だった。

後半終了の5分前、スウェーデン選手の不用意なバックパスが味方選手から大きく逸れ、無人のフィールドにボールが転がっていく。そこへ猛然と走り込んでいった日本人選手が、チームNo.1の俊足、松永行だった。

その勢いに慌てたスウェーデンフルバックが、ボールに追いつき蹴り出そうとしたが、球を擦ってしまい走り込んできた松永にパスする形になってしまう。松永はそのボールをドリブルし相手キーパーと1対1。ゴール直前でシュートを放った。

だが松永は誤って芝を蹴ってしまい、コースを狙ったボールはキーパー正面に転がっていった。万事休すかと思われたが、ボールはタイミングを外されたキーパーの股間を抜け、逆転のゴールが生まれる。

そのあと日本が残り時間のピンチを凌ぎ、試合は3-2で終了。ジャイアントキリングを目の当たりにして興奮した観客が、ピッチになだれ込んできた。これが日本サッカー界最初の偉業『ベルリンの奇跡』である。

この試合をラジオ実況していたスウェーデン放送のアナウンサーは、日本選手が母国チームを苦しめている様子に「ヤパーナ、ヤパーナ(日本人が、日本人が)」と連呼したと伝えられる。そしてこの言葉は、のちのちまでスウェーデンで語られることになった。

この試合で精根尽きた日本チームは、次のイタリア戦で0-8の大敗。だがスウェーデン戦の大きな1勝は、日本サッカー界にとって誇れる戦績となった。日本代表はこの活躍で1938年のフランスワールドカップ予選にエントリーし、4年後の東京オリンピックに向けての強化も決まった。

しかし戦争の気運が高まったことにより、ワールドカップ予選の棄権を余儀なくされ、東京オリンピック開催も返上。日本サッカーは、長い暗黒の時代を過ごすことになる。

 

 rincyu.hateblo.jp