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サッカーの歴史や人物について

サッカー日本代表史 2. 激闘、日韓戦

 
日本サッカーの再開と国際舞台への復帰

戦時中には国内でほとんどサッカーの試合は行なわれなかったが、終戦の翌年には早くも学生リーグや実業団リーグが再開し、新しい時代が始まった。1947年には一時消滅していた大日本蹴球協会も再発足して、東西対抗戦という大きな大会も開催される。

 

連合国の占領下にあった日本は、しばらく国際舞台への参加を許されなかったが、50年にドイツと共にFIFAへの復帰を認められる。そして翌1951年には、インドのニューデリーで開かれた第1回アジア競技大会で、久しぶりに日本代表が国際試合を行なうことになった。結果は1勝1敗1分けの3位に終わったが、復帰後初の大会としてはまずまずの成績と言えた。

 

そして54年にはWワールドカップ予選に挑むことが決る。日中戦争の勃発により38年のフランスWカップ予選を棄権していたため、日本にとって初めての挑戦となった。

 

予選の対戦相手は韓国のみで、ホーム&アウェイ方式でW杯出場チームを決める予定だった。しかし、当時反日政策を採っていた韓国の李承晩大統領が、日本チームの訪韓を拒否。結局日本で2試合を行なう事となった。

 

李承晩大統領は試合そのものに反対していたが、関係者の必死の説得によりようやく日韓戦の実施が認められた。その際、大統領は選手に対し「もし負けたら、玄界灘に身を投げろ」と、檄を飛ばしたとされる。

 
日韓戦第1ラウンド スイスW杯予選

日本チームはベルリン五輪代表のコーチだった竹腰重丸を監督に据え、ベルリン五輪で初得点を記録した川本泰三も選手兼コーチとして参加していた。そういった戦前からのベテランに加え、戦中派の中堅や戦後派の若手も揃えるバランスのとれたチームが編成される。

史上初となる日韓戦は、54年の3月に明治神宮外苑競技場で行なわれる事になったが、初戦の7日は前夜から降り続ける雪でグラウンドがぬかるみ状態になっていた。それでも試合は決行されるも、ピッチコンディションはショートパス主体の日本にとって不利な状況。キック&ラッシュ戦法の韓国に有利と見られた。

試合開始直後は韓国側が優勢に試合を進めたが、15分に長沼健が鮮やかなロングシュートを決め、日本が先制する。だがその後は韓国の一方的な試合となり、すぐに同点とされると、前半のうちに逆転弾も決められてしまう。

日本は後半にも3点を許してしまい、結局第1戦は1-5という完敗に終わる。寒さで身体が動かなくなっていた日本選手に対し、韓国選手は氷点下のソウルで合宿をしており、体力的にも韓国側が勝っていたのだ。

それでも第2戦で日本が勝てば、得失点差にかかわらず決定戦に持ち込められた。14日の第2戦は快晴で絶好のコンディションとなり、スタンドには1万3千人の観衆も集まった。

試合は開始16分、日本が幸先よく先制。だが25分に同点とされてしまう。そして42分には勝ち越し点を決められ、リードされて前半を折り返した。後半日本は反撃を開始し、60分に同点とすると、さらに攻めを強めた。だが再三のチャンスを逃してしまい、惜しくも2-2と引き分けてしまう。

こうしてWカップスイス大会の出場チームは、韓国に決まった。もっとも、この時代は外国の情報がほとんど入ってこなかったので、日本の選手たちはワールドカップがどんな大会かもよく分からず試合をしていたと伝えられる。

 
日韓戦第2ラウンド メルボルン五輪予選

その2年後の56年、日本チームはメルボルン五輪出場を懸け、再び韓国と対戦することになった。今回も韓国では試合は行なわれず、日本で2試合を戦う事になった。日本チームの監督は引き続き竹腰が務めていたが、戦前派のベテラン選手たちが退き、若手主体のチームとなっていた。

韓国との第1戦は、6月3日に後楽園競輪場で行なわれた。前日の雨でぬかるんだグラウンドに日本選手は苦しんだが、若手・八重樫茂生の好プレーから54分に先制点が生まれた。更に77分、又も八重樫の好アシストから追加点。こうして劣勢と思われた日本が2-0と勝利し、韓国戦初勝利を飾った。

続く第2戦は一週間後の10日に行なわれたが、挽回を狙う韓国の奮戦により、0-2で90分間を終えしまう。両チーム1勝1敗で総得点も並んだため、規定により本戦出場を決める15分ハーフの延長戦に突入する。しかしこの延長戦で両チーム得点が入らず、当時はPK戦も無かったので、その場で抽選が行なわれることとなった。

グラウンドの中央には韓国の主将・金鎮雨と日本の竹腰重丸監督が集まり、それぞれクジを引く。韓国側が引いたクジは白紙だったが、竹腰監督が引いたクジには “VICTORY” の文字があった。こうしてベルリン五輪以来20年ぶりに、サッカー日本代表チームの出場が決まったのである。

 

メルボルン五輪と日本代表の苦闘

11月27日、メルボルン五輪に出場した日本は、トーナメント1回戦で地元オーストラリアと対戦する。前半は風上に立って有利に試合を進めるが、27分にハンドの反則を取られ、PKで先制点を許してしまう。後半はフィジカルの強いオーストラリアに日本のパス回しは機能せず、61分に追加点を入れられ勝負は決した。

オリンピックの戦いは1試合で終わってしまったが、日本チームはこのあと世界の戦いを観戦する。普段見ることの出来ないトップレベルのプレーを見たことは、若手選手にとってまたとない経験となった。

58年にはスウェーデンでWカップが開催されたが、日本はアジア予選にエントリーをしなかった。同年に東京でアジア大会が行なわれたことと、当時W杯出場選手は五輪に出られなかったことが理由である。

地元で開催された第3回アジア大会では、川本が日本代表の新監督を務めることになった。しかし日本チームはフィリピンに0-1、香港に0-2と連敗を喫し、強化は思うように進まなかった。

アジア大会が終わると、日本の次の目標は60年のローマ五輪となった。その目標に向けて竹腰が監督に復帰し、川淵三郎二宮寛など若手選手を加え、チームの活性化を図る。そしてローマ五輪のアジア予選は11カ国で争われることになり、日本は予選の第1回戦で三たび韓国を迎え、2試合を戦うことになった。

 

日本に突きつけられた課題

予選第1回戦は59年12月13日、前回と同じ後楽園競輪場で行なわれた。韓国は2週間前に結成されたばかりの急造チームだったが、日本はレギュラーFWの八重樫と川淵を怪我で欠き、苦戦を強いられた。

試合は最初から押し気味の韓国に対し、日本は反撃の糸口も掴めないまま終始守りに立たされる。前半は0点に抑えたものの、後半に韓国の猛攻を受け失点。結局0-2で初戦を落としてしまう。

雪辱を期すべく、一週間後の第2戦には故障明けの川淵をCFに起用。雨の中の試合だったが、日本は川淵らが気迫を見せ、韓国に対し優位に試合を進めた。

前半は両チーム無得点だったが、日本は後半25分に川淵の中央突破からチャンスが生まれ、二宮のシュートで先制点を奪う。さらにその5分後には、FKからゴールが決まり同点となったかに思えたが、ファールがあったとして得点は認められなかった。

逆転を目指し日本は攻め続けたが、追加点は奪えず、第2戦は1-0で終了。総得点の差で韓国に屈してしまった。日本代表はローマ五輪出場を逃しただけでなく、こののち15年間にわたって韓国相手に白星を挙げられなってしまう。

4年後に東京五輪の開催が決まっていた日本にとって、ローマ五輪出場を逃したのは大問題だった。日本蹴球協会は自国開催の大会に向け、チーム力強化の対策を図る必要に迫られていた。

 

rincyu.hateblo.jp

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