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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ニルス・リードホルム(スウェーデン)

 

ACミランの “グレ・ノ・リ” 」

ニルス・リードホルム( Nils Liedholm )は、1958年地元開催のワールドカップで準優勝したスウェーデン代表のキャプテン。本来のポジションはレフトインナー(左FW)だが、レフトウィング、ライトハーフ、リベロとしても素晴らしいプレーを見せ、その佇まいから「イル・バローネ(男爵)」と呼ばれた。

 

48年のロンドン・オリンピックではプレイメーカーとしてスウェーデンの金メダル獲得に貢献。その後移籍したACミランでは、同じく代表で活躍したグンナー・グレン( Gunnar Gren)、グンナー・ノルダール( Nils Gunner Nordahl )とともに “グレ・ノ・リ”〈 Gre-No-Li 〉トリオを形成、クラブの50年代黄金期を飾った。

 

現役時代は戦術眼に長け冷静な判断力をもち、フィジカルや空中戦に秀で、足元のプレーも得意とするなどオールラウンド・プレイヤーぶりを見せたリードホルム。引退後も指導者としてミランASローマで輝かしい実績を残している。

 
ニルス・リードホルムの歩み

ニルス・リードホルムは1922年10月8日、バルト海湾岸の街ヴァルデマルスビクで生まれた。地元のIKスレイプニルで本格的にサッカーを始め、46年にはスウェーデンの名門IFKノーショーピングへ移籍する。チームメイトにはノルダール兄弟(グンナーとクヌート)もおり、彼らと共に攻撃を牽引して2度のリーグ優勝に貢献した。

フィジカルトレーニングの重要性を知っていた彼は、多くの練習時間を費やして強靱で耐久力のある身体づくりを行った。そのことが40歳近くまで現役を続ける要因となる。

スウェーデン代表には47年に選ばれ、6月15日のデンマーク戦で初キャップを記録する。ちなみに当時のスウェーデンにはプロリーグがなかったため、代表選手はすべてアマチュアセミプロであった。

 

グンナー・ノルダールの歩み

グンナー・ノルダールは1921年10月19日、スウェーデン北部の街ヘルネフォルスで生まれた。消防士として働きながら、地元クラブのデゲルフォルスでプレー。グンナーを含む5人のノルダール兄弟がこのクラブを支えていたという。

体格に恵まれたグンナーはその突進力から「野牛」の異名を持ち、鋭い得点感覚と力強いシュートでゴールを量産。デゲルフォルスでの77試合で58ゴールを挙げている。

42年6月28日のデンマーク戦で代表デビュー。44年には名門ノーショーピングへ移籍する。そこでプレーした4年間で92試合に出場し93ゴールをマーク、3回トップスコアラーに輝くという驚異的な得点力を誇った。47年にはリーグ優勝に貢献し、スウェーデン年間最優秀選手賞に選ばれている。

48年、12年のブランクを経て戦後初となるオリンピックがロンドンで行われ、スウェーデンはサッカー競技に参加する。そしてノーショーピングを指揮するハンガリー人監督、ラヨシュ・ツェイズレルが代表を率いることになり、チームの中心としてリードホルムや、グンナー、クヌート、ベルティルのノルダール3兄弟、そしてグンナー・グレンらの選手が招集された。

 
グンナー・グレンの歩み

グンナー・グレンは1920年10月31日、スウェーデン第2の都市イエテボリのマヨルナで生まれた。小さい頃からボール扱いに長け、イエテボリサッカー協会が開催したボールリフティング大会では、2位にダブルスコアの大差で優勝を飾ったという。

そのあと小クラブのゴルダBKで本格的なサッカーを始め、18歳でトップリーグデビュー。20歳となった40年にスウェーデン代表に選ばれ、8月のフィンランド戦でデビューを果たすと、41年にスウェーデンの強豪IFKイエテボリへの移籍を果たす。

8年間在籍したイエテボリでは、164試合に出場し78ゴールを記録。45年にスウェーデン年間最優秀選手に選ばれ、47年にはリーグ得点王を獲得している。だが「プロフェッサー(教授)」の異名を持つグレンは自ら得点を決めるより、正確無比なパスと計算されたプレーでゴールをお膳立てすることを得意とした。

 
48年ロンドン五輪の金メダル

8月2日にオーストリアとのトーナメント第1回戦が行われ、スウェーデンは3-0の快勝。準々決勝では韓国を12-0と粉砕した。準決勝では、ともに戦争被害の少なかった北欧のデンマークと対戦。4-2とライバルを打ち破り、スウェーデンは決勝へ進んだ。

決勝の相手はミティッチ、ボベク、チャイコフスキー、ブカシュなど、A代表の選手をそのまま揃えたステートアマのユーゴスラビア。決勝の試合は13日に6万人の観客を集めて、サッカーの聖地ウェンブリー・スタジアムで行われた。

ともに技術は高かったが、スウェーデンはフィジカルや体格の良さが強み、ユーゴにはスピードのある選手が多かった。24分にグレンのゴールでスウェーデンが先制。ユーゴも42分にボベクが決めて、前半は1-1で終える。

後半開始直後、グンナー・ノルダールが大会7点目となるゴールを決めて勝ち越し。さらに67分にはPKを得て、これをグレンが沈めてユーゴを3-1と突き放した。このあとリードホルムがゲームを的確にコントロール。DFのクヌートとベルティルのノルダール兄弟も相手の反撃を抑え、そのままスウェーデンが逃げ切った。

スウェーデンはサッカー競技では初めての金メダルを獲得、4試合で7得点を挙げたグンナー・ノルダールは、デンマーク(銅メダル)のハンセンとともに大会得点王に輝いた。そしてスウェーデンの活躍は、イタリアやスペインのプロクラブの目にとまり、大会後に多くの選手が引き抜かれていく。

当時のスウェーデン代表は、国内でプレーする選手のみが選出されていた。スウェーデンは2年後のブラジルWカップに出場し、3位の好成績を残すも、五輪金メダルメンバーで残っていたのは、エリク・ニルソンとクヌート・ノルダールの2人だけだった。

 

ミランの「グレ・ノ・リ」トリオ

オリンピック終了後、金メダル監督のツェイズレルがイタリアACミランに引き抜き。同時に移籍したグンナー・ノルダールは、スウェーデン人初のプロ選手として “ロッソ・ネロ” のユニフォーに袖を通すことになった。スウェーデンでプレーした12年間で172試合に出場149ゴールを記録。代表では33試合で43のゴールを挙げた。

翌49年には、リードホルムとグレンの二人もACミランへの移籍を果たす。そして9月11日のサンプドリア戦で3人が揃い踏みし、3-1の勝利でスウェーデントリオの誕生を飾った。イタリアのメディアはさっそくこの3人に「グレ・ノ・リ」の呼び名を与え、すぐにファンの間で定着していった。

49-50シーズン、リードホルムとグレンのアシストを受けたノルダールは、37試合に出場して35ゴールを記録。セリエAの得点王となった。またリードホルムとグレンも同じく37試合に出場して、二人とも18ゴールを挙げている。翌50-51シーズンはノルダールが34ゴール、リードホルムが13ゴール、9ゴールのグレンもボールの配球役として活躍し、1907年以来となるミランスクデッド獲得に貢献した。

グレンは52-53シーズンまでミランに在籍、翌53-54シーズンにはフィオレンティーナに移籍し、ミランの「グレ・ノ・リ」トリオは4年で解散となった。フィオレンティーナでは2シーズンプレーしたあと、55年に移ったジェノアで1シーズンを過ごす。

そしてグレンは56年にスウェーデンへ帰国。故郷のエルグリテというクラブでセミプロとしてプレーした。セリエAでは7シーズンで133試合に出場し、38ゴールの記録を残した。

ミランでコンスタントに得点を重ねていたノルダールは、56年に移籍するまでの8シーズンで5回の得点王を獲得。54-55シーズンには27ゴールを挙げ、再びリーグ優勝に貢献している。56年にはASローマに移籍するが、ミランでは8シーズン通算210ゴールという、今でも歴代最高となるクラブ得点記録を残した。

ほかの二人がミラノを去ったあとも、引退するまでミランでのキャリアを続けたリードホルム。在籍した12シーズンで、4度のリーグ制覇、2度のラテンカップ優勝に寄与した。そしてリードホルムが主将を務めるミランは、58年のチャンピオンズ・カップ決勝へ進出。その対戦相手は、ディ・ステファノ、R・コパ、F・ヘントらのスター選手を擁し、大会3連覇を狙うレアル・マドリードだった。

0-0で折り返した58分、スキアフィーノのドリブルシュートでミランが先制。しかし74分にPKをとられ、ディ・ステファノに決められて同点。それでも77分にミランが再びリード、だがその僅か2分後にまたもや追いつかれ、2-2となった試合は延長戦に持ち込まれた。

スコアが動かないまま延長も後半戦に突入。すっかり疲れ切ってしまったディ・ステファノが、ヘントに「もうお前が決めろ」と話しかけると、直後にそのヘントが決勝ゴール。激戦の勝負を決めた。延長で2-3と敗れたミランは初の栄冠を逃してしまったが、欧州最強チームをあと一歩まで追い詰めた。

 

自国開催のワールドカップ

58年はスウェーデンで第6回Wカップが開催されることになっていたが、大会を1ヶ月後に控えた時点でもまだスウェーデンチームの編成は決まっていなかった。国内に残るアマチュアセミプロ選手でメンバーを固めるか、国外のプロリーグで活躍する選手たちをチームの中心据えるか、協会役員や関係者の間で議論が続いていたのだ。

最終的には英国人のジョージ・レイナー監督に判断が任され、4人のプロ選手が呼び戻されることになった。招集されたプロ選手は、セリエAで活躍するグスタフソン、ハムリン、スコグルンド、そして36歳となった大ベテランのリードホルムだった。

故郷に戻っていた38歳のグレンは既に代表復帰を果たしており、ローマで選手兼任監督を務めていたノルダールは不参加となった。こうしてスウェーデン代表は、スピードを犠牲にして経験豊かなベテラン選手を中心に据えたチームで大会へ臨むことになった。

6月8日にWカップが始まり、スウェーデンはG/L初戦でシモンソンの2ゴールとキャプテン・リードホルムのPKでメキシコに3-0と快勝。第2戦はハムリンの2得点で強敵ハンガリーを2-1と下して勝ち抜けを決め、ベテランを休ませた最終節ウェールズ戦では0-0と引き分けて余裕のG/L1位となった。

 

ブラジルとの決勝戦

準々決勝は、中1日で臨むソ連を老獪なゲーム運びで疲れさせ、ハムリンとシモンソンのゴールで2-0の勝利。そして準決勝は、前回王者・西ドイツとの対戦になった。立ち上がりから優勢に試合を進めたスウェーデンだが、24分にゼーラーのクロスをボレーでシェーファーに叩き込まれ先制を許してしまった。

それでもリードホルムとグレンが落ち着いたゲーム運びで流れを引き戻し、33分にはショクルントのゴールで同点とする。得点の場面に絡んだリードホルムが手を使ったようにも見えたが、主審はそのプレーを流していた。

後半に入った48分、ハムリンのファールに怒った西ドイツのユスコヴビアクが報復行為を行い、退場処分となる。さらに終盤に入った74分、激しいタックルを受けた西ドイツキャプテン、フリッツ・バルターが重傷を負い、ピッチに残ったもののゲームに参加できなくなってしまう。ファールプレーのスウェーデン選手が退場となるが、実質10人対9人の戦いとなった。

80分、ハムリンのシュートの跳ね返りをグレンが決め勝ち越し。そして88分にハムリンが鮮やかなステップで3人を抜き去り、ダメ押し点を叩き込んだ。こうして大会前は国民の期待の薄かったスウェーデンが、ついに決勝まで勝ち上がったのである。

決勝の相手は、新星ペレとガリンシャの登場で大会に旋風を起こしていたブラジルだった。試合前、「先制してブラジルを慌てさせれば勝機がある」と語ったレイナー監督。その思惑通り、開始4分にグレンとのコンビネーションでリードホルムが先制点を決める。

しかしブラジルはまったく慌てることなく反撃。9分にガリンシャが驚異的なフェイントと加速でDFをかわし、その折り返しからババの同点ゴールが決まった。その後ブラジルはさらに得点を重ね、55分にはペレの伝説ゴールも生まれて一方的な展開となる。

スウェーデンは、リードホルムのパスからシモンソンのゴールで終盤1点返すのが精一杯。完全にブラジルへ主役の座を奪われ、2-5と完敗を喫してしまった。地元の利と老獪さで勝ち上がってきたスウェーデンも、ブラジルの勢いを止める事が出来なかった。

 

「グレ・ノ・リ」のその後

グレンはこのあと指導者の道へ進み、時たまプレーしながら国内クラブで監督を務めた。91年11月10日没、享年71歳。

ノルダールは帰国したスウェーデンのクラブで現役を引退。そのあと国内の各クラブでチームを指揮した。95年9月15日没、享年73歳。

リードホルムは61年に現役を引退。その後もイタリアに留まり、ミランフィオレンティーナなどセリエAの監督を歴任する。

ASローマでは2度のリーグ制覇と3度のコッパ・イタリア優勝を果たし、84年のチャンピオンズ・カップでは準優勝するなど輝かしい実績を残した。また早くからゾーンディフェンスを導入した監督としても知られている。

97年にサッカー界を離れ、晩年はイタリアで農園を経営。07年11月5日に85歳で亡くなった。