ローマ五輪予選では韓国の前に敗退を喫し、他の国際試合でも日本代表チームは芳しい結果を残せずにいた。東京五輪での成績次第では日本サッカーの衰退に繋がりかねず、代表の強化は日本蹴球協会の至上命題となっていく。
ローマ五輪予選開催中から翌年1月にかけて、蹴球協会で代表強化に関する話し合いが行なわれ、外国からコーチを招くことで意見が一致。協会の決定を受け、野津譲会長は、指導者の勉強で西ドイツ留学が決まっていた成田十次郎にコーチ探しを依頼する。
成田は西ドイツサッカー協会の紹介でデュイスブルグのスポーツ大学へ赴き、そこで協力を仰ぐと、「ドイツサッカーの父」と言われたゼップ・ヘルベルガーに話が伝わり、有能なコーチを推薦してもらえることになった。
ヘルベルガーは24年前のドイツ代表コーチ時代に、日本がオリンピックで起こした「ベルリンの奇跡」を目撃しており、極東の島国に敬意さえ抱いていたのだ。
一安心した成田が留学した大学寮の部屋で休んでいる時、突然扉をノックする音がした。成田が誰かと思ってドアを開けると、そこには眼光鋭い小柄な男が、直立不動の姿勢で待っていた。その男こそが、ヘルベルガーが寄こした当時35歳のデトトマール・クラマーである。
クラマーは西ドイツに遠征してきた日本代表チームと初対面したのち、1960年10月29日に初来日した。翌日にはさっそく代表チームに合流し、インサイドキックなど基礎的な練習を指導する。
彼は協会に用意されたホテルには宿泊せず、日本人と一緒の旅館で寝起きをともにし、選手と同じ食事を口にした。クラマーは日本人を理解することから、指導が始まるという信念を持っていたのである。
クラマーが指導したのはヨーロッパの高度な戦術ではなく、インサイドキックやヘディング、トラップなどの基礎技術で、選手たちは反復練習に明け暮れていた。それに戸惑う日本人指導者もいたが、クラマー自身が実演する模範的な技術を目の当たりにして、文句を言う者はいなかった。
11月にはW杯チリ大会アジア予選が開始。この頃には反日政策の李承晩大統領が失脚していたため、日本は初めて敵地ソウルで試合を行なうことになり、クラマーコーチもチームに同行した。だが強化の始まったばかりの日本はこの試合に敗れ、続く東京での第2戦も落として、またも韓国の前に敗れ去っていった。
そのあともクラマーは相変わらずチームで基礎練習を続けさせたが、それは一律のものではなく、個々の選手に合わせた丁寧な指導だった。そしてチーム全体を見廻し、弱いと思われるポジションには自分が実践してみせ、選手の手本とした。しかも彼は代表だけではなく、日本中を巡って各地のコーチも指導し、日本サッカー全体の強化を図ったのである。
62年、西ドイツの若手選抜チームを日本に呼び、代表の強化試合が行なわれた。フル代表の日本は善戦するも、若い西ドイツチームに3連敗してしまう。それでも日本代表の成長を感じたクラマーは、指導者として育てた長沼健を監督に、通訳を務めていた岡野俊一郎をコーチに指名して、ドイツへ戻っていった。
長沼新監督はFW八重樫茂生をチームのキャプテンに据え、若手の杉山隆一と宮本輝紀も加えて戦力の強化を進めた。さらに長沼は2年後のオリンピックで切り札として、若手大型FWの成長に期待をかける。その選手が当時まだ18歳、ユース代表のエース釜本邦茂選手であった。
翌63年、日本代表は西ドイツに遠征し、五輪代表チームやクラブチームなどと多くの試合をこなし力を付けていく。そのあと日本に戻って五輪のプレ大会に参加すると、強敵相手に好成績の結果。日本は着実に力を伸ばしていた。
東京五輪開催の64年に入ると、19歳の釜本邦茂が初めて全日本チームに加わった。そして2月からの東南アジア遠征で、釜本選手は5試合3得点の活躍を見せ、新戦力としての名乗りを上げる。そのあと代表はヨーロッパでも強化試合を行ない、12試合で4得点を挙げた釜本選手はレギュラーの座も勝ち取ったのだ。
10月10日、快晴となった国立競技場の開会式で東京五輪は始まった。日本代表にはクラマーが特別コーチとして復帰し、本番の戦いに備える。日本が予選で対戦するのはイタリア、アルゼンチン、ガーナの3チームの予定だったが、選手のアマチュア資格問題が起きたためイタリアが棄権。そのため日本は、残りの2チームと予選を争うことになった。
10月14日、駒沢陸上競技場で対アルゼンチンとの初戦が行なわれた。プロの参加が許されなかった当時、アルゼンチンは若手主体のチーム編成だった。
日本はその若手アルゼンチン相手に、川淵や杉山らが得点を挙げ3-2の接戦をモノにする。続くガーナ戦は八重樫、杉山が得点するも、健闘及ばず2-3で敗れてしまった。それでも準々決勝には進めたが、強豪チェコスロバキアに0-4と完敗を喫する。
そのあと行なわれた5~6位決定戦(非公式試合)も、ユーゴスラビアに歯が立たず6失点。日本は釜本のシュートで1点返すのが精一杯だった。ちなみにこの試合で、後に日本代表監督となるイビチャ・オシムが2得点を挙げている。
結局、日本代表は地元開催の五輪で1勝3敗の成績。だが東欧チームがステート(国家)アマと呼ばれるプロに近い選手たちで構成されているのを考えれば、決して悪い結果ではなかった。釜本や杉山ら成長著しい若手も多く、4年後にさらなる活躍が期待されたのである。
オリンピック閉会後の10月25日、日本代表強化に尽力したクラマーコーチの慰労会が行なわれた。その席でクラマーは「日本人コーチの育成、芝グラウンドの確保、全国リーグ戦の採用」などを提言し、日本を去って行った。そして翌65年には、日本サッカーリーグ(JSL)が発足することになったのである。
次のメキシコ五輪に向け、日本は杉山、釜本のホットラインを磨いて得点力の強化を図った。選手からの信頼が厚かったクラマーも、時々来日して彼らの指導に当たる。また66年のW敗予選は不参加が決まり、日本は翌年の五輪アジア予選に全力を注ぐことになった。
メキシコ五輪アジア予選は、67年9月に東京へ参加6チームを集め、セントラル方式で出場枠1を争うことになった。最大のライバル韓国とは、10月7日、両チーム全勝のまま国立競技場での直接対決を迎える。
日本は前半で2-0をリードしたものの、後半韓国に追いつかれてしまう。その後両チーム1点ずつを加え、3-3の同点で迎えた終了直前、韓国のキム・キボク選手が30mのロングシュートを放った。
慌てて横っ飛びしたGK横山謙三の頭上を越え、シュートは決まってしまったかに思えた。しかしボールはクロスバーを直撃し、鋭い金属音を響かせゴール外へ跳ねていった。命拾いした日本は、3日後の最終戦で南ベトナムに1-0と辛勝し、メキシコ五輪出場権を得たのだった。
68年、釜本邦茂はクラマーの力添えもあり、西ドイツへの単身留学を果たす。3ヶ月の短期ではあったが、本場で揉まれたおかげで、帰国後釜本の身体スピードは増していた。振り向きざまに放ったシュートのあまりの迫力に、取材していた記者が腰を抜かしたしたという話が残っている。
68年10月、日本代表はいよいよメキシコ五輪の本番に臨む。東京五輪以来、メンバーがほとんど替わらないチームは熟成しており、数ヶ月前にはメキシコ遠征を行い予行演習。事前対策も万全だった。予選リーグの対戦相手はナイジェリア、ブラジル、スペインとなる。
14日、初戦のナイジェリア戦が行なわれた。前半24分、八重樫のクロスから釜本がヘッドで叩き込み日本が先制。だが33分に追いつかれてしまう。しばらく一進一退の攻防が続くが、73分には杉山がサイドに切り込み、そこからの折り返しで再び釜本が得点した。
さらに89分、釜本が35mの豪快なシュートでダメを押し、3-1の快勝。続くブラジル戦では、アマチュアとはいえ南米の高い技術に苦しめられるが、どうにか1-1で引き分ける。
第3戦は、同組首位に立つスペインとの対戦。予選突破が有力となっていた日本は、繊細な試合運びを強いられる。もしスペインに勝って予選首位突破となると、準々決勝で地元メキシコと当たる可能性があったのだ。日本は同時刻他会場の様子を窺いながら試合を進めるも、予選突破を決めているスペインも全力では攻めてこなかった。
終盤に入り長沼監督はチームに引き分け狙いの指示を出すが、選手に上手く伝わらず、終了直前には杉山がポスト直撃のシュート。一瞬ヒヤリとした日本だが、どうにか思惑通りに0-0と引き分け2位突破。準々決勝でのフランスとの対戦が決まった。
日本はフランスの3戦全てをスカウティングし、周到な準備を行なっていた。試合前半の25にはその成果が出て、釜本のヘッドが決まって先制点。その5分後に同点とされて前半は1-1で折り返すが、後半は日本が主導権を握る。その59分、杉山のクロスを釜本が胸でコントロール。素早いシュートで勝ち越し点を決めた。さらに9分後にも日本の追加点が生まれ、3-1と完勝を収めた。
準決勝の相手は、東欧ステートアマの強豪ハンガリー。前回の東京五輪でも金メダルを獲得しており、今回も優勝候補の筆頭だった。日本もさすがにこのチームには歯が立たず、0-5の大破。決勝進出を逃して3位決定戦に回る。銅メダルを目指して戦うのは、開催国のメキシコとなった。
24日、運命の試合は地元メキシコを応援する大勢の観客を集め、メイン競技場となったアステカスタジアムで行なわれた。この時のクラマーはFIFAの技術委員を務めており、公正な立場であるべきだったが、素知らぬ顔で日本応援側のスタンドに腰を下ろした。
試合はメキシコペースで始まり、日本は防戦一方となる。しかしその劣勢な状況で、虎視眈々とカウンターの機会を窺っていたのだ。するとその17分、狙い通りのチャンスが巡ってくる。
ボールを持った釜本が左サイドの杉山にボールを預け、そのままゴールに走り込むと、杉山から正確なクロスが送られてきた。釜本はボールを胸トラップで足下に落とし、左足でのシュート。メキシコGKの脇を抜く先制ゴールを決めた。
さらに39分、杉山が左サイドへグラウンダーのパスを出すと、宮本がドリブルで切り込み中央へボールを送った。そこに待ち構えていた釜本が、ワントラップして右足を振り抜くと、強烈なシュートがネットを揺らした。
後半開始の立ち上がり、日本はメキシコにPKを与えるピンチ。しかしそのPKをキーパー横山が好セーブで防ぎ、メキシコを焦らせる。日本はその後もメキシコの反撃を跳ね返し、2-0で試合は終了。歴史勝利を飾った。日本チームは銅メダルを獲得し、大会7得点と活躍した釜本邦茂選手が得点王に耀く。
クラマーは表彰式終了後、教え子たちの快挙を祝うため、彼らが泊まる選手村を尋ねて会いに行く。だがその場で目撃したのは、精根尽き果て死んだようにベッドに倒れ込んでいた日本の選手だった。
クラマーはのちにドイツの名門チーム、バイエルン・ミュンヘンの監督としてUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)を制覇する。そのとき記者からのインタビューで「あなたの人生最高の瞬間か」と尋ねられると、クラマーは首を振りきっぱり答えた。
「いや人生最高の瞬間は、日本がメキシコで銅メダルを獲得したときだ。あれほど死力を尽くして戦った選手たちを、私は今まで見たことがない」