オリンピック初勝利
13年間勝てなかった北朝鮮を破り、2大会ぶりのオリンピック出場を決めた女子サッカー日本代表チームは、「なでしこジャパン」と呼ばれるようになる。
なでしこたちの目標は、アテネでメダルを獲ること。オリンピックチームには安藤梢・近賀ゆかり・福元美穂などの若い力も加わっていた。グループリーグの対戦相手はスウェーデンとナイジェリア、日本はこの2ヶ国とトーナメント進出を争うことになった。
オリンピック開会式2日前の8月11日、日本は初戦でスウェーデンと試合を行なう。スウェーデンは前回の五輪準優勝チームでFIFAランク4位、同13位の日本より格上の相手だった。だが、なでしこたちのプレーは自信に溢れ、身体の大きい相手に怯まずぶつかっていった。
身体能力とパワーを誇るスウェーデンだが、決して技術は高いとはいえないちーむだった。日本は事前の分析で相手の弱点を見抜き、充分な勝機を見いだしていた。
開始25分、センターライン付近で得たフリーキックを、磯崎浩美が思いっきり前線に放り込む。クリアしようとしたスウェーデンDFが前線の大谷未央と交錯し、ボールはゴール方向へ転がっていった。セーブしようとしたGKがキャッチミス、そこへ猛然と走り込んできた荒川恵理子が、相手DFより一瞬早く足を出しゴールが決まる。
誇らしげに両手を突き上げる荒川に選手たちが駆け寄り、彼女のアフロヘアを皆で撫で喜びを分かち合う。その後も日本は集中を続け、焦るスウェーデンを寄せ付けず2-0と勝利をあげた。日本女子サッカーの、記念すべきオリンピック初勝利だった。
だが、第2戦はナイジェリア選手のフィジカルに圧倒され、0-1と負けてしまう。それでも日本は得失点差で他チームを上回り、辛うじて決勝トーナメント進出を決めた。トーナメント1回戦の相手は、優勝候補アメリカだった。
アメリカの2トップは、この大会で引退する名選手ミア・ハムと181㎝の若きストライカー、アビー・ワンバックだった。日本はアメリカの猛攻に耐えるも、43分こぼれ球を押し込まれ先制点を許してしまう。
だが48分、日本はゴールから30メートルの位置にフリーキックのチャンスを得た。そこから山本絵美がゴール前にクロスを入れると、アメリカDFの間隙を突き澤穂希が頭でボールを押し込み追いついた。
59分、アメリカもフリーキックのチャンスからミア・ハムがゴール前へボールを放った。その瞬間、日本はオフサイドラインを上げるものの、抜け出したワンバックが勝ち越のゴールを決める。疑惑の判定だったが抗議は受け入れられず、日本は1-2で敗退してしまう。しかしアメリカと接戦を演じたのは、なでしこ成長の証しだった。
オリンピック終了後、上田栄治は監督を退任。10月に大橋浩司が後任の監督となる。新生なでしこのテーマは、「攻守一体のパスサッカー」。大橋監督は一段階上のサッカーを目指し、組織力だけではなく個人の能力向上を図った。
そのため女子選手が不得意とする、ヘディングやスライディングなどの練習を徹底的に繰り返させる。また大橋監督は積極的に若手を招集、宮間あや、永里優季、阪口夢穂、宇津木瑠美、石清水梓など高い技術を持つ新世代が加わってくる。
05年、Lリーグ2部にINACレオネッサが新規加入。東京電力マリーゼもYKK東北から運営を引き継いだ。岡山湯郷Bellも戦力を整えLリーグ上位に台頭、徐々に賑やかさを増していった。06年からはLリーグに冠スポンサーがつき、“なでしこリーグ”の名称が定着。オールスターゲームも行なわれるようになる。
06年7月、新しくアジア連盟に加入したオーストラリアで、女子アジアカップが開催された。この大会は07年のWカップ予選も兼ねていたが、未完成のチームは4位に終わり、翌年のプレーオフを戦うことになった。
11月カタールで行なわれたアジア競技大会で、なでしこジャパンようやく力を発揮し決勝へ進出する。北朝鮮との決勝戦は0-0のままPK戦を迎えるが、一人目の澤がシュートを外し優勝を逃してしまう。
これ以来澤は、PKに大きなトラウマを抱えることになった。07年3月、日本はプレーオフでどうにかメキシコを退け、9月に開催される第5回FIFA女子ワールドカップ中国大会の出場権を得た。
Wカップでのグループリーグ対戦相手は、イングランド、アルゼンチン、ドイツ。初戦のイングランド戦では、宮間が2つのフリーキックを決めるも、2-2と引き分けてしまう。2戦目のアルゼンチンには1-0と勝利を収めるが、3戦目のドイツ戦で4年前と同じくプリンツにゴールを決められ0-2と敗北。決勝トーナメント進出はならなかった。
Wカップで結果を残せなかった大橋監督は退任、代表コーチを務めていた佐々木則夫が後任監督に昇格する。佐々木監督は社交的で親しみやすく、女子選手に対してもフランクに接していた。
そのためコーチ時代から「ノリさん」「ノリオ」と呼ばれ、選手とのコミュニケーションは抜群だった。佐々木監督の掲げるテーマは『攻守にアクションするサッカー』。自らアクションを起こし、積極的にボールを奪って素早く攻撃に移るサッカーである。
敵からボールを奪うのは、まず相手選手をコーナーに追い詰めて複数の人数で囲むのがセオリーとされた。しかし身体能力の劣る日本の場合、サイドで囲みを突破されるとピンチに陥ることがしばしばだった。
そのため佐々木監督は、ゾーンディフェンスを敷いて真ん中でボールを奪おうと考えた。そこでキーとなるのが、ボールを奪う役目のボランチである。佐々木監督はそのポジションに澤を置き、技術の高い阪口とダブルボランチを組ませた。
今まで攻撃ばかり注目されてきた澤だが、その守備力や危機察知能力の高さは今までの試合で証明済みだった。新しい布陣は当った。澤が真ん中でボールを奪い、二人のボランチが前線へ正確なパスを送る。
日本は08年2月に開かれた東アジア女子選手権で難敵北朝鮮と中国を破って、国際試合初優勝を果たしたのだ。そしてオリンピックアジア予選も突破し、8月の北京オリンピック出場を決める。
北京五輪の予選リーグ対戦相手は、ニュージーランド、アメリカ、ノルウェー。初戦のニュージーランドは格下と思えたが、日本は固さからミスが続き苦戦した。スピードとパワーで押してくるニュージーランドに、近賀のクリアミスなどで2点を先制されてしまう。
だがニュージーランドが勝ちを意識し始めた72分、焦りから日本にPKのチャンスが与えられた。キッカーは、PKを嫌った澤に代わり宮間。宮間は難なくPKを決めると、86分にもフリーキックを蹴り、澤が右足つま先でボレーを合わせどうにか2-2の引き分けに持ち込んだ。
第2戦はワンバックを怪我で欠いたアメリカに善戦するも、一歩及ばず0-1の敗戦。決勝トーナメント進出は、最終節で強敵ノルウェーに勝つことが必須の条件となった。しかし日本は欲しかった先制点を、前半27分に奪われてしまう。
天を仰ぐ選手たちを宮間が叱咤、なでしこは反撃を開始する。そして4分後に、宮間のクロスから近賀が汚名返上の同点ゴール。勢いに乗った日本は後半爆発し、澤や大野忍、安藤梢などのゴールで5-1と快勝し予選リーグ突破を決めた。
決勝リーグの1回戦は、地元の大声援を受けた中国だった。日本は中国の観客が浴びせるブーイングをものともせず、16分澤がコーナーキックを頭で合わせて先制点を決める。さらに80分、永里が追加点を決めると、それまで騒がしかった観客たちは次々と席を立ち帰宅し始めた。結局このまま2-0と勝利を収め、日本はオリンピック初のベスト4進出を果たす。
準決勝の相手は予選で0-1と惜敗したアメリカ。なでしこたちは今度こそはと挑みかかり、16分近賀のクロスから大野がGKホープ・ソロをかわしシュート、先制点が生まれる。しかし本気になったアメリカは反撃を開始、たちまち4点を奪われ逆転されてしまった。
ロスタイムに荒川が1点をかえすものの、2-4で敗れ日本はまだアメリカに及ばないことを思い知らされる。そのあとの3位決定戦も強豪ドイツを打ち破れず、日本はメダルを獲得出来なかった。
悔しさの一方、得点王を獲得した大野などなでしこたちには全力を尽くしたという充実感もあった。澤の「苦しくなったら、私の背中を見て」という言葉もこの大会から生まれている。
オリンピック終了後、加藤や池田(旧姓.磯崎)などのベテラン選手が代表を退いた。長年キャプテンを務めた池田から、澤へとその重責は引き継がれる。そして新たに、海堀あゆみ、川澄奈穂美、鮫島彩、熊谷紗希などがなでしこの戦力として育ってゆく。
09年4月アメリカに新しい女子サッカープロリーグ、WPSが発足した。そしてWPSのドラフト指名を受けた澤、宮間、荒川がアメリカへ渡る。さらに2010年には永里と安藤がドイツ、宇津木がフランスでプレーをすることになった。
10年5月、ワールドカップ予選を兼ねた女子アジアカップが東京で開催される。この大会には、当時16歳だった岩渕真奈が代表に初招集される。日本は準決勝でオーストラリアに不覚をとったが中国を破り3位を確保、Wカップ出場を決めた。
11月には中国でアジア競技大会が開催され、なでしこは男子とのダブル優勝を果たす。この大会には20歳の高瀬愛実が初招集され、ドイツから呼べなかった永里と安藤に代わり大野と2トップを組んだ。
11年3月、日本はポルトガルで開かれたアルガルヴェ・カップに招待され、6月のFIFA女子ワールドカップドイツ大会に向け力を試す。アメリカには敗れたものの強豪国の集まったこの大会で3位となり、日本の強化は順調に進んでいるかに思えた。
だがチームが帰国した直後、日本を揺るがす大災害が起こり、なでしこたちも大きな危機を迎える。3月11日の東日本大震災と、東京電力福島第一原発の事故である。