サイレントノイズ・スタジアム

サッカーの歴史や人物について

サッカー日本代表史 5. オフト改革

 
プロ化を果たした日本サッカー

1985年、メキシコワールドカップ予選で韓国に完敗したことをきっかけに、日本サッカー界はプロ化に向かって動き出す。86年には日産の木村和司と西ドイツから戻ってきた奥寺康彦が、 “スペシャル・ライセンス・プレイヤー” という名称で日本最初のプロ選手となり、その翌年には日本リーグの多くの選手がプロ契約を結ぶようになった。

 

88年に実質的なプロ化検討委員会が発足すると、推進派によりサッカー協会に具体的案が提示される。サッカー協会副会長・長沼健も賛同し、一気に日本リーグのプロ化の話は進んでいった。だが保守派の中には、リーグのプロ化を果たしても成功は難しいと反対する者もいた。

 

そこへ推進派の川淵三郎が「時期尚早と言う人間は、 100年経っても時期尚早と言う」と発言。強烈なリーダーシップを発揮してプロ化へ邁進し、91年には「社団法人日本プロサッカーリーグ」(Jリーグ)が設立されることになる。

 

Jリーグの参加規定にはスタジアムの規模や設備など厳しい条件が付けられたが、予想以上に多くのクラブが名乗りをあげ、うち10のクラブが選ばれる。92年のプレ期間を経て、93年にジーコら世界のスターも加わったJリーグが華やかに開幕。日本に熱狂的なJリーグブームが湧き起こり、大勢の観客がスタジアムに押し寄せたのである。

 
初の外国人代表監督、ハンス・オフトの改革

日本代表監督の横山謙三は、90年の北京アジア大会にブラジルで活躍した三浦知良と日本に帰化したラモス瑠偉の二人を招集する。しかし依然として日本代表チームは良い結果を残せないでいた。

当時、Jリーグチェアマンとサッカー協会技術委員長を兼ねていた川淵は、ある日代表ミーティングに参加。そのとき川淵は主力選手の自己主張の強さを目にし、日本のアマチュア監督ではプロ化する代表チームを統率することが難しいと考えるようになる。

そこで川淵は、マツダ(現サンフレッチェ)のオランダ人監督で天皇杯優勝などの実績を持つハンス・オフト接触する。川淵との面談でオフトが日本代表強化に意欲を見せたことで、サッカー協会と合意が成立。92年3月、日本代表初の外国人監督が誕生した。

監督就任時の記者会見でオフトは、「日本代表をワールドカップに出場させることが目標」との意欲を表明。だが93年の春に行なわれる1次予選に向け、彼らに残された時間は少なかった。

新チームは清雲栄純をアシスタントコーチに迎え、オフトジャパンには三浦カズやラモスのほか、GK松永成立、DF柱谷哲二井原正巳勝矢寿延堀池巧都並敏史、MF北沢豪吉田光範森保一、FW高木琢也中山雅史武田修宏福田正博らの選手が招集された。彼らはそのまま、1年半後のW杯最終予選でも主力メンバーとなる。

オフトは選手たちにそれぞれ役割を与え、その役目を正確にこなせるよう基本練習を繰り返させた。「自分たちは高校生じゃない、プロだ」と反発する選手もいたが、基本を疎かにしている者が多いのも確かだった。

それまで曖昧だったチーム戦術も、「スモールフィールド」「アイコンタクト」「トライアングル」などの言葉を使い、選手たちに分かり易いように浸透させ、ポジションごとの役割を明確にする。

そんなオフトに対し、あからさまな反発を見せたのが攻撃の司令塔ラモスである。彼は今まで所属の読売クラブや代表で自由奔放なブラジル流サッカーを続けてきており、オフトのシステマチックで規律を重んじるサッカーは受け入れがたいものだった。

ラモスはオフトの吹く指笛に「オレはアンタの犬じゃない」と突っかかってみたり、食事の席まで指示されることに不満を漏らしたりしていた。

オフトと選手の関係がしっくりしないまま、92年8月にダイナスティカップ(現、東アジアE-1選手権)が開催される。オフトは初戦の韓国戦で試合前に相手メンバー表を破り捨て、選手たちを鼓舞してピッチへ送り出した。

試合が始まるとパスが面白いように繋がり、韓国と互角以上の勝負が展開されたことに選手たちは驚く。この試合は引き分けに終わったものの、韓国選手が日本のパス廻しに体力を消耗し、後半足が止まるなど今までに無いことだった。手応えを感じたチームは、この後の中国戦と北朝鮮戦に快勝し、優勝決定戦では韓国をPKで下し優勝を果たしたのだ。

日本代表が1年前のこの大会で全敗していた事を考えると、信じられないような出来事だった。こうしてチームには自信が生まれ、オフトは選手たちの信頼を得ることになる。

それでもラモスだけはオフトに対する反抗的な姿勢を変えず、ついに決定的な対立を迎える。ある日オフトはラモスを呼び出し、彼にサッカー雑誌のとあるページを指し示した。そこにはラモスが雑誌のインタビューに答えた記事が載っており、オフトのやり方を批判するような内容だった。

書かれている事はラモスの真意とは違っていたが、監督批判と受け取れる内容に二人は激しく言い合うことになる。その結果、ラモスはついに代表を外される時が来たと覚悟した。

そんなラモスのもとにやって来たのが、今までオフトとの仲を取り持ってきたキャプテンの柱谷だった。柱谷は真剣な眼差しでラモスに訴えた「ラモスさん、俺たちはオフトを信じ付いていくことに決めました。監督に従えないのなら、代表を辞退してもらえませんか」

ラモスは柱谷のこわばった表情にチームに対する思いの強さを感じ、今までの態度を考え直すことにした。ラモスにもワールドカップ出場にかける思いはあったし、オフトも今まで辛抱強くラモスに対応してくれたのだ。そして翌日、ラモスは自らオフトに歩み寄っていく。

アジアカップ広島大会

オフトの指導のもと、元来ウイングの選手であった三浦カズはFWで高い決定力を発揮するようになり、都並、ラモスと左サイドで「読売ホットライン」を形成する。

高木もターゲットマンとして成長を見せ、福田も切れ味鋭いドリブルが評価されてレギュラーに定着していった。中央では戦術眼に優れた森保がバランスを取り、吉田が前線にパスを供給するという役目もハマり、チームは成熟していく。

その10月末には、広島で第10回となるアジアカップが開催された。56年の香港大会から始まったアジアカップだが、予算に余裕がない日本は、五輪と同年に行われるこの大会に積極的な姿勢を見せてこなかった。

過去9回行なわれた大会で、これまで参加したのはわずか3回のみ。しかもそのうち予選を勝ち抜き、本戦に出場できたのは、大学生選抜で臨んだ前回のカタール大会だけだった。1次予選を突破した大学生チームは、本戦の1次リーグでは4試合で無得点に終わり、惨敗で大会を終えている。ちなみにこの時のメンバーの中に、井原正巳中山雅史高木琢也などの選手がいた。

予選1次リーグ、初戦日本はUAEと対戦したが、相手GKの好守もあり0-0と引き分ける。続く北朝鮮との試合は29分にカウンター攻撃を許し、1点を先攻される展開となった。追いつきたい日本だが、攻めあぐねるうちに時間は過ぎていく。だがようやく80分、カズのCKから交代出場したばかりの中山が殊勲の得点。どうにか1-1の同点で試合を終えた。

2試合続けて引き分けた日本は、3試合目のイラン戦で勝利をあげることが、準決勝進出の絶対条件となった。試合開始から日本は積極的に得点を狙うも、守備を固めてきた相手に攻めあぐねる。後半68分に体調不良でベンチに控えていたラモスと、スーパーサブの中山を投入するも、イランの守りを崩せず0-0のまま終了時間は迫ってきた。

会場に諦めムードが漂い始めた87分、前線に繰り出した井原からディフェンス裏へ絶好のパスが送られた。そこへオフサイドラインをかいくぐったカズが飛び込み、角度のない位置から “足に魂を込め” てのシュート。ボールはゴール右上に吸い込まれ、ついに貴重な得点が生まれた。

立場が逆転し、このままでは敗退となるイランは猛攻を開始。ロスタイムに入った92分、相手のミスから日本がボールを繋ぐと、イラン選手が悪質なファールで高木を倒した。そのプレーにレッドカードが指し示されると、怒ったイラン選手が主審を取り囲み暴行を働く。

そのため最後はイランの選手2人が退場となるという、後味の悪い試合になったが、1-0と勝利した日本は準決勝進出を決めた。

 

「オフトマジック」と日本代表の快挙

準決勝中国戦では、日本のミスから開始32秒で中国に得点を許してしまう。試合は0-1のまま後半を迎えるが、48分にはカズのCKを福田が決めて同点とした。さらに57分、都並のロングボールを高木が頭で落とし、それを拾った北澤が逆転ゴールを叩き込む。

だがその直後、思わぬ自体が発生した。中国選手の危険な飛び込みに激怒したGKの松永が、倒れた相手選手の頭を蹴るという暴挙を犯したのだ。松永は当然一発退場となり、日本は北澤に代え第2GKの前川和也を投入。10人での戦いを強いられる事になった。

数的優位となった中国は、パワープレーで反撃。70分、中国の放ったシュートを前川がファンブル。こぼれ球を拾われ同点とされてしまう。75分、日本は中山を投入して状況の打開を図る。その86分、福田のクロスを中山がヘッドで決め3-2と勝ち越し。乱戦を制した日本は、ついにアジア大会で初となる決勝へ進出した。

決勝の相手は、大会3連覇を狙うサウジアラビア。この対決は日本が開始直後から試合をコントロールし、36分にはカズからのクロスを高木が巧みな胸トラップでシュート。鮮やかな先制点が決った。

このまま最後まで1点を守り抜き、試合はタイムアップ。1-0と勝利した日本は、広島でアジアカップ初優勝を飾った。短期間でチームを成長させた監督の手腕は、“オフトマジック”と讃えられるようになる。

アメリカW杯、アジア予選開始

Jリーグ開幕を前にした翌93年4月、アメリカW杯のアジア第1予選が開催される。ホーム&アウェイで行なわれたこの予選は、タイに手こずったものの他チームには快勝し、5月に終予選進出をかけたUAEとの戦いを迎える。

アウェイで行なわれたこの試合で、日本は守りの堅いUAEに苦戦。82分に1点を与えてしまう。だがその直後、新戦力の澤登正朗が強烈なミドルシュートを決めて引き分け。日本は無敗で1次選突破を決めた。

W杯最終予選は予選を突破した6チームを集め、中東のカタール・ドーハで行なわれることが決まっていた。「このままいけばW杯出場も夢ではない」と、サポーターたちの期待は高まった。しかしJリーグが開幕し、熱に浮かされたような激しい試合が続くと、選手たちは次第に消耗。代表にも悪影響を及ぼすことになる。

 

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