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サッカーの歴史や人物について

サッカー日本代表史 8. 新世代の台頭



ファルカン監督と新世代の選手たち

日本代表はカタール・ドーハで行なわれたアメリカW杯予選で3位に終わり、あと一歩のところで本大会出場を逃す。強化委員長の川淵はオフト続投を考えるが、協会には予選敗退の責任を問う声があり、オフト監督自身も辞意を表明して新監督を探すこととなった。

 

当時のサッカー協会は海外へのつてを持たなかったため、外国人指導者に絞った監督探しは難航するが、当時強化委員だったセルジオ越後が仲介したブラジル人のロベルト・ファルカンと交渉、94年の春に新監督就任が決定する。ファルカンは現役時代にジーコとともにセレソンで活躍した有名選手で、短期間だがブラジル代表監督も経験している。

 

ファルカンは日本の事を全く知らなかったにもかかわらず、ブラジルから帯同したコーチと1ヶ月余りJリーグを視察しただけで代表選手を選出した。

 

この選出にあたってファルカンは強化委員の意見を聞くこともなく、磐田監督の前任者オフトや鹿島のジーコにもアドバイスを求めなかった。この時点で既に、サッカー協会のファルカンに対する印象は芳しくないものになっていた。

 

ファルカンは3年後のフランスW杯予選を見据え、実績が無くても将来性のある若手を多く代表に招集する。その中にはレフティモンスター小倉隆史、No,1ドリブラー前園真聖、スーパールーキー城彰二らの有望選手が含まれていた。

 
短命に終わったファルカン政権

ファルカンの日本初采配は5月に行なわれたキリンカップで小倉、前園も出場。そのうちフランス戦では小倉が代表初得点を記録している。練習や試合で事細かい指示を与えていたオフトに対し、ファルカンの大まかな指導は選手たちを惑わせた。

だが選手の自主性を重んじながら彼らのプレーに対する要求は高く、選手がファルカンの戦術をこなすには相当の時間がかかると思われた。

日本サッカー協会は、次第にファルカンの指導法に疑問を抱くようになっていく。そして10月に開かれた広島アジア大会の準々決勝で日本が韓国負けると、ファルカンはあっさり監督の任を解かれてしまった。

解任の理由はコミュニケーション不足によるものとされたが、様子見で代表を任せた協会と、長期的視野で強化を考えていたファルカンでは、最初からすれ違いが起こっていたのだ。

28年ぶりの五輪出場を懸けた戦い

95年5月にはアトランタ五輪のアジア第1次予選が行なわれた。前回のバルセロナ五輪予選は大学生中心のチームで戦い、アジアの強国を前に敗退を余儀なくされていた。今回は初めてJリーガー主体のチームが編成されることになり、プロ化の意義が問われることになる。

しかも、2002年W杯開催をめぐり韓国と招致を競っている事情もあって、五輪出場は至上命題となっていた。

五輪代表監督を務めるのは西野朗。アシスタントコーチは山本昌邦が務めた。チームのキャプテンは、A代表でもレギュラーだった前園に託された。他に招集された選手は小倉や城に加え、GK川口能活、DF鈴木秀人、MF伊東輝悦路木龍次などがいた。アジアに与えられた五輪出場枠は3つ。日本は是が非でも予選3位以内に入らなければいけなかった。

第1次予選の相手であるタイのチームにはA代表経験者が何人もいて、地元では“ドリームチーム”と呼ばれて、日本も苦戦が予想された。だが試合に入ってみると、攻撃陣が爆発。タイを5-0と下し、危惧されていた得点力不足を一掃する。

こうして日本は1次予選を危なげなく勝ち抜き、96年3月に行なわれる最終予選に向けさらなる強化を図ることになった。この間の海外遠征で西野監督が新戦力として加えたのが、DF松田直樹田中誠、そしてMFの中田英寿であった。

しかし順調に強化が進んでいるかに思えた最終予選1ヶ月前、五輪代表は重要な戦力を失う。エース小倉が合宿中の練習で膝に大怪我を負い、最終予選出場が不可能となってしまったのだ。

マレーシアで行なわれた最終予選のグループリーグでは、怪我をした小倉に代り中田が攻撃陣に加わることになった。中田は小倉の穴を埋める活躍を見せ、チームはグループリーグ1位で準決勝進出を果たした。

五輪出場を懸けた準決勝の相手は、アジアの強国サウジアラビアだった。日本はサウジの攻撃力を警戒し守備的布陣で臨むが、前半4分、細かいパス回しで相手ディフェンスを切り裂き、前園の先制ゴールが生まれる。

その後攻撃を強めたサウジにペースを掴まれるも、後半負傷した選手に代り中田を投入。日本の攻撃は再び活性化する。57分にはまたも前園が伊東とのワンツーからゴール前に迫り、飛び出したキーパーの脇を抜く追加点を挙げた。

日本はこの後1点を返されるが、GK川口を中心にサウジの猛反撃をしのいで2-1の勝利。決勝では力尽きて韓国に敗れるものの、日本は銅メダルを獲得したメキシコ大会以来28年ぶりにサッカーにおける五輪出場を果たすことが出来たのである。

ブラジル戦の殊勲「マイアミの奇跡

オリンピック本戦では3人のオーバーエイジ枠があったが、短い時間で新戦力をフィットさせるのは難しいと考えた西野監督は、予選のメンバーで本番に臨む事にした。日本の入ったグループDはブラジル、ナイジェリア、ハンガリーと強敵揃いの組であった。

特にブラジルは、W杯優勝の実績を持つマリオ・ザガロが監督を務め、本気で金メダルを獲りに来ていた。ロベルト・カルロスロナウド(登録名ロナウジーニョ)といった有名選手に加え、オーバーエイジ枠にはべべトーやアウダイールなどW杯優勝メンバーを呼んで、A代表と遜色のないチームが出来上がっていた。

日本は96年7月21日にマイアミ、オレンジボウル・スタジアムで優勝候補ブラジルとの初戦を迎える。前半ブラジルの攻めは緩く、最初に攻撃を仕掛けたのは日本のほうだった。一瞬いけるかもと思わせたが、やはり力量の差は圧倒的で、抑え気味のブラジルにボールを支配されてしまう。

それでも日本は粘り強く守り、前半を無失点で抑えた。ザガロ監督の叱咤を受けたブラジルが後半猛攻を仕掛けてくると、日本は防戦一方となる。絶え間なく攻めてくるブラジルの攻撃を、日本は必死のプレーで守り、GK川口もロベカルベベットフリーキックを防いで獅子奮迅の働きをする。

ブラジルに焦りが見えた72分、日本に数少ないチャンスが訪れる。ブラジルDFラインの裏に大きなスペースが空き、そこを目指して伊東が走り出すと、左サイドに展開していた路木からロングボールが放り込まれた。

これはブラジルDFの足の遅さを見越し、事前に狙っていたプレー。路木からのボールにワントップの城も反応する。ボールは走り込む城の僅か先に落ちたが、それをクリアしようとしたアウダイールと飛び出してきたGKジダが交錯。

ボールはぶつかった彼らの横を転々としてゆき、そこへ後方から駆け上がってきた伊東が無人のゴールへ押し込んで、日本は幸運にも思える先制点を挙げた。

日本はその後の反撃を防ぎ、試合は1-0で終了。相手に圧倒される中で『マイアミの奇跡』と呼ばれる劇的勝利を挙げた。

ブラジルは次のハンガリー戦でも、DFとGKの連携の悪さから失点。日本の1点はある意味狙い通りで、奇跡は28本のシュートを放ったブラジルの攻撃を守り抜いたことにあった。

続く23日のナイジェリア戦に勝てば、日本はグループリーグ突破がほぼ確実となる。だがカヌー、オコチャ、オリセーなど、欧州で活躍する選手が多いこのチームも “スーパー・イーグルス” と呼ばれる難敵だった。だがこの大事な一戦を前にして、五輪代表選手の間に大きな亀裂が生じ始めていた。

前園、城、中田といった攻撃の選手たちが、西野監督の守備的な戦術に不満を感じ始めていたのだ。そしてブラジルという強敵を撃破すると、そのストレスはさらに強まっていた。

ナイジェリア戦の前半を0-0で迎えたハーフタイム、中田は路木に対しもっと攻撃に参加するよう要求を出す。守備的なポジションを取るようにと指示されていた路木が戸惑っていると、その会話を聞きつけた西野監督が中田を怒鳴りつけた。

中田はそれに納得せず、前園や城も反抗的な態度を露わにする。チームには沈滞ムードが漂い、後半のプレーは精彩を欠いたものになる。

70分にDFの要である田中が怪我で退場すると、日本の守備は破綻をきたし、82分に不運なオウンゴールで失点する。さらに終了直前には、自陣Pエリアで転倒した鈴木がボールを抱え込むというハンドを犯し、PKを沈められて日本は0-2で敗れた。

日本のグループリーグ突破は3戦目のハンガリー戦に懸かってくるが、西野監督は中田を先発から外してこの戦いに臨んだ。日本の攻撃陣には西野監督に対する不信感が生まれ、前線の動きは活発さを失っていた。それでも日本は後半ロスタイムに2点を入れ、ハンガリーに3-2と逆転勝利を収める。

ブラジルとナイジェリアと日本がそれぞれ2勝し勝ち点で並ぶが、日本は総得点で及ばずグループリーグ敗退を喫することになる。結局この大会ナイジェリアが金メダルに輝き、優勝を逃したブラジルも銅メダルを獲得する。

五輪終了後、西野監督の戦術は技術委員会より消極的とされ、2勝を挙げたにもかかわらず低い評価が下された。それに憤慨した西野は、今度はクラブチームの監督として攻撃的な戦術を採るようになった。そして22年後、西野にW杯の舞台で雪辱の機会が訪れる。

戦いを終えアトランタ五輪代表は解散し、新世代の選手たちはA代表に活躍の場を移すことになった。