日本がアメリカW杯の最終予選進出を決めたその約1週間後、ついにJリーグが開幕。93年5月15日には、開幕記念試合となるヴェルディvs マリノス戦が行なわれた。国立競技場に満員の観客を集め、マスコミにも大きく扱われたこの試合には、日本代表の左サイドバック都並敏史の姿もあった。
都並はすでに32歳のベテランだったが、Jリーグの熱狂もあって身体はよく動いていた。しかし好調をキープして迎えた第3節のサンフレッチェ戦、身体の大きな外国人選手と激しくぶつかり、左足首を痛めてしまう。
足首に激痛が走ったため都並はピッチを退き、このあと3試合を欠場して治療にあてる。だが主力選手の戦線離脱が続いたチーム事情に、無理を押して2週間後の試合へ強行出場した。
その試合は激痛を堪えながらプレーを終えるも、3日後のゲームでついに都並の足首は悲鳴を上げる。だがレントゲン撮影では原因がはっきりせず、そのまま練習を続けていたある日、左踵の骨が音を立てて砕けた。
これは都並の甘い判断が招いた最悪の結果だった。7月には疲労骨折した左の踵にボルトで骨を固定する手術を受けるが、もはや今季のJリーグ出場は諦めざるを得なくなる。
だが最も深刻な問題は、3ヶ月後に迫ったW杯最終予選出場の可能性だった。オフトの日本代表には、都並の代わりを務められる左サイドバックがいなかったのだ。
都並の怪我を知ったオフトとコーチの清雲は、すぐにJリーグの視察を重ね、代役探しを始める。左サイドはオフトジャパンの生命線。守っては身体を張って相手の攻撃を抑え、駆け上がっては前線のラモスやカズと連携を取り攻撃できるのが都並の強みなのだ。
センタリングの正確さも、当時のサイドバックの中では秀でた技術を持っていった。そんな都並の能力が、代表チームには不可欠だったのである。
その攻守におけるバランスの良さは、走力だけではなく適切なポジショニングとタイミングを見極める経験の豊富さによるものだった。アジアNo,1の左サイドバックといえる都並の代役を務められる選手が、慌てて探したところで見つかるはずがなかった。
都並の代りが見つからないままJリーグは一時中断し、W杯最終予選のため代表チームはスペイン合宿を行なう。Jリーグの過酷な日程や、引き分けなしによる延長Vゴール方式の採用で、選手たちは疲弊しきっていた。
開幕前の第1次予選から福田は調子を崩し、北澤は足を骨折していて、合宿時のチームコンディションは最悪だった。高木も復帰は早かったが足の故障明けで、キャプテンの柱谷に至っては、肝炎のため合宿にさえ参加できていなかった。
スペイン合宿の大きなテーマは、Jリーグの疲労を取ることと、左サイドバックを決めることだった。オフトはJリーグで好調だった清水エスパルスのFW長谷川健太と、都並の代役候補としてジェフユナイテッド市原の江尻篤彦を代表に招集する。怪我の回復次第では最終予選出場の可能性が残されていた都並も、注射で痛みを抑えながら合宿に参加した。
江尻は本来、左MFの攻撃的な選手で守備は得意と言えなかった。スペインの地元クラブチームとの練習試合で、江尻は左サイドバックとしての適性を試されるが、どうしても守備が疎かになって再三ピンチを招いてしまう。オフトの期待に添えなかった江尻は前半だけで退き、二度と彼が使われることはなかった。
一方、都並の足首は痛みが続き、麻酔を何本も注射しなければ練習も出来ない状態だった。いっこうに回復の兆しさえ現われず、我慢強い都並も思わず弱音を吐くようになる。
代表チームはスペイン合宿を終えて日本に戻ると、二週間後の最終予選に向けて最後の調整を行なった。幸い柱谷の体調も回復し、代表の練習に参加できるようになっていた。
その最終予選の出発前、コートジボワールとの試合が予定されていた。オフトは清水エスパルスで守備的ハーフを務める三浦泰年を代表に呼び、左サイドバックとして試してみる。
泰年は三浦知良の実兄で、かつて読売でプレーした選手でもあり、カズやラモスとの連携は問題なかった。だが問題は馴れない左サイドの守備である。試合はコートジボワールが左サイドをあまり攻めてこず、泰年の守備力を確かめるまでには至らない。それでもオフトは、左サイドのポジションを無難にこなした泰年を、最終予選のメンバーに加える。
コートジボワール戦の前、都並は大量の麻酔が効いたのか一時的に痛みがなくなり、練習試合で50分間プレーをしている。その内容が良かったので、オフトと清雲は最終予選で少しくらいは都並が使えるのではないかと期待を抱く。
麻酔が切れると相変わらず激痛がぶり返していたが、都並は一縷の望みを持って病院で最終チェックを受ける。だが彼に渡された足首のレントゲン写真には、骨に新たな亀裂が現われていた。もはや最終予選での復帰は、絶望的な状況だった。
報告を受けたオフトは、それでも都並をカタールへ連れて行くことにする。たとえ試合に出られなくても、都並をスタンバイさせておくことで相手を攪乱できると考えたからだ。
アメリカW杯アジア最終予選は、93年10月15日にカタールのドーハで開幕した。1次予選を勝ち抜いた日本、韓国、北朝鮮、サウジアラビア、イラン、イラクの6ヶ国が総当たりで戦い、そのうち上位2ヶ国がW杯の出場権を得ることになっていた。
日本が初戦で当たる相手はサウジアラビア。開催地カタールとは隣の国で、応援のサポーターも大勢駆けつけ、事実上サウジのホームゲームといえた。
1次予選で累積警告となっていた都並は、この初戦は出場停止だった。しかし彼は敵の目を欺くために、注射を打ち無理を押して練習に参加する。サウジアラビア戦で左サイドバックに起用されたのは、代表に招集されたばかりの三浦泰年。試合で攻撃は期待通り機能したが、危惧された守備面はやはり不安定だった。
中盤の選手である泰年は、どうしてもポジションが中よりになってしまい、左サイドに通されたボールに対しチェックが遅れてしまう。しかし左サイドバックの経験がほとんどない彼にとって、それはどうしようもないことだった。
2列目からの飛び出しが持ち味の福田正博は、Jリーグでの不調と中東の気候が合わなかったことでスランプに陥っていた。それでも好機を窺いながらプレーすると、前半20分に願ってもないチャンスが訪れる。
相手ペナルティエリアへ走り込んだ福田に、ラモスのヘディングパスが通ったのだ。難しいパスだったが、ボレーで合わせたシュートは相手キーパーの逆サイドを突いた。最高の感触で打った球は強さもコースも完璧で、福田はゴールを確信する。
しかしそのシュートは、驚異的な身体能力を誇るGKアル・ディアイエの神がかり的なセーブに阻まれた。絶好のチャンスを逃した福田は復調のきっかけを失い、これ以降得意のドリブルも影を潜めて精彩を欠いていく。
初戦ということで両チームとも慎重になったのか、試合は0-0の引き分けに終わる。強敵サウジアラビアとの対戦と考えれば、日本にとって決して悪い結果ではなかった。だが次のイラン戦は是非とも勝ちたい試合だった。予選も終盤に入ると、体力的にきつくなるのが分かっていたからである。
18日に行なわれた第2戦のスターティングメンバーは、初戦と同じだった。都並が起用されなかったことで、怪我の深刻さは周知のものとなる。第1戦を見ていれば、都並のいない左サイドが日本の弱点であることは明白だった。
オフトはイランが日本の弱点を突いてくることを予想し、ラモスと井原に左サイドをケアさせた。しかし第1戦を落としているイランは必死だった。イラン選手の当たりの激しさに、ラモスは身体を痛めプレーのキレを失う。そして左サイドへ執拗に攻撃を受け続けると、日本の守備は綻びを見せ始め、前半のロスタイムにフリーキックから先制点を許してしまう。
後半日本は得点を狙うべく、吉田光範に代えて練習で好調だった長谷川健太を投入する。さらに73分には三浦泰年を中山雅史と交代させ、リスクを承知で超攻撃的な布陣で臨む。しかしその賭けは、結局裏目に出てしまう。
85分、前掛かりになった日本守備陣の裏にパスが出されると、イランの新鋭FWアリ・ダエイがオフサイドラインをかいくぐり飛び出す。そしてダエイは飛び出してきたGK松永成立を軽くかわし、無人のゴールへボールを流し込んだ。
その瞬間、日本陣営とサポーターたちに絶望感が広がる。だが諦めていない男が一人だけいた。試合終了直前、右サイドのエンドラインを越えようとしていたボールを、中山がスライディングでキープ。中山はすぐに立ち上がると、ゴール前にグラウンダーのクロスを蹴り込む。すると強い回転が掛かったボールは、イランゴールへと吸い込まれていった。
得点を決めた中山は、相手選手が抱えていたボールをひったくると、グラウンドの中央に向かって走っていた。30秒あればもう1点奪える、そんな気持ちだった。だが直後に試合はタイムアップを迎え、1-2の敗戦。全チームが2試合を終えた時点で、日本は最下位に沈んでしまった。
それでもこのあと記者会見に臨んだオフト監督は、残り3試合の勝利を宣言する。本当の勝負はまだこれからだった。