市井に生きる人々を情緒あふれるタッチで描き出し、「詩情豊かな映像の詩人」と呼ばれた映画界の巨匠ジョン・フォード監督。また雄大な風景をバックにした西部の物語とアクションを生み出した「西部劇の神様」でもある。
ジョン・ウェインとのコンビによる『駅馬車』『黄色いリボン』『静かなる男』『捜索者』や、ヘンリー・フォンダとのコンビによる『怒りの葡萄』『荒野の決闘』、モーリン・オハラ主演の『わが谷は緑なりき』などの名作・傑作で知られ、映画の歴史に巨大な足跡を残した。
約50年にも及ぶキャリアの中で136本もの作品を手がけたが、一貫してアイルランドの魂と西部のロマンを描き続けた映画監督だった。
ジョン・フォード(本名、ショーン・アロイシャス・オフィーニー)はアメリカ東海岸メーン州のポートランドに近いケープ・エリザベスで生まれた。父はアイルランドからの移民で母もアイルランド系、町で酒場を営む子だくさん一家の末弟だった。
12歳上の兄フランシスは家業を嫌い、若くして出奔。ニューヨークでフランシス・フォードを名乗る俳優となった。そして撮影所がカルフォルニアに移転するときも行動をともにし、ユニバーサル映画黎明期のスターになっていた。
ジョンは高校でフットボールに汗を流すかたわら、案内係のアルバイトをしていた町の劇場でたまに舞台へ立ったりしていた。志望は海軍軍人だったが、14年にアナポリス海軍兵学校の受験に失敗。メーン州立大学に入学するものの2週間で退学し、19歳のとき兄を頼ってハリウッドに向かう。
兄に習ってジャック・フォードと名前を変えた末弟は、最初の頃は小道具係やスタントマン、そして俳優などの仕事をこなした。15年には “映画の父” D・W・グリフィス監督の『国民の創世』にKKK団員役として出演。16年に助監督となると、18年には脚本と主演を兼ねた映画監督に出世する。
このスピード出世には兄の存在もあったが、西部劇の大スターでアイルランド系俳優ハリー・ケリーと昵懇の仲になっていたことも大きかった。フォードはケリーとのコンビでシャイアン・ハリーという名のカウボーイシリーズを20本余り手がけ、監督の腕を磨いていったのである。
だが名声を得るにつれ2人の盟友関係は崩れてゆき、21年にコンビを解散。そして娯楽映画のスペシャリストとしての地位を確立した23年には、ジョン・フォードと名前を変え、24年にフォックス社へ移って超大作『アイアン・ホース』の監督に抜擢される。
この大陸横断鉄道建設の史実をもとにした一大開拓叙情詩は記録的な大ヒットとなり、批評家からも絶賛を集めて、ジョン・フォードの名は一挙に世界に広まった。フォードは『アイアン・ホース』以降もB級の娯楽作を量産する一方、『三悪人』などの野心作にも挑み、27年までに撮った作品は約60本。仕事の速さと現場の統率力で豪腕と呼ばれる監督になっていた。
だが27年にトーキー第1作『ジャズ・シンガー』が公開され無声映画が廃れていくと、波に乗り遅れたフォードはスランプに陥る。しかも撮影中に大酒をくらっているという良くない噂も立ってしまったため、関係者からの評判も悪くなる一方だった。
そんな状態にあったフォードを救ったのは、RKO社のプロデューサーであるM・C・クーパーだった。クーパーはかねてからフォードの才能を高く買っており、RKO社に招いて彼と話し合いを持った。すると2人の男はたちまち意気投合、フォードは撮影中の酒を控えて、RKOから依頼された仕事に没頭する。
こうしてフォードはRKO社で『肉弾鬼中隊』(34年)と『男の敵』(35年)を撮った。『男の敵』はアイルランド独立戦争を背景に、同士を裏切る男の苦悩を描いた物語。この作品は高い評価を受け、アカデミー賞の監督賞・主演男優賞・脚色賞・作曲賞を受賞。ジョン・フォードに初のオスカーをもたらした。
そのあとキャサリン・ヘプバーン主演の『メアリー・オブ・スコットランド』(36年)や、ディザスター・ムービーの古典『ハリケーン』(37年)といった作品を成功させる。そして第一線の監督に復帰したフォードは、『三悪人』以来13ぶりとなる西部劇に取りかかることになった。
トーキーの時代になってから、ロケ撮影で行われる西部劇は(野外用の音響・撮影機材などで)製作費がかさむようになり、子供向けのチープな作品しか作られなくなっていた。かつては隆盛を誇っていた西部劇も、この時はマイナーなジャンルに堕ちていたのだ。
フォードが映画化しようとした素材は、『ローズバーグ行きの駅馬車』という短編の西部劇小説。たまたま駅馬車に乗り合わせた乗客たちが、アパッチの跋扈する荒野を走り抜けていくというスリリングな内容がフォードの興味を引いた。
フォードとクーパーは脚本を携え、RKOのボス、デヴィッド・O・セルズニックと直談判。最初は西部劇ということで乗り気ではなかったセルズニックだが、2人の熱弁を聞くうちに態度を軟化、条件付きでの制作を提案する。
その条件とは、当時人気絶頂だったゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒを主役に使うことだった。だが、主役のリンゴー・キッドに無名俳優を抜擢するとすでに決めていたフォードはその条件を拒否。RKOを諦めて、独立プロデューサーのウォルター・ウェンジャーと組むことになった。
そしてこの映画の主役に抜擢した俳優が、当時くすぶっていたジョン・ウェインだった。ウェインは新人時代に『ビッグ・トレイル』(30年)で主役を務めたが、映画は興行的に失敗。その後はB級活劇の俳優として鳴かず飛ばずの日々を過ごしていた。
だがその不遇時代の間、ウェインは生まれ持った長身とスケールにふさわしい威厳と優雅さを身につけていた。11年前のデビュー時から彼に目をかけていたフォードは、その成長を見てウェインこそ新しい西部劇のヒーローにふさわしいと考えたのだ。
こうして39年に公開された『駅馬車』はスピーディーなアクションの連発と、雄大なモニュメント・バレーを背景にしたスリリングなストーリーがウケて大当たり。ジョン・ウェインをスターに押し上げると同時に、西部劇の魅力を観客に知らしめ、その後の全盛期を切り開くことになったのである。
同じ39年には、フォード監督による『若き日のリンカン』が公開。この映画でエイブラハム・リンカーンの青年時代を演じたヘンリー・フォンダは、以降ウェインと並ぶフォード組の柱となり『怒りの葡萄』(40年、アカデミー監督賞)や『荒野の決闘』(46年)などの名作を生み出すことになる。
また41年にはモーリン・オハラ主演の『わが谷は緑なりき』を監督。19世紀末の英国を舞台に、炭鉱夫一家の強い絆と人情の温かさを描いた物語は大きな感動を呼び、アカデミー賞の作品賞と監督賞を受賞している。物語の舞台こそウェールズだが、フォードの持つアイリッシュ精神が美しく現れた作品だと言われている。
そして52年の『静かなる男』では、アイルランドへの郷愁に満ちた賛歌を高らかに謳いあげて、4度目のアカデミー監督賞を受賞。フォードはこの『静かなる男』を、「自分が作った中でも最愛の作品」と死ぬまで口にしていたそうだ。