トルーマン・カポーティは、日本ではオードリー・ヘップバーンの主演映画『ティファニーで朝食を』(61年)の原作者として知られたアメリカの小説家。マリリン・モンローとも親友であるなど、華やかな交友でハリウッドやセレブの社交界を賑わせたスター的存在でもあった。
19歳のときに執筆した『ミリアム』(43年)がオー・ヘンリー賞を受賞、「恐るべき子供」と評された。そして24歳で発表した『遠い声 遠い部屋』(48年)での新鮮な言語感覚が注目を集め、カポーティは早熟の天才作家として名声を確立する。
『遠い声 遠い部屋』は自伝的要素を帯びた初長編作品、だが注目を集めたのはその内容だけではなかった。まだ少年の面影を残すカポーティがソファーにけだるく身体を横たえ、性的な香りを漂わせながら挑発的な視線を向けるカバー装丁も大きな話題び、彼の名前はその写真とともに広く知られるようになった。
カポーティは1924年9月30日のニューオリンズ生まれ。母親リリーはミス・アラバマに選ばれるほどの美人だったが、二人の息子を置き去りにして遊びに出かけるなど奔放な生活を送っていた。そしてカポーティが4歳の時に父と離婚、それから彼の孤独な少年時代が始まった。まだ若かった母親は幼い兄弟二人をホテルの一室に閉じ込め、ボーイフレンドとのデートにいそしんでいたのである。
親戚をたらい回しにされる生活を送っていたカポーティだが、母親のリリーがニューヨークに住む資産家と再婚。しかし義父との折り合いが悪く、カポーティは寄宿制の学生寮や親類の家を転々するが、それでも母親を愛し続けた。だが母リリーはカポーティが20代半ばの頃に自殺、彼は孤独感を一層強めることになる。
出世作『遠い声 遠い部屋』は、幼い頃に父親と別れた少年が、父親探しに出かける物語。また『ティファニーで朝食を』の高級娼婦ホリー・ゴライトリーも、事情があって身内と離れて暮らす孤独なヒロイン。「親の不在」「見捨てられた子供」は、カポーティ作品の終生変わらぬテーマとなった。
若くして名声を得たカポーティは早くから各界の著名人と交友を結び、またテレビショーに出演するなど派手な話題を振りまいて、作品を読んだこともない一般人にも知られる有名人となった。親友のマリリン・モンローとは酒と踊りを楽しみ、エルビス・プレスリーにはラスベガス・ショーに招待され、誕生日パーティーでお祝いされるほどの仲となる。
そのほかにも、大統領夫人のジャクリーン・ケネディ、ワシントンポスト紙の社主キャサリン・グレアム、ポップアートの旗手アンディー・ウォーホル、作家のノーマン・メイラーなど、その交遊録には各界著名人の名前が並んだ。
またハリウッドでは、若い頃にジョン・ヒューストン監督の『悪魔をやっつけろ』の脚本を書いたり、ジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフト主演『終着駅』のダイアローグ部分を担当したり、バーブラ・ストライサンドの歌『眠れる蜂』の作詞を手掛けたりと、深い関わりを持った。
カポーティは身長160㎝の小柄な男だったが、自分よりも大きな男たちや女たちにも痛烈な批評の言葉を投げつけ「タイニイ・テラー(小さな恐怖)」と呼ばれた。ビート・ジェネレーションの作家ジャック・ケルアックを「ただタイプライターを叩いているだけだ」とこき下ろし、『大地』の作家パール・バックにも「彼女にノーベル賞なんて、頭がどうにかしている」と言ってはばからなかった。
そのほかにも、酒に酔っては「あんな奴は死刑にしてしまえ」とか「うぬぼれた嫌な奴」といった過激な発言を繰り返し、名誉毀損で訴えられたことさえあった。カポーティは孤独から派手な交友を好む一方、強いストレスに苛まれたことが過激な言動に繋がった。
そんなカポーティには「誰もが一度は会いたいと思うけれど、一度会ったら二度と会いたくなくなる人物」との評判が立つようになる。またあるインタビューでは「私はアル中である、ドラッグ中毒である、ホモセクシャルである、天才である」と発言し、良識派のヒンシュクを買っている。
カポーティが同性愛に目覚めたのは高校時代、相手は上級生だった。その関係が終わるとハーバート出身の教授に愛され、数年間の同棲生活を送る。しかしさすがのカポーティも、20代、30代の頃はホモセクシャルであることをカミングアウト出来なかった。まだアメリカ社会では同性愛がタブーとされていたからだ。
若い時のカポーティは自分が「禁じられた性向」の持ち主であることに悩み、それが必要以上の自己顕示欲、自己破壊衝動に現れたと言われている。
57年には、『サヨナラ』撮影中のマーロン・ブランドを追いかけて来日。その時三島由紀夫に会っている。カポーティは「日本の作家のことはほとんど知らないが、三島由紀夫には強烈な印象を持った」と語り、三島はカポーティを「面白い人であった反面、大変傷つきやすい人であった」と評している。
若い頃からエキセントリックな言動で知られていたが、年を重ねるほどその奇矯さが目立つようになる。77年に大学に招かれて公演したときは泥酔状態で壇上に立ち、「こんなところで話を聞いていないで、家に帰って小説を書け」と聴講する学生を挑発。それだけ言うと床に崩れ落ちた。83年には無免許酔っ払い運転で逮捕されたが、裁判所にショートパンツとサンダルというふざけた格好で登場し、裁判官を激怒させている。
それでも66年に発表したノンフィクション・ノベル『冷血』は、実際の事件に題材をとった新しいスタイルの小説として一大センセーショナルを巻き起こし、それまで人気作家としてしか見られていなかったカポーティの評価を一気に高めた。
そして『冷血』は一年以上売れ続けるロングセラーとなり、世界25ヶ国語で翻訳。67年にはリチャード・ブルックス監督・脚本で映画化され、アカデミー賞の5部門でノミネートされている。しかしこの成功が、却ってカポーティを追い詰めることになった。
カポーティは次作について、「『冷血』以上の作品にしてみせる」と豪語、その言葉がプレッシャーとなって彼に大きくのしかかっていく。次に取りかかった『叶えられた祈り』は10年以上かかっても書き進められず、未完の遺作となってしまったのだ。
晩年「書きたい小説、書くべき小説が書けない」作家となってしまったカポーティはアルコールの量も増え、スランプを紛らわすため自らのゴシップやスキャンダルに身を任せた。そして84年8月25日、ハリウッドの友人宅で心臓発作のため急死、60歳の誕生日の直前だった。
30年以上生活をともにした愛人の作家、ジャック・ダンフィは「成功が彼を駄目にした。彼は自分が誰なのか、何をしたのか、才能がどこにあるかを見失ってしまったんだ」と淋しく呟いた。
05年には『冷血』執筆のエピソードと、作家としての人間像を描く映画『カポーティ』がつくられている。