1960年代後半から80年代にかけての西ドイツ映画界は、ヌーベルヴァーグの影響を受けた新世代の監督たちが、次々と作家性の高い作品を発表していった時代だった。
彼ら西ドイツの若い旗手たちは「ニュー・ジャーマン・シネマ」と称され、代表的格としてヴェルナー・ヘルツォーク(『アギーレ/神々の怒り』『フィツカラルド』など)、フォルカー・シュレンドルフ(『ブリキの太鼓』など)、ヴィム・ヴェンダース(『パリ・テキサス』『ベルリン・天使の詩』など)らが挙げられる。
その「ニュー・ジャーマン・シネマ」の中でも、最もアナーキーで精力的で毀誉褒貶の激しかった監督が、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー。その生き様は、心臓発作により37歳の若さで急死するまで、自分で自分を死に追い込んでゆく破滅的なエネルギーで溢れていた。
短い生涯で41本もの長編作品を撮り、スキャンダラスかつ倒錯的な内容で世間を挑発。ホモセクシャルであることを隠しもせず男を愛人にし、浴びるほど酒を飲み麻薬にも溺れた。人々はそんな刹那的に生きるファスビンダーを「ヘルズ・エンジェル(地獄の天使)」とも、「マッド・ジーニアス(狂気の天才)」とも呼んだ。
ファスビンダーは1945年5月31日、ミュンヘンに近い保養地バート・ヴェリースフォーフェンで、医者の父と翻訳家の母の間に生まれた。一人っ子で、ライナー・ヴェルナーという名前はドイツの有名な詩人リルケからとられている。
喧嘩が絶えなかった両親は、息子が6歳のときに離婚。母親に育てられたファスビンダーは、ミュンヘンの場末にある娼婦の町、ゼントリンガー通りで少年時代を過ごす。
ギムナジウム(中等教育機関)を16歳で退学、その頃からミュンヘンの裏ストリートを徘徊するようになる。とりわけゲイバーに足繁く通い、男娼のヒモのようなこともやったという。
ジャン=リュック・ゴダールやジョン・ヒューストン、ハワード・ホークスらの作品に強い影響を受け、映像作家を志して国立映画学校を受けるが不合格。新聞社のアルバイトや国立劇場のエキストラをしながら私立の俳優学校に通った。
すると60年代半ばから西ドイツで学生運動が盛んになり、20歳を過ぎたばかりのファスビンダーもカウンターカルチャー(対抗文化・反体制行動)の熱気に身を投じてゆく。
65年から66年にかけて3本の短編映画を自主製作し、67年にはアングラ劇団「アクチオン・テアター(行動劇場)」に俳優兼演出家として参加。ここで発表したオリジナル戯曲『出稼ぎ野郎』が評価された。
「アクチオン・テアター」は2ヶ月で解散。翌年には自らがリーダーとなり、のちに映画作品の常連となるハンナ・シグラ、クルト・ラーブ、イルム・ヘルマンらともに新劇団「アンチ・テアター(反劇場)」を結成。
短期間のうちに「アンチ・テアター」は挑発的活動のメッカとなり、ファスビンダーは前衛舞台の新鋭として演劇界にその名を知られるようになる。
その頃から彼はカリスマ的魅力を発散するようになり、ミュンヘンのアングラ劇団の雄として俳優たちの上に君臨。「フューラー(総統)」とまで呼ばれるようになる。女優たちは彼の意のままになり、「フューラー」への "貢ぎ料” を稼ぐために季節労働者相手の売春までやったという。
それでも彼女たちは支配者に逆らうことなく、むしろ進んで彼に尽くした。劇団の主演女優だったイムル・ヘルマンは、ファスビンダーに嫌われ続けながらも彼のためにパトロンを見つけ、マスコミへの売り込みや劇場主とのギャラ交渉を行うなど、舞台裏の仕事をすべて引き受けていたそうだ。
のちにファスビンダーが女優イングリッド・カーフェンと結婚すると、ヘルマンは絶望して違う男の子供を産んだ。それでもファスビンダーへの想いが薄れることなく、「彼が偉くなっていくたびに、誇らしい気持ちになった」とまで語っている。
ファスビンダーの長編映画第一作『愛は死より残酷』(69年)の製作費は、このヘルマンが集めたもの。主演のギャングはファスビンダー自身が演じた。作品はベルリン国際映画祭に出品され、初めて彼の名が映画界に知られるようになった。
そのあと次々と作品を発表し、72年の『四季を売る男』がドイツ映画大賞を受賞。74年の『不安と魂』、75年の『自由の代償』も国際的な評価を得て、ヘルツォークと並ぶ「ニュー・ジャーマン・シネマ」の旗手と目されるようになる。
彼の作る作品の主人公は、ゲイ、娼婦、季節労働者、ギャング、混血児、自殺者、性転換者、テロリスト、亡命ロシア人など社会の隅や底辺にいるアウトサイダーばかり。映画に描かれるのも、同性愛、暴力、ナチズム、反ユダヤ主義と過激なものだった。「天才」と激賞される一方、「破滅的アナーキスト」と毛嫌いされることもあった。
正式に映画作りを学んだことがなく、「どこで覚えたのか?」と質問されて「映画を作りながら覚えた」とうそぶくファスビンダー。監督だけではなく、製作、脚本、編集まで自分一人でやり、時には俳優として出演。「フューラー」のあだ名通り撮影現場を支配、俳優たちにすべてを捧げるよう要求した。
また映画だけではなく、その私生活も劣らずスキャンダラスで破滅的だった。女優のカーフェンとは2年で離婚し、水夫から俳優になった男ギュンター・カウフマンと恋人関係になる。カウフマンはアメリカ進駐軍の黒人兵士とドイツ人女性の間に生まれた混血児。ファスビンダーはこの男を「私のニグロ」と呼んで愛し、自分の映画に出演させた。
ギュンターと別れたあとホモセクシャルであることを堂々と公表し、『不安と魂』で主演したアルジェリア出身のアラブ人、エル・ヘディ・ベン・サレムと同棲。だが酒のトラブルなどでサレムはファスビンダーに捨てられ、その後自暴自棄になって傷害事件を起こし、77年に獄中で首つり自殺をしている。
サレムと別れたあと、肉屋で働く無学の青年アルミン・マイヤーを愛人にし、オムニバス映画『秋のドイツ』(77年)に出演させる。マイヤーは “肉屋のジェームズ・ディーン” と呼ばれるような美青年だったが、やがてファスビンダーに飽きられ、サレムと同じ運命をたどることになる。
アルミンは78年に自殺。ファスビンダーは彼の死を受け、同年に『13回の新月のある年に』を製作。この作品はシカゴ国際映画祭でブロンズ・ヒューゴ賞を受賞する。ファスビンダーの名声の陰には、常に死の臭いがつきまとっていた。
79年には、50年代西ドイツをシニカルに描いた『マリア・ブラウンの結婚』を発表。ベルリン国際映画祭に出品されると激賞され、主演のアンナ・シグラは女優賞を受賞。ファスビンダーの代表作となった。
翌80年には15時間に及ぶテレビドラマ大作『ベルリン・アレキサンダー広場』を監督。狭間の時代に揺れる1920年代ドイツをセンセーショナルにあぶり出し、大きな話題を呼ぶ。
だが自分を追い込むような創作活動は、次第に彼の体と心を蝕んでいくようになる。浴室で裸のまま酒を飲み、トイレで嘔吐。麻薬を常用し、睡眠薬なしでは眠る事も出来なかった。やがて物音にも怯えるようになり、震えるように泣き崩れることもしばしばだった。
82年6月10日、撮り上がったばかりの『ケレル』の編集中、コカインの過剰摂取による心臓発作で急死。ファスビンダーの日常を知る者からは自殺を疑う声も出た。
彼の遺産は母親が相続し、86年に「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー財団」を設立。1992年には、ファスビンダー最後の恋人だったユリアーネ・ローレンツが財団を引き継いでいる。