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全米を爆笑させた天才、ジョン・ベルーシ

 

アメリカ・コメディ界の天才

アメリカのバラエティー番組『サタデー・ナイト・ライブ』や、映画の『アニマル・ハウス』などで人気を博し、アメリカのコメディに革命を起こした天才ジョン・ベルーシ

 

コメディや俳優業だけではなく、盟友ダン・エイクロイドとコンビを組み、後に映画化されたバンド、“ブルース・ブラザース” でも音楽の才能を発揮、ミュージシャンとしても成功を収めた。

 

破天荒ながらも憎めないキャラクターで愛され、各界の有名人・著名人などとも深い親交を結ぶ。だが早くからドラッグに溺れ、人気絶頂時代の33歳で薬物の過剰摂取により急死。足早で駆け抜けた波乱のコメディアン人生だった。

 

学園の人気者からコメディアンへ

ベルーシは1949年1月24日、シカゴ西地区にあるフンボルトパークで生まれた。父親のアダムはアルバニアからの移民。34年に16歳でアメリカに渡って以来、飲食業ひとすじで働いて来た男だった。

4人きょうだいの長男として育ったベルーシは、シカゴ郊外のウィートン中央高校に進学。選抜フットボールチームでは花形選手として活躍し、音楽仲間とはロックバンドを結成する。生徒会主催の「学園祭の王者」に選ばれるなど、誰にでも好かれる青年として校内随一の人気者となった。

学生演劇大会では即興演技で周りを笑わせ、役者として豊かな才能を発揮。ここでのちの妻となるジュディス・ジャックリンと出会うなど、充実した学園生活を送っていたかに見えたベルーシ。

だが父親がアルバニア移民だというコンプレックスを抱え、その素性をひた隠しにした。保守色の強いウィートンの町で共産国出身者の子だと知られるのは、決してロクなことにならないと解っていたからである。

68年の秋、ウィートン近くに新設された2年制大学のデュページ・カレッジに入学。学業のほうはさっぱりだったが、ここで気の合う二人の友人を得て、コメディ・グループ「ウェスト・キャンパス・プレーヤーズ(WCP)」を結成する。

ベルーシがリーダーを務めた「WCP」は、ドタバタ風刺劇や有名人のモノマネで大好評。学生会館や近くの喫茶店で定期に上演するまでになる。またこの頃から薬物の味を覚え、終末ごとに寮の一室で仲間たちとマリファナパーティーを楽しんだ。

その後編入した南イリノイ大学を71年2月に中退。「WPC」の3人でシカゴの即興劇団『セカンド・シティー』のオーディションを受け、逸材ぶりを見せたベルーシひとりが採用されることになった。

ベルーシの演じるトルーマン・カポーティや、シカゴ市長のモノマネは大ウケ。地元紙『シカゴ・デイリー・ニュース』に取り上げられるほど注目の存在となり、刺激的なアドリブと観客を魅了する個性で劇団トップの人気者となっていく。

 

エイクロイドとの出会い

72年にはニューヨークへ進出。ナショナル・ランプーン誌がスポンサーとなったコメディ劇団『レミングス』に参加し、チェビー・チェイスクリストファー・ゲストらとともにパロディ劇を演じ大人気。ベルーシはブロードウェイの新しいスターとなった。

その人気で、ラジオ番組『ナショナル・ランプーンのラジオアワー』に出演。そのうち番組のディレクターも任されるようになり、ベルーシは一緒にギャグやコントをやれる共演者を捜し始めた。

そしてカナダ・トロントで興行中だった『セカンド・シティー』の舞台で見つけたのが、当時21歳の劇団員ダン・エイクロイドである。

エイクロイドの才能を見抜いたベルーシは、楽屋での初対面のあと、そのまま二人で舞台に立って即興劇。ショーが終わってから二人はバーを飲み歩き、何時間も話し続けた。

この後の仕事が決まっていたエイクロイドは、ベルーシからの共演の誘いを断るが、ほどなく二人は終生の盟友となる。

 

75年、アメリカ3大ネットワークのひとつであるNBCが、若者向けの深夜生放送ショー番組『サタデー・ナイト・ライブ』を企画。チェイス、エイクロイドとともにベルーシも出演者に選ばれた。

番組は初回から大好評。ベルーシはマーロン・ブランドキッシンジャー国務長官、『スタートレック』カーク船長らのモノマネで視聴者を楽しませ、「サムライ・フタバ」や「ギリシャ料理店のオーナー」のパロディコントも大人気を博した。

この番組のヒットでベルーシは全米に知られるスターとなったが、番組のテンションを保つため、コカインなどのドラッグがもはや手放せないものとなっていく。

78年には学園コメディ『アニマル・ハウス』(ジョン・ランディス監督)に主演。映画は低予算ながら大ヒットし、ベルーシは俳優としても大きな名声を得た。この成功により、スティーブン・スピルバーグ監督のコメディ大作『1941』(79年)の出演も決定する。

ベルーシの才能を評価していたスピルバーグ監督だが、いざ撮影が始まると彼に戸惑わされるばかりだった。まず第1にセリフを完全に覚えてこない。カメラの前に出てから、その役になじむようになるまで2~3分かかる。あるシーンをいくつかのショットに分けて撮ると、それが全部違う人間に見える、などなど。

しかも麻薬のやり過ぎで、専用トレーラーで眠るとなかなか起きてこないこともしばしば。スタッフがベルーシを恐れたため、監督のスピルバーグが起こしに行くこともあった。

映画はどうにか完成したが、ベルーシの出演シーンは大幅カット。彼のせいだけではないにしろ、巨額の制作費をかけた『1941』は空虚なコメディとなり、興行的にも失敗してしまった。

 

ブルース・ブラザース』とベルーシ

『1941』とともに製作を進めていたのが、エイクロイドとコンビを組んだボーカルバンド、“ブルース・ブラザース” の映画化だった。

黒い装束に身を包んだブルース・ブラザースのファーストアルバム、『ブルースは絆』が全米ヒットチャートで1位を記録。グラミー賞3部門にノミネートされた。

これに気をよくしたエイクロイドが、ベルーシに話を持ちかけブルース・ブラザースの映画化を企画。エイクロイド自ら脚本を書き上げ、『アニマル・ハウス』の大ヒットもあり、ユニバーサル製作で話はすぐにまとまった。

ブルース・ブラザース』(81年)の監督は、『アニマル・ハウス』でも組んだジョン・ランディスが務めた。しかしこの間にもベルーシの薬物中毒は進行、共演者のキャリー・フィッシャー(『スターウォーズ』のレイア姫)とともにLSDを常用し、幻覚症状に陥っては撮影を中断させた。

撮影は予定より何週間も遅れ、予算も大幅にオーバー。エイクロイドの補助がなければ何も進まなかった。当時29歳の若手監督だったランディスはついにたまりかね、ベルーシが引きこもっているトレーラーに向かった。

その時のベルーシはまさに抜け殻状態。床はブランデーと小便で濡れ、テーブルの上にはコカインの粉が小山のように積まれていた。ランディスは「君は自分で自分の首を絞めているんだぞ!」と大声で怒鳴ると、コカインをすくってトイレに流した。

そして自分に襲いかかってきたベルーシ対し、思いっきりその顔面をパンチ。するとベルーシは床に転がったまま、やがてうなだれて泣き出した。そして震えながら立ち上がると、ランディスに抱きつき「頼むからわかってくれよ、どうしても俺にはドラッグが必要なんだ」と惨めな姿をさらした。

 

ドラッグに蝕まれていった体

このあとベルーシは『Oh!ベルーシ絶体絶命』『ネイバーズ』(81年)と2本の映画に主演したが、過剰なドラッグ摂取はどんどん彼の体を蝕んでいった。

もっとも、ドラッグに浸っていたのはベルーシだけではなく、『サタデー・ナイト・ライブ』のレギュラー出演者やスタッフも同様の状態にあった。

またこの頃、『ゴッドファーザー PART II』(74年)や『タクシードライバー』(76年)の名演でトップ俳優となったロバート・デ・ニーロと親交を持ったが、彼ともドラッグ仲間であったという。

当時人気絶頂であったベルーシには、エイクロイド脚本による『ゴーストバスターズ』の主演が予定されていたが、企画が進んでいた82年3月5日、高級ホテルの部屋で急死しているのが発見された。

死因はヘロインとコカインの混合接種による呼吸不全と診断。ベルーシの腕には幾つもの薬物注射跡があり、事件性がないのは明かだった。享年33歳、訃報はすぐに世界へ伝えられた。