ハリウッドの1920年代、そのゴージャスな佇まいと強烈な個性、官能的な妖しさでサイレント映画の女王として輝いた大女優、グロリア・スワンソン
娯楽映画の巨匠セシル・B・デミル監督に見いだされ、新時代のヒロイン象を確立して一躍トップ女優の仲間入り。155㎝の小柄な体を感じさせない圧倒的な存在感で人気を博し、派手な私生活と相まって「100万ドル稼ぎ、100万ドル使うスター」と呼ばれた。
30年代トーキー時代の到来とともに勢いを失うが、51歳で主演したビリー・ワイルダー監督『サンセット大通り』で復活。自分自身を投影したかつてのスター女優役、ノーマ・デズモンドを迫真の形相で演じ、彼女の代表作となった。
グロリア・スワンソン(本名、グロリア・メイ・ジョセフィーヌ・スワンソン)は、1899年3月27日生まれのイリノイ州シカゴ市出身。父親は米陸軍大尉で、一人っ子のグロリアは軍基地があるフロリダ、テキサス、プエルトリコなど、各地を転々としながら少女時代を過ごした。
15歳のとき、叔母に連れられて見学に行ったシカゴの撮影スタジオでスカウトされ、エキストラとして映画初出演。イギリスからやってきたばかりの新顔、チャップリンの相手役も務めた。
1916年、映画で共演したウォーレス・ビバリーと17歳の誕生日に結婚。夫婦でロサンゼルスに移り、ドタバタ喜劇で大人気だったマック・セネットのキーストン・スタジオと契約。同社の看板だった喜劇シリーズ “水着美人” の1人として活躍する。
しかし結婚初日から暴力を振るわれるなど、酒癖が悪かったビバリーとの関係は早くも破綻。スワンソンが妊娠したときには、夫に騙されて堕胎薬を飲まされ流産の仕打ち。2人の夫婦生活はわずか3ヶ月で解消となり、2年後には正式に離婚が成立している。
やがてキーストン社での端役に飽き足らなくなったスワンソンは、18年にトライアングル・フィルムへ移り長編映画に出演。19年にトライアングル社が経営危機に陥ると、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ(後のパラマウント社)に貸し出され、セシル・B・デミル監督『夫を変へる勿れ』の主演に抜擢される。
華やかな作風で知られるデミル監督は、小柄ながらも均整がとれた身体と、豪華なセットにも気後れしない彼女の個性を気に入り、『男性と女性』(19年)『何故妻を換へる?』(20年)『アナトール』(21年)などのコメディ、風俗ドラマのヒロインとして立て続けにスワンソンを起用した。
デミルによる本物志向のゴージャスなセットや装飾品、専用にデザインされた最新モードの衣装に囲まれ、スワンソンは妖しく官能的な魅力を発散。画面映えする強烈な個性は世界の観客を魅了する。そして多くの女性ファンが、彼女の最新ファッションを観るため映画館に足を運んだという。
その私生活はいつもゴージャスなドレスを身にまとい、最新型のキャデラックに乗って夜会に出かけ、群がり寄る男たちを手玉にとるというスクリーン上の役柄そのまま。社交界の女王としてハリウッドに君臨した。
さらに毎日レストランから食事を取り寄せ、ベジタリアンにもかかわらず週千ドルを費やしたとの噂も。そんなことから「100万ドルを稼ぎ出す二番目の女性」(一番目はメアリー・ピックフォード)と喧伝され、「そしてそれを使う最初の女性」と呼ばれるようになったが、そんなゴシップもスワンソンを華やかに彩るものでしかなかった。
さらにスターとしてのカリスマ性を保つため、社交場で身につけるコート、夜会服、ストッキング、ハンドバッグ、靴、香水、下着代などを経費として会社に請求。そんな浪費と贅沢を彼女に教えたのは、恩師のデミル監督だった。
デミルはスワンソンを「ヤング・フエラ(お若いの)」と呼んで可愛がり、撮影中に本物の宝石を身につけさせるなど女王様のように扱った。スワンソンは「デミルとの仕事場は、世界一のデパートで暮らしているようなもの」とこの頃を振り返っている。
また彼女の男性遍歴も、世間を大いに騒がす賑やかなゴシップだらけ。19年にはナイトクラブ経営者、ハーバート・K・ソンボーンと2度目の結婚し女の子を生むが、やがて不仲となり離婚訴訟。
夫ソンボーンはその離婚手続き中、スワンソンがデミル監督を含む13人の男と姦淫していたと告発。この暴露は大きなスキャンダルとなり、撮影スタジオに「モラル条項」が設けられるきっかけとなった。(23年に離婚成立)
3番目の結婚は、フランスで撮影した『ありし日のナポレオン』(25年)の通訳を務めたアンリ・ド・ラ・ファレーズ侯爵とのもの。だが侯爵との結婚式当日、病院に走ってお腹の子を堕ろしたという事実が発覚。父親は明かされず、スワンソンのスキャンダルに馴れていたハリウッドもさすがに騒然としたという。
「侯爵夫人という肩書きが欲しかっただけ」の結婚は30年に終了。このあとパリで知り合ったマイケル・ファーマーという、アイルランドのスポーツマンと4度目の結婚。この結婚生活で2人の娘を設けるも、ジゴロと噂されたファーマーとは3年後に離婚している。
舞台へ転身した44年には投資家のジョージ・ウィリアム・デイビーと5度目の結婚をするが、彼がアルコール依存症だったため、二人の生活は45日しか続かなかった。
全盛期にあった27年には、自身の製作会社「スワンソン・プロダクション」を設立。サマセット・モームの短編小説を映画化した『港の女』(28年、ラオール・ウォルシュ監督)がヒットを記録し、第1回アカデミー賞で主演女優賞にノミネートされている。
しかし「スワンソン・プロダクション」の経営は上手くゆかず、ハリウッドに大きな影響力を持っていた実業家、ジョセフ・P・ケネディ(ケネディ大統領の父親)とパートナーシップを結び、助言を受けるようになる。後年に発表した自伝では、ケネディと不倫関係にあったことを告白している。
そしてケネディがプロデューサーを務めた『ケリー女王』には、異才エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督を起用。しかし完璧主義者で知られる監督の撮影は遅々として進まず、ついにはスワンソンと衝突して撮影中止。シュトロハイムは降板し、スワンソンは自ら監督を務めて映画を完成させた。
29年には自身初のトーキー作品『トレスパッサー(不法侵入者)』で、2度目のアカデミー賞にノミネート。だが30年代に入るとスワンソンの映画は当たらなくなり、次第に出演作は減少。40年代にはスクリーンでその姿を見かけることはほとんどなくなった。
映画スターとしての勢いは失ったものの、決してスワンソンが落ちぶれたというわけではなかった。38年にはニューヨークへ移住し、舞台に活躍の場を求めてブロードウェイへ進出。またアパレル業や旅行代理店で成功を収めるなど、ビジネス界で敏腕をふるっている。
48年からは、ゲストを招いての生放送TVバラエティ「グロリア・スワンソン・アワー」にホステスMCとして出演。そんな折、ビリー・ワイルダー監督から『サンセット大通り』(50年)主演のオファーが舞い込む。
“忘れられたかつての大女優” ノーマ・デズモンド役には、メアリー・ピックフォード、グレタ・ガルボ、メイ・ウェスト、ポーラ・ネグリ、クララ・ボウ、ノーマ・シアラーといったサイレント期のスターたちが候補に挙がるも、キャスティングは難航。
そこでワイルダー監督は、女性映画の名手ジョージ・キューカー監督の紹介により、大物スワンソンに会って直接交渉。ワイルダーの話を聞いたスワンソンは、自身を投影するような役柄に興味を抱き、7年ぶりとなる映画出演を承諾する。
そして相手役となる脚本家ジョー・ギリスに、当時無名だったウィリアム・ホールデンが抜擢。ノーマに使える忠実な召使いマックス役には、『ケリー女王』でスワンソンと対立したE・F・シュトロハイムが起用された。また劇中に登場するデミル監督役をセシル・B・デミル本人が演じ、バスター・キートンなど昔日のスターもカメオ出演した。
映画のストーリーは、隠棲生活を送りながら銀幕復帰を望むノーマが、愛するジョーに欺かれ失意。かっとしてジョーを殺すも、それにより正気を失ってしまう。そのあと事件を聞きつけて屋敷に押しかけてきたマスコミのカメラを撮影開始と勘違いし、階段を降りながら「デミル監督、クローズアップを」と狂気の形相で迫るラストシーンは圧巻の一言だった。
この演技でゴールデングローブの主演女優賞に輝き、『サンセット大通り』はグロリア・スワンソンの代表作となった。以降ノーマ・デズモンドと似たキャラクターのオファーが殺到するが、彼女はそれをすべて断っている。
このあとも舞台やテレビで活躍を続け、74年には大作パニック映画『エアポート’75』に本人役で登場。これが最後の映画出演作となる。
76年には13歳年下の文筆家、ウィリアム・ダフティと結婚。健康食への関心という共通点を持つ6番目の夫とは、一緒に旅行を楽しむなど仲良く暮らし、終生連れ添うことになった。
83年4月4日、ニューヨーク市内の病院で心臓病により死去。享年84歳だった。