映画サイレント時代の1920年代、マリリン・モンローに先立つ「セックス・シンボル」として一世を風靡したハリウッド女優がクララ・ボウだ。
赤毛のキュートな童顔に、色気を漂わせるその流し目。健康的でセクシー、いたずらっぽい仕草で男を惑わせる魅力は、世の殿方だけでは無く、それを真似たいと願う女性たちにも人気を博した。
27年公開の『あれ( It )』で、当時の流行りとなった「フラッパーガール(奔放な現代娘)」を魅力的に演じて大ヒット。“イットガール” と呼ばれて時代の寵児となった。
また夜の私生活も映画を地でいく奔放さ。南カルフォルニア大学のフットボールチーム全員を一人でもてなし、そのお相手の中には、後に大スターとなるジョン・ウェインがいたというエピソードを持つ。
クララは1905年7月29日、ニューヨークの下町ブルックリン生まれ。姉二人が幼児期に死亡したため、一人っ子として育った。父ロバートはアルコール依存症の日雇い労働者で、母サラは精神疾患を患っていた。
当然家は貧しく、粗末な服でも着させて貰えるだけでましな環境。本人曰く「近所で一番汚い格好をしていた」とのこと。そのため女の子と遊ぶことはなく、男の子に混じって野球やフットーボール、時にはボクシングもする活発な少女時代を過ごした。
少し成長すると男の子と遊ぶこともなくなり、孤独を感じたクララは初めて観た映画の美しさに魅了されるようになる。16歳のときに女優を目指し、出版社主催の演技コンテスト「名声と幸運」に応募。すると見事栄冠に輝き、銀幕スターへのきっかけを掴む。
しかし映画デビュー作となるはずだった『虹の大空』(22年)は、出演シーンが全カット。初めてスクリーンに登場した『船に打ち乗り海原指して』(23年)は男の子役(その頃のクララはボーイッシュで胸も薄かった)での出演という、決して順調なスタートではなかった。
しかもこの頃から母サラの症状が悪化、女優の仕事は売春婦と一緒だと思い込み「死んだ方がましだ」と言うようになった。そしてある日、母親が眠っている娘の喉元に、肉切り包丁を突きつけるという事件が起きる。
クララが寸前で目を覚まして事なきを得たが、錯乱した母親は精神病院行き。サラはほどなくして病院で亡くなったという。
それでも経験を積みながら徐々に洗練さを身につけてゆき、24年のコメディ映画『酒!(Wine)』で初主演。そこから着実にキャリアを重ね、パラマウントと契約した26年には『モダンガールと山男』『人罠』の主演で注目されるようになる。
27年には『あれ( It )』でデパートガール役のヒロインとして主演。この作品でトップスターの地位を確立する。
『あれ( It )』のシナリオを書いたのは女性作家のエリノア・グリーン。「フラッパーガール」を主役にした小説を幾つか出しており、新作のヒロインにクララを指名した。実はエレノアの髪は赤毛、同じ髪色のクララに自分と似たものを感じたのだ。
『あれ( It )』に登場するヒロインは猫のように可愛らしく、それでいて狡猾。あどけなさとあざとさを持ち合わせた小悪魔的な女性である。そんなヒロイン像に、クララのパーソナリティーがピタリと嵌った。
たちまち映画は大人ヒット。絶えず相手の男に軽く触れてお茶目に振る舞う姿、そして肩越しから見せる上目遣いの流し目。その仕草のひとつひとつが男を刺激した。また「フラッパーガール」を体現したヒロイン像は新しいファンションスタイルとなり、 “イットガール” と呼ばれて女性からも大きな支持を受けた。
そして “イットガール” はクララの代名詞となり、世の中を賑わす「可愛くてセクシー」な女性を表す言葉として現在も使われ続けている。
同年にヒロインを務めた『つばさ』は第1回アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞。その人気はピークに達した。
また恋多き女性だったクララ。主演作『人罠』『フラ』で監督を務めたヴィクター・フレミング監督や、いくつかの作品で共演したゲイリー・クーパーとの関係など、多くの浮き名を流している。
だが27年公開の音楽映画『ジャズ・シンガー』がヒットすると、やがて無声映画からトーキーの時代へと移り、クララの輝きにも翳りが見えるようになる。
その見た目の愛らしさに比べ、低音すぎるクララの声。またブルックリン訛りの下品な発音も、観客を失望させた。さらに20年代末期には大不況が訪れ、「フラッパーガール」は時代にそぐわない存在となった。
そんなクララの凋落に追い打ちを掛けたのが、30年に襲いかかったスキャンダル。ダラスのいち精神科医の夫人から、夫との浮気を告訴され、裁判沙汰となって高額の慰謝料を請求されてしまう。
さらに翌31年には、使い込みで解雇した秘書から腹いせで私生活の秘密を暴露される。その内容は、らんちきパーティー、酒とドラッグにまみれた生活、乱れた色恋沙汰、自動車のスピード狂などのゴシップ。
暴露されたゴシップ全部が事実という訳ではなかったが、クララのスターとしての人気は消し飛んだ。かつての“イットガール” は、もはや穢れた存在に墜ちたと見られてしまったのだ。
横領で告訴した秘書は有罪となったが、この一件はクララに大きな精神的ダメージを与え、休養を余儀なくされる。そのあと二流の西部劇俳優と結婚し、ネバダ州の牧場に移り住んだ。
32年には『ミス・ダイナマイト』で銀幕復帰。しかし数年前の栄光は見る影もなく、翌33年に出演した『フープラ』を最後にスクリーンに戻ることはなかった。この時まだ28歳という若さだった。
そのあと二人の子供を設けたが、アルコール依存症から精神不安に陥り、療養所へ長期の入院。晩年はロサンゼルスでひとり生活を送ったという。1965年、心筋梗塞で死去。享年60歳だった。