「牛をも殺す弾丸キック」
抜群のキック精度で前線へピンポイントのパスを通し、持ち前のストロングシュートで多くの得点を決めた超攻撃型リベロ。FKやPKのスペシャリストとしても知られ、弾丸キックの破壊力は「牛をも殺す」と恐れられた。攻守のキーマンとして80~90年代にかけて活躍したオランダの名手が、ロナルド・クーマン( Ronald Koeman )だ。
PSVで数々のタイトルに輝くと、89年に移籍したバルセロナでも活躍。ヨハン・クライフ監督率いる「エル・ドリーム・チーム」の中核を担い、リーグ4連覇やクラブ初となるチャンピオンズリーグ制覇に貢献した。PSV、アヤックス、フェイエノールトとオランダ3大クラブでプレーし、この3チームすべてで監督を務めた唯一の人物。
オランダ代表では、フリット、ファン バステン、ライカールトとともに「黄金のカルテット」を形成。88年の欧州選手権優勝に大きな役割を果した。90年と94年のW杯にも出場。94年アメリカ大会ではベスト8進出に寄与する。引退後はオランダ代表監督も務めた。
名門アヤックスのDFリーダー
ロナルド・クーマンは1963年3月21日、北海に面する北ホラント州のザーンダムに生まれた。父マーティンは当時クーガFCのディフェンダーとしてプレーしていたサッカー選手である。
1歳年上の兄エルウィンとは幼い頃からライバル関係、どちらがボールを遠くに蹴り飛ばすか競いながら育った。だが優等生タイプの兄に対し、弟クーマンはちょっとガサツな腕白タイプ。サッカー選手としては兄の方が優秀だと思われていた。
父マーティンがフローニンゲンへ移籍すると、一家をともなって同地に移住。兄と共にフローニンゲンFCの下部組織に入団したクーマンは、持ち前の負けん気とパワーで頭角を現し、17歳でトップチーム昇格。80年9月のNEC戦でエールディヴィジ・デビューを果し、2-0の勝利に貢献する。
フローニンゲンではスピードと技術に優れたエルウィンとともに強力な中盤を形成。2年目の81-82シーズンは早くも点取り屋として才覚を見せ始め、33試合で14ゴールを記録。82-83シーズンも33試合14ゴールと好成績を維持し、中堅チームのリーグ5位に貢献した。
この活躍により、83-84シーズンには強豪アヤックス・アムステルダムへ引き抜き。当時のアヤックスはマルコ・ファン バステン、フランク・ライカールト、ジェラルド・ファネンブルグ、イェスパー・オルセンなど、若手有望株の宝庫だった。
クーマンは同世代の若手たちとチームの中心的役割を担い、84-85シーズンのリーグ優勝に貢献。ヨハン・クライフが新監督に就任した85-86シーズンはPSVアイントホーフェンにリーグチャンピオンの座を奪われるが、KNVBカップ(オランダ杯)ではクラブ3季ぶりの優勝。MFからCBに転向したクーマンは、若きDFリーダーとしてチームを牽引した。
だがアヤックスでの活躍にもかかわらず、86-87シーズンにはライバルチームのPSVへ移籍。契約更新でクラブの評価が低いことに失望したことと、クライフ監督の口やかましさに辟易したことがその理由だった。
PSVでの活躍
PSVではルート・フリットやファネンブルグとともにプレー。DFながら16ゴールを挙げてチームのリーグ2連覇に貢献する。翌87-88シーズンにフース・ヒディンクが監督に就任すると、フリットが抜けた(ACミランへ移籍)チームでより攻撃的な役割を与えられてリベロとして活躍した。
セットプレーやミドルシュートで多くの得点を叩き出したクーマンは、守備の選手として驚異的な21得点を記録。これはPSVのエースFW、ヴィム・キーフト(28点)に続くゴール数だった。
ヒディンク監督に率いられたPSVは、87-88シーズンのリーグとKNVBカップの国内2冠を達成。さらに欧州チャンピオンズ・カップでは、準決勝で名門レアル・マドリードをアウェーゴール差でかわして決勝へ進出する。
決勝ではベンフィカ・リスボンと延長120分を戦って0-0。PK戦で1人目に登場したクーマンが豪快にゴールを決めると、サドンデスにもつれながらも続く5人が全員成功。PK戦を6-5と制し、PSVがチャンピオンズ・カップを初制覇。3冠獲得の立役者となったクーマンは、オランダ年間最優秀選手賞に輝く。
代表初の大舞台
オランダ代表には83年4月に20歳で初選出。27日に行なわれたスウェーデン戦で、兄エルウィンとともに代表デビューを飾る。ちなみに父マーティンも代表で1試合だけプレーしたことがあり、親子3人で代表キャップを刻むことになった。
しかし準優勝した78年W杯アルゼンチン大会以降、オランダ代表は低迷期に入ってしまい、82年W杯予選、84年欧州選手権予選、86年W杯予選と3大会続けて敗退。クーマン兄弟は大舞台のピッチに立つことができなかった。
86年W杯予選敗退後、オランダサッカー協会は「トータルフットボール」生みの親であり、74年W杯西ドイツ大会でオランダを準優勝に導いた名将リヌス・ミケルスへ代表監督就任を要請。ミケルス監督はクーマン、フリット、ファン バステン、ライカールトといった個性の強いタレントを束ね、欧州選手権予選を圧倒的な強さで突破。8年ぶりの本大会出場を決めた。
88年6月、西ドイツ開催の欧州選手権が開幕。クーマンは兄エルウィンとともに初のビッグイベントに臨んだ。
G/Lの初戦は故障明けのファン バステンを先発から外してソ連に0-1の敗戦。しかし第2戦でファン バステンが先発に復帰すると、エースの鬱憤を晴らすかのようなハットトリックでイングランドに3-1の快勝。第3戦ではキーフトのゴールでアイルランドを1-0と下し、グループ2位でベスト4に進んだ。
オランダ初の欧州選手権優勝
準決勝は地元西ドイツとの戦い。0-0で折り返した後半の55分、ライカールトがPエリアでクリンスマンを倒してしまいPK。これをマテウスに決められ西ドイツのリードを許す。だがその10分後、今度はファン バステンがコーラーに倒されPKを獲得。キッカーを務めたクーマンがきっちりと決めて同点に追いつく。
そして後半終了が近づいた88分、スルーパスに反応したファン バステンがコーラーと競り合いながらスライディングシュート。これが決まって2-1と勝利する。74年のW杯決勝で負けて以来、対西ドイツ公式戦での初勝利だった。
試合前から「ドイツ人が嫌いだ」と公言していたクーマンは、西ドイツ選手とユニフォーム交換をすると、そのシャツでお尻を拭くポーズをとる不躾なふるまい。このスポーツマンシップに欠けた行いは、国内外で大ヒンシュクを買ってしまう。
決勝ではG/Lで敗れたソ連と再び対戦。前半32分、エルウィンのクロスをファン バステンが頭で繋ぎ、最後はフリットがヘッドで叩き込んでオランダが先制。後半54分には、ファン バステンが角度のない位置から芸術的なボレー弾で追加点。2-0と勝利したオランダが欧州選手権初制覇を果した。
オランダの優勝に攻守で貢献したクーマンは、フリット、ファン バステン、ライカールト(オランダからは他に2人)とともに大会ベストイレブンへ選ばれている。
88年12月、欧州王者のPSVはトヨタカップで南米王者のナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ)と対戦。開始7分にナシオナルの先制を許すも、後半の75分にロマーリオのゴールで同点。試合は延長戦となった。
延長後半の110分、クーマンのピンポイントパスに抜け出したFWが倒されPKを獲得。これをクーマンがど真ん中に蹴り込んで勝ち越し点。PSVの優勝が決まったかに思えたが、終了直前の119分に追いつかれてしまい、勝負はPK戦に持ち込まれた。
PK戦はいつものように1人目のクーマンがゴールを沈めるが、このあともつれてサドンデスに突入。すると最後はナシオナルの10人目に決められPSVの敗北、世界一クラブの称号を逃してしまった。
88-89シーズンは国内2冠の2季連続達成に貢献。こうしてオランダを代表する選手となったクーマンは、89年夏にクライフ率いるFCバルセロナへ移籍。DFとしては破格の移籍金が支払われた。
「エル・ドリーム・チーム」の中核
クライフ監督とはアヤックス時代に衝突したものの、互いの力量と人間性を認め合う関係。クーマンは監督の期待に応え、1年目から36試合14ゴールの活躍。リーグ優勝には届かなかったが、コパ・デル・レイ(国王杯)ではライバルのレアル・マドリードを2-0と破って2季ぶりの優勝を果す。
しかし翌90-91シーズンの序盤、ゲーム中にアキレス腱を痛めたクーマンは全治5ヶ月の重傷。長期離脱を余儀なくされてしまう。だがその大きな穴をカンテラ出身のグアルディオラが埋め、ストイチコフやミカエル・ラウドルップといった攻撃陣も活躍。バルサは6季ぶりにリーグを制覇する。
怪我から復帰した91-92シーズンは35試合16ゴールとパフォーマンスを取り戻し、リーグ2連覇に大きく貢献。チャンピオンズ・カップも快調に勝ち上がり、6季ぶり3回目の決勝へ進出する。
ウェンブリー・スタジアムで行なわれた決勝の相手は、イタリアのサンプドリア。ゲームはバルサのスビサレッタ、サンプのパリュウカと両チームの守護神が攻守を連発。互いに譲らず0-0で延長戦に突入した。
長後半の112分、バルサFKのチャンスでクーマンが壁の間隙を打ち抜く弾丸シュート。飛びついたパリウカの横を破る超弩級のゴールが決まった。1-0と接戦を制したバルサは悲願の初優勝。クラブにビッグタイトルをもたらしたクーマンのFKは「ウェンブリー・ゴール」と名付けられ、バルサの歴史に名を刻んだ。
92-93シーズンはPSV時代の同僚ロマーリオが入団、リーグ3連覇を果す。魅惑的な攻撃サッカーを展開するバルサは「エル・ドリーム・チーム」と称されるようになり、攻守のキーマンとして中核を担ったクーマンは、そのイカついキャラクターでサポーターから「スノーフレーク(地元動物園で人気だったホワイトゴリラの名)」と呼ばれるようになった。
93-94シーズンはリーグ4連覇を達成し、チャンピオンズリーグ(93年に改称)では2年ぶりの決勝進出。しかCL決勝ではACミランに0-4と惨敗し準優勝。ここから「エル・ドリーム・チーム」は崩壊へと向かってゆく。
オランダ代表でのキャリア
90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。2年前に欧州制覇を果したオランダは、優勝の有力候補とされていた。しかし故障を抱えたファン バステンの不調もあって、G/Lの3試合をすべて引き分け。オランダはグループ3位に沈むも、どうにか決勝トーナメントへ勝ち上がった。
トーナメントの1回戦では因縁の西ドイツと対戦。だがゲーム中にライカールトと西ドイツのフェラーが揉み合いとなり、両者が退場。攻守の要を失ったオランダはたちまち2点を奪われ、89分にクーマンのPKで1点を返すも1-2の敗戦。優勝候補はあっけなく大会から去って行った。
92年の欧州選手権(スウェーデン開催)ではベスト4進出。準決勝で伏兵のデンマークと2-2の接戦を演じ、延長PK戦にもつれ込む。PK戦は1人目のクーマンが落ち着いてシュートを決めるが、2人目ファン バステンが名手シュマイケルのスーパーセーブに阻まれ失敗。4-5とPK戦を落とし、大会連覇の夢は果たせなかった。
94年6月にはWカップ・アメリカ大会に出場、クーマンがキャプテンマークを巻いた。組み合わせに恵まれたG/Lを無事突破し、決勝トーナメント進出。アイルランドを2-0と下してベスト8に進むが、ブラジルに2-3と競り負け、惜しくも準々決勝敗退となってしまった。
大会後クーマンは31歳で代表を引退。12年間の代表歴で78試合に出場、14ゴールを記録した。
監督としてのクーマン
94-95シーズンは「エル・ドリーム・チーム」の黄金期を支えてきた多くの主力たちが退団。またクライフ監督と選手、あるいはクラブ首脳陣との不協和音も聞こえてくるようになり、6季ぶりのタイトル無冠に終わる。
クラブ内のゴタゴタに嫌気の差したクーマンは、シーズン終了後にバルサを退団。静かなキャリアの余生を送るべく、オランダに戻ってフェイエノールトと契約を結ぶ。攻守のキーマンを失ったバルサは、95-96シーズンの成績が低迷。クライフ監督はリーグ戦2試合を残して解任となった。
フェイエノールトでは2シーズンを過ごし、97年5月に34歳で現役を引退。DFながらオランダとスペインで公式戦239ゴールを記録した。
引退後すぐにオランダ代表のアシスタントコーチに就任し、98年フランスW杯で代表をベスト4に導いたヒディンク監督を補佐した。また兄エルウィンも98年から指導者の道に進んでいる。
そのあとバルセロナのアシスタントコーチを務め、2000年にはオランダのフィテッセで監督に就任。その後オランダ、スペイン、イングランドなどの各クラブで監督を歴任し、古巣のアヤックスやPSVでエールディヴィジ優勝の実績を残した。
2011年にはフェイエノールトの監督に就任。オランダ3大クラブでプレーし、そのすべてで監督を務めた唯一の人物となる。18年からはスペイン代表監督を務め、20年にはバルセロナの監督に就任。コパ・デル・レイのタイトルを得るも、凋落傾向にある名門クラブの再建に失敗。わずか1年で解任となった。
指導者らしからぬ暴言や失言で短命政権に終わることも多いクーマンだが、若手発掘には定評があり、カタールW杯終了後にはスペイン代表監督の再任が決定している。