「天才ストライカーの覚醒」
爆発的なスピードで相手DFを置き去りにし、抜群の決定力で得点を量産したフランスの名選手。速さ、上手さ、大きさを兼ね備えるだけでなく、的確な状況判断で多くのアシストを記録。何拍子も揃った攻撃能力で一時代を築いた不世出のストライカーが、ティエリ・アンリ( Thierry Daniel Henry )だ。
モナコ時代に快足ウィングとして頭角を現すも、W杯優勝後に引き抜かれた名門ユベントスでは、イタリアのプレースタイルに馴染めず半年で放出。そのあとアーセナルに移籍し、恩師アーセン・ベンゲル監督のもとセンターフォワードとして覚醒。4度のプレミアリーグ得点王に輝く活躍を見せ、ガナーズ黄金期の象徴的存在となる。
20歳で出場した自国開催のW杯では、6試合で3得点を挙げてフランスの初優勝に貢献。ユーロ2000制覇、06年W杯準優勝にも重要な役割を果した。だが「代表で輝けない」のジンクスを持ち、10年W杯予選プレーオフでのハンド事件は大きな騒動に発展した。
フランス移民のサッカーエリート
ティエリ・アンリは1977年8月17日、パリ近郊の街レ・ジェリスに生まれた。両親ともカリブ海に浮かぶフランス領諸島からの移民で、父アントワーヌは熱狂的なサッカーファン。ティエリは兄ウィリーや従兄弟たちとともに、近所のスーパーマーケット駐車場をサッカーグラウンドに見立てて遊んだ。
6歳のとき、父親に連れられて地元クラブのレ・ジェリスFCに入団。クラブの休日にもプレイヤー経験のある父アントワーヌの手ほどきを受け、ティエリはスキルを磨いていった。
11歳でUSパレゾーに移り、1シーズンで55ゴールを記録。その活躍が認められ、12歳でセミプロチームのヴィリー・シャティオンにスカウトされる。14歳になるとINFクレールフォンティーヌ(国立のサッカー選手育成機関)のテストを受け、50倍の競争を勝ち抜き見事合格。15名の選ばれた精鋭の一人として、寄宿生活による英才教育を受けることになる。
INF自体はリーグに所属しておらず、クラブチームのFCベルサイユに振り分けられて実戦経験を積み、スピードを武器に22試合76ゴールの驚異的な記録を残した。このとき両親はすでに離婚しており、兄弟は母親のもとで育てられたが、父親は息子の試合ごとに出かけて行き、熱心に成長を見守っていたという。
INFを卒業した92年、16歳でASモナコと契約。モナコユースで42ゴールを記録したアンリは、アーセン・ベンゲル監督に抜擢されトップチーム昇格。94年8月のニース戦でディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)デビューを果す。
2年目の95-96シーズンはベンゲルの後任ジャン・ティガナ監督によって左ウィングとして起用され、レギュラーに定着した96-97シーズンには9ゴール8アシストの活躍でモナコのリーグ優勝に貢献。この年の最優優秀若手選手賞にも選ばれている。
翌97-98シーズンは初めてのチャンピオンズリーグに出場。アンリはグループステージで6ゴールを挙げてモナコの1位突破に貢献。準決勝ではダビド・トレゼゲのアウェーゴールで強豪マンチェスター・ユナイテッドを下し、ベスト4進出を果した。
準決勝ではセリエAの名門ユベントスと対戦。アウェーの第1戦では1-4の完敗を喫し、逆転を狙ったホームでの第2戦はアンリのゴールなどで3-2の勝利。モナコの決勝進出はならなかったが、9試合で7ゴール3アシストを記録した快足ウィンガーは、欧州ビッグクラブに狙われる存在となった。
自国開催W杯の優勝
15歳の時からアンダー世代の代表として名を連ね、96年のU-19欧州選手権では、決勝のスペイン戦で勝負を決めるゴールを挙げて優勝に貢献。翌年6月のワールドユース選手権(現U-20W杯)にも出場し、トレゼゲやニコラ・アネルカと3トップを形成するも大会ベスト8に終わった。
ワールドユースの4ヶ月後、エメ・ジャケ監督に招集された20歳のアンリは、10月11日の南アフリカ戦でフル代表デビュー。持ち味のスピードと若さによる勢いを評価され、盟友トレゼゲとともに自国開催W杯のメンバーに選ばれる。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。初戦の南アフリカ戦で右ウィングに先発起用され、後半のロスタイムに代表初ゴールを挙げて3-0の勝利に貢献。続くサウジアラビア戦でも2得点を決めて4-0の完勝に寄与し、ジャケ監督の先発起用に応えた。途中出場となったデンマーク戦も2-1と勝利し、フランスは3戦全勝で決勝トーナメントへ進む。
しかし決勝トーナメントに入ると守備的な戦いを強いられることになり、ディフェンスを不得手とするアンリの出場機会は減少。ブラジルとの決勝では最後まで出番がなく、母国の初優勝をベンチで見届けることになった。
ストライカー覚醒
若くして実績を重ねたアンリは、クラブに無断でレアル・マドリードと契約交渉を行ない、罰金処分を受けるなど問題行動も目立つようになる。
W杯後の98-99シーズンには起用法を巡ってティガナ監督と対立。アンリは5シーズン余りを過ごしたモナコを離れ、冬の移籍市場でイタリアの名門ユベントスと新たな契約を交わす。
しかしユベントスでは守備重視のスタイルに馴染めず、W杯後にコンディションを崩した影響もあって自慢の攻撃力が不発。シーズン途中の加入で3ゴール2アシストの成績を残すも、チーム戦術にフィットせず、わずか半年で戦力外となってしまう。
そんなスランプにあったアンリに声を掛けたのが、プロ1年目の恩師であるアーセン・ベンゲル。ベンゲルは名古屋グランパスの監督を1年半務めたあと、96年10月にアーセナルの指揮官に就任。ガナーズの愛称を持つ古豪クラブを改革し、97-98シーズンにはプレミアリーグ初優勝。さらに積極的な外国人選手の補強でチームの刷新を図っていた時期だった。
99年の夏にアーセナルへ移籍したアンリは、「彼は何年も無駄にウィングへ固執していた」と語るベンゲルによってCFへコンバート。監督の目指すアタッキングサッカーの核となり、99-00シーズンは17ゴール8アシストの活躍。翌00-01シーズンも17ゴール9アシストの好成績を残す。
快足を飛ばしてタッチライン際を疾走するその姿はまさに圧巻。確実にゴールを陥れるボックス左斜め45度のエリアは「アンリ・ゾーン」と呼ばれた。
01-02シーズンは、マンチェスター・ユナイテッドの4連覇を阻止したアーセナルがプレミア2度目の優勝。FAカップも制して2冠を達成する。ガナーズの攻撃を牽引したアンリは24ゴール(5アシスト)を叩き出して初の得点王、ストライカーとして完全覚醒した。
フランス代表の栄光と挫折
ユーロ2000(ベルギー/オランダ共催)にはレギュラーとして出場。G/Lではアンリがデンマーク戦とチェコ戦でゴールを挙げ、グループ2位でベスト8進出。準々決勝では強敵スペインを2-1と下してベスト4に進む。
準決勝はルイス・フィーゴ、ルイ・コスタら「黄金世代」がピークを迎えたポルトガルと対戦。前半19分にヌーノ・ゴメスのゴールを許し、フランスが1点のビハインド。だが後半に入った51分、アネルカの折り返しにアンリが股抜きシュートで同点弾。このあと一進一退の攻防が続き、試合は延長に突入した。
延長終了が近づいた117分、ヴィルトールのシュートをポルトガルDFが手で防いだとされPK判定。これをジダンが豪快なシュートで決め、フランスが決勝へ勝ち上がる。
決勝のイタリア戦も1点をリードされ苦戦を強いられるが、後半のロスタイムにヴィルトールのゴールで追いついて延長戦。そして延長前半の103分、トレゼゲのゴールデンゴールが決まりフランスが奇跡の逆転優勝。アンリは22歳にして2つめのビッグタイトルを手にした。
02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。前回王者のフランスはプレミアのアンリ、セリエAのトレゼゲ(ユベントス)、ディヴィジョン・アンのシセ(オルセー)と3人の欧州得点王を揃え、ジダン(R・マドリード)も世界最高の司令塔として君臨。優勝の最有力候補と目されていた。
しかし大会直前にジダンが怪我を負い、開幕戦となったセネガル戦を欠場。フランスは攻撃のリズムを失い、アンリ、トレゼゲの2トップもことごとくシュートを外すなど空回り。0-1と敗れてアフリカの新興国に金星を献上してしまう。
第2戦もジダン不在のままウルグアイと対戦。武器とするスピードをウルグアイの堅守に阻まれたアンリが、前半25分に危険なタックルを犯して一発退場。攻め手を失ったフランスは0-0と引き分けるのが精一杯だった。
瀬戸際に追い込まれた第3戦はジダンが強行出場するも、デンマークのカウンター2発に沈んで0-2の完敗。世界一の攻撃陣を誇りながら、フランスは1点も挙げられずに屈辱のG/L敗退となった。
02-03シーズンは24ゴール20アシストと驚異の成績を残すが、得点ランキングではファン ニステルローイに1点及ばず2位。リーグ優勝もマンチェスター・ユナイテッドに奪い返されてしまう。
だがFAカップでは2連覇を達成。アンリはその顕著な活躍により、PFA(選手協会)とFWA(記者協会)のダブルMVPに輝く。
03-04シーズン、好調アーセナルは開幕から首位を快走。そして2位のチェルシーに圧倒的大差をつけ、26勝0敗12分けの「インビンシブルズ(無敗優勝)」を達成。フットボールリーグ時代にプレストン・ノースエンドが成し遂げて以来、115年ぶりとなる快挙だった。
30ゴール(6アシスト)を挙げて優勝の立役者となったアンリは、2年連続のダブルMVPに選ばれるとともに、2年ぶり2度目の得点王も獲得する。
翌04-05シーズンも抜群の決定力を発揮し、25ゴール(14アシスト)の記録で3度目の得点王。しかしリーグ戦ではモウリーニョ監督率いるチェルシーのプレミア初優勝を許し、アーセナルとマンチェスター・ユナイテッドの2強時代に終止符が打たれる。
05-06シーズンは27得点(8アシスト)を挙げて3季連続4度目の得点王。プレミアリーグは4位に沈んだものの、チャンピオンズリーグではレアル・マドリードやユベントスなどの強豪を倒して初の決勝へ進出。
決勝のバルセロナ戦では前半18分に守護神のレーマンが一発退場。早くも劣勢に立たされるアーセナルだが、37分にセットプレーからDFキャンベルのゴールで先制。このあとバルサの猛攻を凌ぎ続けるも、76分にエトーのゴールを許し同点。さらに80分にはベレッチの逆転ゴールを浴びて1-2の敗戦。悲願のCL初優勝はならなかった。
代表で輝けないエース
03年に自国で開催されたコンフェデレーションズカップでは、アンリが得点王(4ゴール)と大会MVPの活躍でフランスの2連覇に貢献。そして翌04年6月にはポルトガル開催のユーロ04に出場する。
2年前のW杯の雪辱を期すフランスは、イングランド、クロアチアと難敵の揃ったグループを1位突破。しかし準々決勝で伏兵ギリシャに0-1と敗れ、あえなくベスト8敗退となってしまった。アンリのゴールはG/Lスイス戦の2得点にとどまり、「代表で輝けないエース」のジンクスが定着してしまう。
ユーロ04終了後、ジダンらフランスの黄金期を支えたベテランたちが代表を引退。アンリは新キャプテンのヴィエラとともにチームを引っ張る存在となるが、同年9月から始まったW杯予選でフランス代表は苦戦。
この不甲斐ない状況に国民からジダン待望論の声が湧き上がり、“レ・ブルーの将軍” は関係者の説得を受けテュラム、マケレレとともに代表復帰。フランスは無事欧州予選を突破した。
ジダンとアンリの攻撃コンビ
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。しかし司令塔ジダンの調子が上がらず、ワントップを任されたアンリも前線で孤立気味。初戦はスイスと0-0で引き分ける。
第2戦はアンリのゴールで韓国に先制。だがこのあと攻めあぐねる時間が続き、終盤の81分に朴智星の同点ゴールを許して1-1の引き分け。しかも頼みのジダンが累積警告により、次戦を出場停止となってしまう。
それでも第3戦はヴィエラとアンリのゴールでトーゴに2-0の勝利。フランスはようやくグループ2位へ浮上して決勝トーナメントに勝ち上がった。
トーナメントの1回戦は、戦線に復帰したジダンが1ゴール1アシストの活躍。G/L3連勝で勢いに乗るスペインを3-1と退けた。アンリに得点は生まれなかったが、復調したジダンからのパスで何度も好機をつくった。
準々決勝のブラジル戦は、ジダンが全盛期を思わせるパフォーマンスでピッチを支配。「カルテット・マジコ」の攻撃陣を擁するブラジルに仕事をさせなかった。そして後半の57分、ジダンが左サイドから放ったFKをアンリが右足ボレーで叩き込んで先制。このあとブラジルの反撃を寄せ付けず、1-0の勝利。スコア以上に相手を圧倒した内容だった。
これまでエース2人の不仲が囁かれたこともあったが、大会限りの現役引退を表明したジダンを求心力としてチームは一致団結。決勝点を生んだジダンからアンリへのアシストは、初めてにして唯一のものとなった。
準決勝はアンリが倒されて得たPKを、ジダンが決めてポルトガルに1-0の勝利。フランスは2大会ぶりの決勝へ進んだ。決勝のイタリア戦は1-1のまま延長へ突入するが、110分にジダンが頭突きによる報復行為で一発退場。優勝杯はPK戦を制したイタリアに渡った。
バルサ3冠達成に貢献
06-07シーズンは神経痛とハムストリングの故障で前半戦を棒に振り、17試合10ゴール4アシストと入団以来最低の成績。アーセナルは2季連続4位に終わり、最盛期を支えた主力の多くが去ったチームは世代交代の時期を迎えていた。アンリは8シーズンを過ごしたガナーズを離れ、07年6月にFCバルセロナと4年契約を結ぶ。
バルセロナの1年目はスペインのスタイルに戸惑いながら、30試合12ゴール9アシストとまずまずの成績。翌08-09シーズンにグアルディオラが監督に就任すると、アンリはかつてのポジションである左ウィングに配され、メッシ、エトーとともに3トップを形成。29試合19ゴール8アシストの活躍でバルサ3季ぶりのリーグ優勝に貢献する。
チャンピオンズリーグでも快調に勝ち進み、リヨン、バイエルン・ミュンヘン、チェルシーといった強敵を打ち破って決勝へ進出。決勝では前回王者のマンチェスター・ユナイテッドに2-0と完勝し、バルサが2年ぶり3度目の優勝を果す。
アンリはメッシの9ゴール5アシストに次ぐ5ゴール3アシストの活躍を見せ、自身初となるビッグイアーを手にした。バルサはコパ・デル・レイ(国王杯)も制し、スペイン初の3冠を達成する。
W杯予選のハンド事件
08年6月にはオーストリア / スイス共催のユーロに出場するも、フランスはグループリーグ最下位で敗退。故障を抱えるアンリは、1-4と敗れたオランダ戦で唯一の得点を挙げたのみだった。
同年9月からはW杯予選が始まるが、組み合わせに恵まれながら低調な内容。フランスはセルビアに続くグループ2位となり、アイルランドとのプレーオフに回ることになった。
ホームのサンドニで行なわれたプレーオフの第2戦、延長戦でギャラスのゴールが生まれフランスのW杯出場が決定。しかしこの場面で、「アンリのハンドによるアシスト」があったとしてアイルランドが猛抗議を行なうも、主審により退けられた。
だが試合後にアンリがハンドを認めるような発言をしてしまったため、アイルランドは再試合や特別枠による出場を求めてFIFAに提訴。事は大騒動へと発展していった。アイルランドの訴えは認められなかったが、FIFAの謝罪と解決金7億円の支払いで事態は収拾する。
このあと10年W杯南アフリカ大会に出場するも、内紛によるチーム崩壊で0勝2敗1分けの惨敗。先発を外れたアンリの出番は、2試合50分余りにとどまった。
W杯終了後、32歳で代表を引退。代表歴の13年間で123試合に出場し51ゴールを挙げた。これはオリヴィエ・ジルーに続く代表歴代2位の得点記録である。
10年7月には米MLSのニューヨーク・レッドブルズに移り、安定した成績を残して5シーズンをプレー。14年12月に37歳で現役を引退した。
引退後は指導者の道に進み、16年8月にはベルギー代表のアシスタントコーチへ就任。18年W杯ロシア大会のベスト3に寄与する。W杯後の10月には古巣モナコの監督に就任するが、成績不振により3ヶ月余りで解任となっている。